主語のないものは基本的にK.S(Konstantin Sergeevich Alekseyev (Stanislavski)[1863〜1938] )についての事柄です |
〜1903 | 1888年、家庭演劇〜アレクセーエフサークルを経て、芸術・文化協会創立。 この頃までに、コミッサルジェフスキィ、フェドートフ等との交わりから、『シチェープキンから受け継がれた、役を生きる芸術』と接し、徐々に芸術的見識を広げてゆくも、身に付いた『古い因習』はなかなか払い落とせなかった。その解決を求めた探求が、『演技者の文法』の発想に向かってゆく事となる。 1890年、マイニンゲン一座、ロシア巡業。この影響を受け、K.Sの初期の特徴である「専制的演出家」が形成された。またこの時期に、『古い因習』から逃れるための方法が自然主義・写実主義の傾向に向けられていった。 これは有名な『家の中の家』のエピソードを残すほどK.Sに染みつき、長いこと取り去ることは出来なかった。 1898年、ミネロビッチ・ダンチェンコと共にモスクワ芸術座創設。 芸術座は『皇帝フョードル』や『かもめ』『どん底』等で成功を博すも、一方では失敗作の上演も多く、やがて芸術的行き詰まりを感じることとなる。 |
1903〜1905 | ポワルスカヤ街のシアター・スタジオにてメイエルホリド等を援助し、新しい表現形式の探求を始める。しかし『演出家の手の中で粘土となった俳優』という結果を残し、スタジオは閉鎖。 1904年、芸術座、『チェーホフ小作品集』上演。この稽古の中で、文学的に傾きすぎる戯曲へのアプローチを否定。これはのちのテーブル稽古の否定につながってゆく。 |
1906 | 芸術座、初の海外巡業。ヨーロッパ各国を廻り喝采を博す。これ以降、モスクワ芸術座とK.Sの名は世界の演劇界に影響を与えることになる。 |
1907〜1908 | 『人生のドラマ』『人の一生』にて、それぞれ抽象的テーマ・象徴的神秘劇の立場から、『単純な写実的リアリズム』の否定と『演技者の文法』の各要素の探求。 この頃から幾つかの独特の用語を使い始める。 『人間の魂の生活を反映した、豊かなリアリズム(=純粋に外面的なだけの写実主義・自然主義ではない、人間の内面的、心理的・情緒的なリアリズム)』への回帰を提唱し『検察官』を上演。この稽古の記録にはすでに【注意の圏】や【貫通行動】の原形が見られる。 |
1909 | 『村のひと月』上演。この稽古あたりから、本格的にシステムの各要素が使われ始めた。 ゴードン・クレイグを芸術座に招いての『ハムレット』の稽古開始。 |
1910 | システムの要素の研究と共に、当時知られていた演技・演劇論の検証に着手。1922年まで断続的に続けられたこの作業は『演劇芸術の様々な傾向』として纏められた。(俳優修業の『演技が芸術である場合』の章の原形) スゥレルジーツキィ、この頃からアダーシェフ演劇学校でシステムの要素を取り入れたレッスンを開始する。 |
1911 | ゴーリキィと『劇芸術の法則』について話し合う。後にシステムの訓練の一つの特徴となる【即興性】に関する概念が形成されてゆく。 |
1912 | 約三年間に渡り断続的に稽古が続けられ上演された『ハムレット』だったが、クレイグの「俳優は自分(=演出家)の抽象的概念を具現化するだけの人形」と見なす考え方と、「俳優こそ劇芸術の中心であり創造者」と考えるK.Sの思想は、最後まで相容れぬものだった。 |
1913 | システムを用いた俳優教育の組織として、芸術座付属第一スタジオ開設。実地指導にはスゥレルジーツキィがあたる。開設メンバーには、ボレスラフスキィ、ワフターンゴフ、M・チェーホフ等がいた。このボレスラフスキィは、後のアメリカにおけるシステム普及に、良くも悪くも重要な位置を占める事となる。 芸術座、俳優修業の中でエピソードとしても書かれている『気で病む男』上演。この頃には既に【超目標】の概念も出来上がっていた。 ワフターンゴフ指導による、俳優志望学生のための研究劇場創立。これは後にワフターンゴフ研究劇場〜芸術座付属第三スタジオとなり、ワフターンゴフ記念劇場へと成長してゆく。 |
1914〜1915 | 第一スタジオ、『炉辺のこおろぎ(スシケービッチ演出)』『洪水(ワフターンゴフ演出)』の上演で大成功をおさめる。尚、1916年までに上演された第一スタジオの作品は、すべてスゥレルジーツキィの指導のもとに進められている。 『モーツァルトとサリエリ』の稽古において、【単位】を細かく分割しすぎることの弊害を身をもって経験する。そして「役に対する俳優の接近の仕方は具体的でなければならぬ」と、目標の性質に厳しい制限を加えることとなる。 |
1916 | スゥレルジーツキィ逝去。享年43。 F・コミッサルジェーフスキィ、『俳優の創造とスタニスラフスキィの理論』出版。 |
1919 | ボリショイ劇場の若手歌手達にシステムの実地講習を始める。これは1921年のオペラ研究劇場へと発展していった。この過程での経験が、システムにおける【テンポ・リズム】の重要性に結びつく事となる。 M・チェーホフ、論文『スタニスラフスキィ・システムについて』をゴルン誌に掲載。 ワフターンゴフ、演劇通信誌に『スタニスラフスキィ・システムについて書く人に』を発表。 |
1921 | K.S、病床のワフターンゴフと【グロテスク】について語る。この内容は1929年に『ワフターンゴフとの最後の会話より』として口述筆記されている。 |
1922 | ワフターンゴフ演出の『ガジブーク(ガビーマ研究劇場)』『トゥーランドット姫(第三スタジオ)』、1・2月に相次いで上演。この二作品によりワフターンゴフの名は更に高められるも、5月29日、ワフターンゴフ逝去。享年39の若さだった。 |
1922〜1924 | 芸術座、『皇帝フョードル』『どん底』『三人姉妹』『桜の園』等を携えて、ヨーロッパ・アメリカ巡業公演。各国、特に芸術座の公演に初めて触れたアメリカ演劇界は大きな衝撃と影響を受ける事となる。 1924年四月末、英語版『芸術における我が生涯』出版。この内容は様々な理由からK.Sの意にそぐわぬものとなったため、後のロシア語版では大幅な改訂を施しているが、結果的にはこの英語版は世界的な評判を呼んだ。 |
1926 | 『熱き心』上演。これはワフターンゴフと【グロテスク】に対する、K.Sの回答だと云われている。またこの頃から『ある演劇学校の生徒の日記』出版のために断章を纏め上げる作業が開始された。その第一部の英語版(An Actor Prepares)こそ1936年に出版されはしたものの、この作業は彼の没年まで続けられ、そして完了しなかった。 |
1927 | 『装甲列車14-69』上演。この稽古では「俳優が自分の好みに合うよう、あるいは自分が演じやすいように役を歪ませる」事に対する解決を行っている。 |
1928 | M・チェーホフ、ソビエト当局と衝突し亡命。これで第一スタジオ創設期の優秀な人材、スゥレルジーツキィ、ワフターンゴフ、チェーホフは、全てK.Sのもとを去ったことになる。 やはりアメリカに亡命していたボレスラフスキィより、アメリカ実験劇場での八ヶ月に渡るシステムの講習指導依頼が有るも、体調不良にて実現せず。これが実現していればアメリカにおけるシステムへの誤解も少しは緩和されていたかも知れない。 |
1930 | 芸術座、『オセロウ』上演。この上演はK.S自身が現場で活動できなかった事、K.Sの演出プランを芸術座がその舞台に移し得なかった事、主演レオニードフの広場恐怖症の発症等の様々な要因により失敗に終わったが、その稽古過程の教えと収穫は俳優修業第二部において活かされている。 |
1931 | ロシア・プロレタリア作家協会等より『システム』に対するイデオロギー的攻撃が始まる。 |
1935 | スタニスラフスキィ・オペラ・ドラマ研究劇場創設。 |
1938 | 演劇界の発展に最後の望みを託し、『リゴレット』の稽古にメイエルホリドを起用。『システム』と『ビオメハニカ』の統合かと物議をかもす。 8月7日、K.S逝去。享年75。俳優修業第一部ロシア語版が出版されたのは彼の死後だった。 |
1938〜 | 1939、K.Sが稽古を指導していた二作品、『リゴレット』がメイエルホリドの、『タルチェフ』がケドロフの手により、それぞれ上演される。 1948年、俳優修業第二部ロシア語版発行。 1949年、同英語版発行。 |
この項の参考資料 ◆芸術におけるわが生涯(上・下)/スタニスラフスキー著/蔵原惟人・江川卓訳/岩波書店 ◆スタニスラフスキィの生涯(=スタニスラフスキィ・システムの形成)/マガルシャック著/高山図南雄訳/未来社 ◆演劇の革新/ワフターンゴフ/堀江新二訳/群像社 ◆スタニスラフスキー伝 1863−1938/ジーン・ベネディティ著/高山図南雄・高橋英子訳/晶文社 ◆スタニスラフスキー講義・稽古の実際/アンターロワ/奥澤三郎訳/未来社 ◆稽古場のスタニスラフスキー/トポルコフ著/馬上義太郎訳/早川書房 ◆モスクワ芸術座/フレイドキナ著/馬上義太郎訳/未来社 ◆モスクワ藝術座五十年史/マールコフ、チューシキン著/野崎韶夫訳/筑摩書房 |
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