システムを巡る論争と俳優修業出版の背景について
解説室の【俳優修業】のところでも少し触れましたが、システムはその形成の時期から現在に至るまで、かなり誤解されたり歪曲した解釈をされている部分があるようです。
ここでは当時の出来事や背景と共に、それらの原因となったものを考えてみたいと思います。

(1)

まず一番大きな、そして他の要因にも影響を与えるものとして、システムの各要素を実地に検証していた時期に、それらがなかなか明確にされなかった事があげられます。
K.Sがシステムの各要素を具体的に使い始めたのは1907年頃からと推測されますが、当時それらは、まだ実践によって試されている時期でした。
従ってそれらは適宜修正されたり、破棄されたり、また新しい条件のもとに再検証されたりしながら確立していく訳ですが、それに初めて触れた人々にはさぞ理解しがたいモノだった事でしょう。
ましてK.Sは自分が発見したものを否定することにも躊躇しなかったので、自分が以前使用した訓練法を見て「どこのバカがこんな事を考え出したのだ?」と云ったという話は有名です。

そんな状況の中で、システムとその各要素を不完全に理解したまま(若しくは全く理解しないまま)、システムを教える人たちが出てきました。
ある芸術座の俳優のレッスンで【交感】の訓練に「放射線」をやることになり、「あらかじめ仲間内で打ち合わせて八百長をやり、大成功だった」と云う記述がゴルチャコーフの書籍に見られますが、教える側も教わる側も、この程度の認識しかなかった訳です。
上記の例は年代的にもう少し後の事になるのですが、逆に云えば、長い期間それだけ間違った解釈と訓練法が幅を利かせていたと云うことでしょう。

またK.Sと長年共に仕事をしてきた芸術座の俳優レオニードフは、後年次のように語っています。

「最近、芸術座の舞台では纏まった芝居を見たことがない。私が観たものは、上手いか下手かの演技者、時には見事に仕上げられた場面だけであって、芝居として纏まったものにはお目にかかっていない。俳優も演出家も、この事を考えていないようだ。皆、戯曲も役も場面も「小さな単位に分割せよ」というK.Sの指示に従っているが、彼らはK.Sが、そんな手続きは一時的な方便にすぎぬと見なしていた事、バラバラにした単位の最後の仕上げはそれらを一つに結合すべきだと主張していた事を忘れている」


【単位と目標】に関してもなかなか正しくは伝わらなかったようで、その結果がこのような風潮を生み出してしまったのでしょう。

また、テーブル稽古の廃止も、「考える俳優と演じる俳優の分離を生む」「俳優の個性から生まれる創造性を殺す事になりやすい」という二つの理由から否定されたのであって、役や戯曲の分析を否定するものではありません。
むしろそれらは個々の俳優レベルでしなければならぬ作業であり、また演出家と俳優の仕事は「俳優が本当にそれを求めている時」に初めて効果をもたらす、というのがK.Sの主張ですが、これも「放任主義の演出家」という誤った解釈にまで発展される事があるようです。


さて、話を戻しますと、「システムを理解していないシステム教師」が氾濫したことに加え、K.Sとは違う流派の立場に立つ人々からも批判的な論文等が出るようになりました。
既に芸術座とK.Sの名は広く知られていたので、あるものは「芸術座の上演=システム」として、又あるものは人づてに聞いた話をもとに批判を始めたわけです。
しかし当時の芸術座の傾向に一番否定的だったのがK.Sであり、また、システムの全体像はまだ明らかにされていませんでした。(実際にシステムの全体像が明らかにされるのは、数十年経ってからになるのですが…)
つまり、「システム」という言葉だけが独り歩きしてしまった訳です。

1916年にF・コミッサルジェーフスキィが『俳優の創造とスタニスラフスキィの理論』を出版、また1919年にはM・チェーホフが『スタニスラフスキィ・システムについて』という論文をゴルン誌に掲載します。
(コミッサルジェーフスキィの書籍に関しては、大げさなK.S賛礼という説と、システムへの批判という二つの説があります。私自身はその書籍を読んでいないのでどちらが正しいのか分かりませんが、その内容に関しては、K.Sがそのまったくの無理解に対して激怒のコメントを本の余白に書き込んでいる事実が証明してくれるでしょう)

それらを受けて、ワフターンゴフは『スタニスラフスキィ・システムについて書く人に』という小論文を演劇通信誌に発表します。

まだK.S自身の著作もなく、自分が明らかにした芸術全般の、ことに演劇の法則について彼自身一度も活字にしていないのに、いわゆる「スタニスラフスキィ・システム」についてのいろいろな見解が新聞雑誌や論文集に幾度も載るようになった。スタニスラフスキィの教義を批判する単行本さえ現れ、おまけにその著者は実に勝手気ままにその教義を解釈して、それを批判するのに汲々としている。
こういった類の論文や本が、K.Sと直に接して仕事をした者の手に入ると、彼らはただただ首を捻り、呆れ果て、K.Sの著作が印刷されるのを辛抱強く待つだけということになる。


という書き出しで始まるワフターンゴフの辛辣な小論文は、まずコミッサルジェーフスキィが如何にK.Sの主張とシステムの各要素・用語を理解しておらず、その言葉だけを憶測とねじ曲げた解釈で捉え、自身の理論を展開しているかを幾つもの例をあげて糾弾します。
そして、

批判の対象となるべきものがまだ世に出る前に出版されたこの類の批判的著作に対しては、真面目に扱う必要もないし寛大な気持ちで接しておけばいいが、スタニスラフスキィから直接手ほどきを受けた人が、その教義の実践的な一部を概略的に述べた雑誌論文などを見かけると、いささか悲しい気分になる。
悲しいというのは、希有の創造的直感で獲得され、多くの喜びと光を与えてくれた価値あるもの、貴重なものが、概要という無味乾燥の形式の中で十全には表現されえないからである。当の著作のない概要など何ものももたらしてはくれない。さらに深く究明する可能性が奪われているからである。
これは当の著作の計画とシステムに沿って構成されていなければかえって混乱した印象をもたらす事になるし、特にその著作の実践的な部分、更にはそのもろい構造から詳細で鮮明で全般的な記述が必須のものとして求められる部分が損なわれてしまう。


として、ゴルンに載せたM・チェーホフの論文に矛先を向けます。
ワフターンゴフとチェーホフは、俳優・演出家としても、また個人的な間柄としても大変親しかったので、余計にこのチェーホフの論文に遺憾の念を感じたのでしょう。

チェーホフの「断片的教授法と断片的訓練法」が大部分を占めるこの論文に対して、

もしこれが実践的な指導書であるなら、その目的を果たしてはいない。スタニスラフスキィの教義の実践的な部分は雑誌の三〜四ページで述べられるようなものではないからである。
(中略)
もしこれがまだシステムに疎い人たちへの紹介の書なら、その人達は断片的な情報のせいで、システムについての正しくない偽りの観念を得ることになる。
もしこれがシステムの要約の書なら、ただただ誤りである。何故ならそれは系統化されておらず、生活によって錬成され、歴史的に形成されたプランからはほど遠いものだからである。システムは、全てがシステマティックに首尾一貫しているからこそシステムなのである。
もしこれが、スタニスラフスキィの教義の記録であるなら、指導者や生徒への(*筆者注 チェーホフからの)実践的助言、しかも全体の四分の三を占める助言など無用のものである。


と、記述の時宣と共に、その内容についても厳しく論及しています。

このワフターンゴフの小論文が出てからも、「批判する実体」の無いところでの批判や論争は続くのですが、このシステムという言葉の独り歩きこそが、システムを誤解させる最大の要因であったわけです。



(2)

そしてもう一つの大きな原因として「各要素の、その時々における強調」があげられます。
先程も述べたように、システムの各要素は全て実地の検証によって試されてきました。
K.Sは子供のようなナイーヴさと集中力でそれぞれの要素の研究に熱中していたので、各要素の解説に「これこそ宇宙の真理」的な記述があり、それは俳優修業にも残っています。
そして実際の検証でも、ある公演の稽古ではAの要素について研究し、次の公演の稽古ではBの要素に…という具合だったので、Aの要素の検証に立ち会っただけの者にとっては、Aの要素こそが「システム」と考えてしまうのも、やむをえなかったのかも知れません。
繰り返しますが、まだシステムの全体像は霧の中という時期なのです。
「断片的な情報のせいで…」という、先にワフターンゴフが警鐘を鳴らしたような事態が生まれてしまうのです。

1923年、芸術座の巡業公演で衝撃を受けたアメリカの演劇界は、芸術座とK.Sの方法論に対して大きな関心を持ち、その情報を求めていました。
前年にアメリカへ亡命していたボレスラフスキィは、巡業公演でK.Sの助手をしたことも手伝って、K.Sの許可を得てシステムに関する一連の講話を行いました。(この内容は、後に「演技・入門のための六つのレッスン」として雑誌に掲載されました)
そしてボレスラフスキィと、やはり第一スタジオの女優であったマリア・ウスペンスカヤはアメリカ実験劇場(ラボラトリーシアター)を創立するのですが、しかし先の講話でも実験劇場でも、ボレスラフスキィは【感情の記憶(情緒的記憶)】を強調してしまうのです。

既にK.Sは、「俳優がある状況を本能的に捉えられない場合には、感情に直接働きかけるべきではない。情緒的記憶は無意識のうちに演技に持ち込まれるべきものなのだ(1916年)」として、この「危険な近づき方」を放棄していたのですが、ボレスラフスキィの影響により、この方法はアメリカにおける「システム風メソッド」の特徴となっていきました。
そして、この実験劇場のメンバーであった当時22才のリー・ストラスバーグにより、グループシアター〜アクターズ・スタジオへと受け継がれていくことになるのですが、これが十年以上経ってから大きな論争へと発展します。

1934年、当時グループシアターのハロルド・クラーマンの妻であったステラ・アドラーは、パリにいたK.Sを訪ねます。
アドラーは、自分がシステムを誤解しているのではないかと、K.Sに助力を求めてきたのです。
この後の二人の稽古の様子は俳優修業にも書かれていますが、アドラーが一番驚いたのは、K.Sが情緒的記憶の方法は放棄して身体的行動に力点を置いたことだと云われています。

そして問題の論争は、ベネディティのスタニスラフスキー伝を引用すると、

アドラーはストラスバーグに、あなたは「感情の記憶」の機能を誤解してきたと云った。ストラスバーグは怒って、新しい「身体的行動の方式」を拒否し、アドラーが云われたことを誤解したか、そうでなければスタニスラフスキーが自分を裏切ってしまったかのどちらかだと判断した。とにかく彼は、これまで発展させてきた「システム」の解釈を修正する意志は全くなかった。(中略)
「システム」についてのアドラーの解釈は、1935年末ロシアを訪れ「身体的行動の方式」についてスタニスラフスキーと話し合ったハロルド・クラーマンによって裏づけられた。


と記されています。
そして同書には、

ストラスバーグは必ずしも「感情の記憶」の練習問題を誤解していたわけではない。彼はボレスラフスキィとウスペンスカヤから伝えられた資料を使ったのだが、二人とも「身体的行動の方式」についての知識はなかった。


とあります。
しかし、少なくとも1913年まで芸術座に、1922年まで第一スタジオに籍を置いて活動したボレスラフスキィが「身体的行動の方式」を知らなかったなどという事や、「感情の記憶」の使用に対する制限を知らなかったなどという事は、様々な記録と照らし合わせても考えられません。
これはやはりボレスラフスキィ自身がシステムの全体像を把握できておらず、「感情の記憶」こそ「システム」の核心と理解していたという事ではないでしょうか。
そして、自分の知らなかった、「彼にとっては新しい教え」を検証しなかったストラスバーグにも、大きな問題があるといえるでしょう。
(実際、今から25年ほど前に出版されたアクターズスタジオの方法論と練習課題を紹介した本にも、超目標や貫通行動線に関する記述は一切無かったように記憶しています)


1906年にマックス・ラインハルトが、1931年にジョシュア・ローガンが、芸術座を手本とした劇団を作りたいと申し出たとき、K.Sは「真似をしてはいけない、自分の道を探しなさい」と答えました。
これは国や国民の文化的・気質的差異などを考慮しての発言だと云われています。
(尤も、既に当時の芸術座と一部の俳優達の芸術的行き詰まりに失望していたK.Sとしては、本当にこんなものを真似てはいけないと云う気持ちもあったかも知れませんが…)
そして「現状維持とは後退を意味する」と、場合によっては過去の成果も躊躇無く捨てて新たな探求に乗り出す姿勢は、K.Sとその後継者に共通する事柄です。

しかし、

「あなたにとってシステムが不必要なら捨ててしまいなさい。システムの全ての要素は実地に試され、有効と認められた普遍的なものだが、これらの要素のバランスとそれらの強弱の割合は、時、場所、各人の必要に応じて変わるものなのです」


というアドラーへの言葉を、都合のいいように解釈するのは大きな誤りです。
全てを理解した上で調整する事と、知らないもの・わからないものは切り捨てるという事は大違いで、 特に様々な「システム」に関する書籍やその関連資料が参照できる現在では、それらの実践による再検証は最低限必要な作業であると考える次第です。


ともあれ、このようにしてアメリカにおけるシステムの誤解と論争が起こったわけですが、これはシステム黎明期における、「システムの全体的バランスを把握できぬままの、ある要素の排他的強調」が原因となった事は明らかでしょう。
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