スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 006〜010

03/06/10配信 006号

大俳優は感情で一杯であるべきだ。殊に彼は、自分が描いているものを感ずるべきである。
彼は情緒を、単に役を研究している間に一、二回感じるだけではなく、それが一回目であろうと千回目であろうと、役を演じる度毎に多かれ少なかれ感じなければならないのだ。


今回は直感的に分かりやすい言葉を選んでみました。
これは俳優修業の中で紹介されているトマソ・サルヴィニの言葉です。
サルヴィニ(1829-1916)はシェイクスピア劇で世界的名声を博したイタリアの名優で、オセロウ・ハムレット・リア王・ロミオなどが当たり役だったと記録されています。
特にオセロウ役の解釈と緻密な演技プラン、そこから生み出された形象は有名で、若き日のスタニスラフスキィに多大な影響を与えたことが「芸術における我が生涯」の中にも書かれています。

この言葉にはシステムの元となった演技流派(=「役を生きる芸術」)の本質が述べられています。
冒頭の「感情で一杯であるべきだ」「感ずるべきである」という主張こそが「役を生きる芸術」の主張であり、「〜役を演じる度毎に多かれ少なかれ〜」という部分では、それが如何に困難なものかを物語っています。
そしてシステムは、その困難な課題を解決すべく試行錯誤する中から生まれてきたのです。


#「役を生きる芸術」とは違う立場に立つ演技流派については、ここでは言及を避けたいと思います。
いずれ機会が有れば、それらの流派(及びそう思われているもの)の主張と、それに対するKS派の見解なども載せたいと思いますが、現時点では話の内容が逸れ過ぎてしまうためです。
03/06/20配信 007号

【与えられた環境】とは、戯曲のストーリー・その色々な事実・出来事・時代・行動の時刻や場所・生活の諸条件・俳優や演出家の解釈・ミザンセーヌ・演出・セット・衣裳・小道具・照明・音響効果など、俳優が形象を創造するにあたって考慮すべきものとして、彼に与えられている一切の環境のことである。


今回の言葉は、過去に配信したメルマガの中にも何度か出てきたシステム用語で、これはあらゆるシステムの要素と結びついています。
『用語解説室』にも書きましたが、【与えられた環境】には二つのニュアンスがあると考えた方が理解しやすいと思います。

一つは小さな意味での【与えられた環境】であり、これは戯曲や役の設定、役作りのための補足的考証等で、【前提条件】と呼ばれることもあります。
簡単な例を挙げれば、自分の役はどんな人で、相手役は自分とどんな関係にあって、時間や時代はどうなっていて、その時代や地域にはどんな特徴や習慣があって…等々です。

もう一つは、もっと大きな意味での【与えられた環境】であり、これには先ほどの小さな意味での【与えられた環境】に、『俳優が、創造・表現をする事に関して考慮しなければならない要素』が加えられます。
これも例を挙げれば、或る同じ楽しいシーンを演じる場合でも、シリアスなドラマとコメディとミュージカルでは創造される形象や表現方法が異なると云うことです。
また、同じ芝居や台詞でも、演出の指示やキャメラのカット割りによって、表現方法やきっかけが変わる場合があります。
この【大きな意味での与えられた環境】は、パースペクティブというシステムの要素と深く結びついているといえるでしょう。
つまり、完全な意味での【与えられた環境】とは【役の人物への与えられた環境】プラス【演技者への与えられた環境】とでも云えばいいでしょうか。

ただし【大きな意味での与えられた環境】は、必然的に【小さな意味での与えられた環境】を内在しているので、まずは【小さな意味での与えられた環境】を自分のものとする能力を身につけなければなりません。
これが出来ないと、ただ段取りを追うと云うことになってしまうでしょう。
03/07/01配信 008号

【もし】の効果の秘密は、何事も我々を強制しないという事実にある。逆にそれはその正直さで以て俳優を安心させ、仮定された状態に信頼をおくように彼を力づけるのである。
俳優のほうは、自分を強制したり、仮定を現実として受け入れようと努力する事もなく、ただ仮定を仮定として受け入れるにすぎない。
【もし】は内部のリアルな活動を呼び起こすのだが、それを自然な手段でもって行うのだ。
そしてその内部の活動は、俳優を行動へと駆り立てるのである。


【もし】(魔法のもし)は【与えられた環境】と共に創造過程の口火を切るもっとも基本的で重要な要素で「magic if method」と呼ばれるものです。
この「magic if method」を正確に定義するとかなり複雑になってしまうのですが、簡単に云うと「もし自分がこれこれの与えられた環境に置かれたなら、いったいどうするだろうか?」と云う、役への近づき方です。

これは身体的行動と共にシステムの中でも最も有名な要素なのですが、有名なぶん、システム諸要素の不理解からくる誤解も多いようです。
一番多いのが「これこれの状況で、テキストにはAと云う行動をとると書いてあるが、自分ならBという行動をとる。これでは役に立たないではないか」と云うものです。
(「*と云う行動をとる」と云う部分は「●●という台詞(言葉)を言う」とか「●●という気持ち(感情)になる」と置き換える方が分かりやすいかもしれません)

こういう意見に対しては、苦笑しつつ、システムにおける【与えられた環境】や【自分】という言葉の意味から解説しなくてはなりません。

本マガジンをお読みの方ならすでにお分かりの事と思いますが、まず【与えられた環境】を正しく理解しなくてはなりません。
【与えられた環境】(前号の解説にもある【小さな意味での与えられた環境】でさえも)とは、「これこれの状況」の事ではなく「これこれの状況で、テキストにはAと云う行動をとると書いてある」ことを意味します。
つまり、ある質問に自分ならYESと答えるがテキストにはNOと書いてあったなら、NOと答える理由や動機を探しだし(=テキストを消化し)、正当化しなければならないと云うことです。

この作業を【役と俳優の類似性】を探すとか【役と俳優の血の繋がり】を得るとか云うのですが、これが出来た時に【自分】という言葉の意味も変わってきます。
最初が「演技者として全く個人的な意味での自分」だったのに対して、後では「演技者と役が融合した意味での自分」となるのです。


この言葉の中で、見落としがちですが重要な点は「ただ仮定を仮定として受け入れるにすぎない」と云うことです。
嫌らしい欲が出ると、リアルな感情を欲するあまり「仮定を現実として受け入れ」たくなり、感情のための感情を追うことになってしまいます。
結果、創造過程の自然の法則・自然の本性は、俳優に手痛いしっぺ返しを食らわせることになるのです。
03/07/11配信 009号

今まで私は『もし』の効用を我々の流派の創造における二つの主要原理と結びつけて説明してきた。
しかしそれは、第三の原理ともっと堅く結び付いているのである。我々の偉大な詩人プーシキンが、演劇に関する彼の未完成の論文の中でそれについて書いている。
情緒の誠実なこと、与えられた環境で真実だと思われる感情、それが我々が劇作家から求めるところのものである』と。
私はそれこそまさしく、我々が俳優から求めるところのものだ、と付け加える。


少し順序が前後しますが、今回は【もし】とシステムの三つの基本原理について述べられている、 俳優修業の中でのトルツォフの言葉です。
三大原理の解説はここでは省きますが、今回の言葉はプーシキンの教えを受け継いだものです。
プーシキン(1799〜1837)は『エヴゲーニィ・オネーギン』や『大尉の娘』などが有名で、ロシアリアリズム文学の基礎を確立し、ロシア文学の母と呼ばれています。
そして、プーシキンがいつの時代にも支持されるのは、その作品が常に生きた人間の感情で貫かれているからだと云われています。

この教えは作家・劇作家にとって大変重要なものです。
よく、ストーリーを面白くする為やある言葉を使いたいが為に、テキスト自体に無理を強いる人がいます。
場合によってはプロットの一貫性が損なわれる場合さえ有ります。
『狙い』と云われるものですが、もし演出として何かを狙うならば、それは虚構世界の中にきちんと取り込まれ、正当化されていなくてはなりません。
奇をてらうだけではダメだと云うことです。
それが出来ていないと「この場面でこの人物がこの台詞は云わないだろう」と云うことになってしまいます。
読んでいる人はテキストの中で起こっている出来事に疑問を抱き、関心はその世界の外に向いてしまいます。
あるいは、虚構世界そのものが崩壊してしまう場合もあるでしょう。
虚構世界では、それが虚構であるが故に、現実世界よりもよけいに真実が必要なのです。

この真実のことを、芸術の世界では真の意味でのリアルと云います。
内的な、若しくは本質的なリアリズムです。
我々の流派の芸術では、リアリズムを現実主義・写実主義と訳すのは誤りです。
それは真実性であり、誠実性であり、迫真性なのです。
この辺りのことは【信頼と真実の感覚】という要素の中でまた触れると思いますが、もしテキストがそんな状態では、そこから生まれてくるものの結果も然りでしょう。

しかし、逆にしっかりと練られたテキストであっても、演じる側にそれを消化し正当化する能力がなければ、結果は同じ事です。
つまりこの【情緒の誠実なこと、与えられた環境で真実だと思われる感情】という原理は、劇作家にとっても俳優にとっても甚だ重要なものなのです。
03/07/22配信 010号

とは云え、諸君が演技のこの第三の原理を使う場合には、諸君自身の感情のことを気にかけてはならない。
なぜならそれは大部分が潜在意識的に起こるもので、意識的な直接の命令には従わないものだからだ。
諸君の注意を全て【与えられた環境】に向けたまえ。
それはいつでも、手の届くところにある。


今回配信の言葉は、中略がありますが、俳優修業で述べられている前回の言葉の補足になります。

システムでは創造過程の原理として
一、創造と芸術とにおける能動性
一、意識的技術を媒介とした無意識的創造
一、情緒の誠実なこと、与えられた環境で真実だと思われる感情
の三つをあげています。
能動性の原理については【内的及び外的な行動】として度々触れてきましたが、前回の言葉と今回の言葉が、あとの二つの原理を端的に解説しています。

衣装や小道具と違って、感情は他人から借りてくる訳にはいかないので、俳優は役を表現する時には自分自身の感情を使わなければなりません。
それが誠実な情緒の原理なのですが、それに直接近づこうとすると失敗します。
喜ぶ・悲しむ・怒る等の感情は、意識してそうするものではなく、結果としてそうなるものです。
つまり意識の領域で起こるのではなく、潜在意識の領域から訪れるものなのです。

俳優という職業は、ある瞬間にある感情を求められます。
それが潜在意識の領域でしか起こらないものならば、偶然の一致でも起きない限り、俳優にはその課題を克服する事は不可能と云うことになってしまいます。

しかし抜け道があります。
しばしば意識は潜在意識の性質や方向性に影響を与えるので、この間接的な方法を利用して潜在意識に近づこうというもので、これが『意識的技術を媒介とした無意識的創造』と云われる原理です。

その意識的技術の出発点・土台となるものが【もし】であり【与えられた環境】であるという訳です。
そしてそれらは「手の届くところ」、つまり意識の領域にあるのです。
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