「最近、芸術座の舞台では纏まった芝居を見たことがない。私が観たものは、上手いか下手かの演技者、時には見事に仕上げられた場面だけであって、芝居として纏まったものにはお目にかかっていない。俳優も演出家も、この事を考えていないようだ。皆、戯曲も役も場面も「小さな単位に分割せよ」というK.Sの指示に従っているが、彼らはK.Sが、そんな手続きは一時的な方便にすぎぬと見なしていた事、バラバラにした単位の最後の仕上げはそれらを一つに結合すべきだと主張していた事を忘れている」
まだK.S自身の著作もなく、自分が明らかにした芸術全般の、ことに演劇の法則について彼自身一度も活字にしていないのに、いわゆる「スタニスラフスキィ・システム」についてのいろいろな見解が新聞雑誌や論文集に幾度も載るようになった。スタニスラフスキィの教義を批判する単行本さえ現れ、おまけにその著者は実に勝手気ままにその教義を解釈して、それを批判するのに汲々としている。 こういった類の論文や本が、K.Sと直に接して仕事をした者の手に入ると、彼らはただただ首を捻り、呆れ果て、K.Sの著作が印刷されるのを辛抱強く待つだけということになる。
批判の対象となるべきものがまだ世に出る前に出版されたこの類の批判的著作に対しては、真面目に扱う必要もないし寛大な気持ちで接しておけばいいが、スタニスラフスキィから直接手ほどきを受けた人が、その教義の実践的な一部を概略的に述べた雑誌論文などを見かけると、いささか悲しい気分になる。 悲しいというのは、希有の創造的直感で獲得され、多くの喜びと光を与えてくれた価値あるもの、貴重なものが、概要という無味乾燥の形式の中で十全には表現されえないからである。当の著作のない概要など何ものももたらしてはくれない。さらに深く究明する可能性が奪われているからである。 これは当の著作の計画とシステムに沿って構成されていなければかえって混乱した印象をもたらす事になるし、特にその著作の実践的な部分、更にはそのもろい構造から詳細で鮮明で全般的な記述が必須のものとして求められる部分が損なわれてしまう。
もしこれが実践的な指導書であるなら、その目的を果たしてはいない。スタニスラフスキィの教義の実践的な部分は雑誌の三〜四ページで述べられるようなものではないからである。(中略) もしこれがまだシステムに疎い人たちへの紹介の書なら、その人達は断片的な情報のせいで、システムについての正しくない偽りの観念を得ることになる。 もしこれがシステムの要約の書なら、ただただ誤りである。何故ならそれは系統化されておらず、生活によって錬成され、歴史的に形成されたプランからはほど遠いものだからである。システムは、全てがシステマティックに首尾一貫しているからこそシステムなのである。 もしこれが、スタニスラフスキィの教義の記録であるなら、指導者や生徒への(*筆者注 チェーホフからの)実践的助言、しかも全体の四分の三を占める助言など無用のものである。
アドラーはストラスバーグに、あなたは「感情の記憶」の機能を誤解してきたと云った。ストラスバーグは怒って、新しい「身体的行動の方式」を拒否し、アドラーが云われたことを誤解したか、そうでなければスタニスラフスキーが自分を裏切ってしまったかのどちらかだと判断した。とにかく彼は、これまで発展させてきた「システム」の解釈を修正する意志は全くなかった。(中略) 「システム」についてのアドラーの解釈は、1935年末ロシアを訪れ「身体的行動の方式」についてスタニスラフスキーと話し合ったハロルド・クラーマンによって裏づけられた。
ストラスバーグは必ずしも「感情の記憶」の練習問題を誤解していたわけではない。彼はボレスラフスキィとウスペンスカヤから伝えられた資料を使ったのだが、二人とも「身体的行動の方式」についての知識はなかった。
「あなたにとってシステムが不必要なら捨ててしまいなさい。システムの全ての要素は実地に試され、有効と認められた普遍的なものだが、これらの要素のバランスとそれらの強弱の割合は、時、場所、各人の必要に応じて変わるものなのです」