スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 011〜015

03/08/01配信 011号

【もし】は出発点であり【与えられた環境】は展開だ。
それが必要な刺激を与えるという性質を持つべきならば、一方は他方無くしては存在することができない。けれども二つの機能は幾らか違うのである。
【もし】のほうは眠っている想像力に一撃を加えるのだが、【与えられた環境】のほうは【もし】そのものの土台を築くのだ。
【もし】の力はそれ自身の鋭さに依存するばかりではなく、【与えられた環境】の輪郭の鮮やかさにも依存するのである。


これは【もし】と【与えられた環境】の密接な関係を教示した言葉です。
『出発点と展開』の例えに関しては【貫通行動線】と云う要素を理解すると簡単に納得できるのですが、ここでは単純な例をあげて解説しましょう。

『もし、あまり馴染みのない部屋で急に停電になり、真っ暗闇になってしまったとしたら…』というエクササイズがあったとします。
「さて、上記の仮定がもし現実に起こったとしたら、あなたならどうしますか?」と云うのが出発点です。
そしてここでの【(小さい意味での)与えられた環境=前提条件】は、『馴染みのない部屋』と『真っ暗闇』と云う事にしましょう。

多くの人が、先ず明かりを確保しようとするでしょう。(これが第一の行動です)
(実際には『事態を理解しよう』と云う本能的な内的行動が先に来るでしょうが、解説としての例題のため、ここでは省略します)

煙草を吸う人なら、ライターを着ければとりあえずの明かりは確保できます。携帯電話の画面でも、『真っ暗闇』なら多少の役には立ちます。
これで『明かりを確保したい』と云う最初の【目標(課題)】はクリアできました。
と同時に、【与えられた環境】にも若干の変化がありました。
『真っ暗闇』から『真っ暗闇の中でも、僅かな明かりがある状態』になったのです。

さて、次はどうするでしょう?
ある人は、その明かりを頼りに外に出ようと、ドアの方へ行こうとするかも知れません。
別の人は状況を把握しようと、携帯電話で外部との連絡を取ろうとするかも知れません。
あるいは、また別のことをする人もいるでしょう。(これが第二の行動です)
そしてその結果は、『ドアが開かない』『電話が通じない』等と云う事に仮定しましょう。

ここにまた、【与えられた環境】の新たな条件が加わったことになります。
『馴染みのない部屋』『真っ暗闇の中でも、僅かな明かりがある状態』の二つと『ドアが開かない』若しくは『電話が通じない』の三つです。

次に第三の行動として、先ほどドアに向かった人が電話をかけ、電話をかけた人がドアに向かって結果が同じならば、前提条件は上記四つのすべてということになります。
そして、『もし、あまり馴染みのない部屋で急に停電になり、真っ暗闇になってしまった。ライターの僅かな明かりはあるが、ドアは開かず、携帯電話も通じないとしたら…』と云う、新しい出発点が生まれるのです。

このように【もし】がリアルな行動を呼び、その結果は、変化した新しい【与えられた環境】としてストーリーを展開させ、そこに新しい【もし】が生まれます。

そしてまた、【与えられた環境】が成長してその輪郭がはっきりすればするほど、そこから生まれる【もし】とそれに続く【目標】や【行動】も、(少なくとも俳優にとっては)魅力的で力強いものになるのです。

(この例は、多くの要素や変化を省いた非常に単純なものですが、この即興、若しくはエチュードが誠実に出来たならば、これらの一つ一つの行動から出来上がった線を『【身体的行動】のとぎれぬ線』と呼びます。
戯曲の場合には【貫通行動線】と云うことになりますが、その場合は他の重要な要素も絡んでくるので、またいずれ、その時期が来たら解説したいと思います)

03/08/12配信 012号

俳優は何よりもまず、意識的に正しく創造するべきである。何故ならばそれこそが『インスピレーションに通じる、潜在意識の開花のための道』を準備してくれるからだ。
俳優が役の生活において意識的な創造の瞬間をより多く持てば持つほど、彼はインスピレーションに恵まれる機会をより多く持つだろう。
上手い事も有ろうし、まずい事も有ろう。重要な事は正しく演じるという事だ。
正しく演じるとは、間違いや曖昧さが無く論理的で一貫しているという事、役に合わせて考え、努め、感じ、行動するということである。


この言葉はインスビレーションとそこへ向かう創造過程のあり方を解説したもので、03/06/10配信の006号の内容に続くものです。

俳優修業では、006号の『〜それが一回目であろうと千回目であろうと、役を演じる度毎に多かれ少なかれ感じなければならないのだ』に続いて、

我々にインスピレーションを与えてくれるものは我々の潜在意識だけだ。ところが不幸にして、これは我々の意のままにはならないのである。我々はその領域に踏み込むことは出来ない。我々がそこへ立ち入ろうとすると、潜在意識は意識と化して死んでしまうのである

幸いにして抜け道がある。直接的な近づき方の代わりに間接的な近づき方をすれば、解決がつくのである。人間の魂には意識や意思の云うことをきくある要素がある。そういう近寄りやすい部分が、今度は不随意的な精神過程に働きかけることが出来るのだ

と、意識的に、直接それに到達することは不可能とした上で、間接的な近づき方を解説しています。そして、

勿論それには、いたって複雑な創造活動が必要である。潜在意識を創造活動に呼び醒ます為には、特殊な精神技術が必要なのだ。いつでも潜在意識的に、インスピレーションでもって創造するなどと云うことは出来るものではない。そんな天才はこの世に存在しないのである。そこで我々の芸術は、何よりもまず、意識的に、正しく創造すべき事を教える

という、今回の言葉に続きます。

『正しく演じるとは〜』以降の太字の部分は、俳優修業の中でシチェープキンの教えを引用したものです。
シチェープキン(1788〜1863)はロシア演劇におけるリアリズムの創始者として名高い農奴出身の名優で、「検察官」の市長、「知恵の悲しみ」のファームソフ等が当たり役であったと記録されています。
モスクワ小劇場(マールイ劇場)は、『シチェープキンの家』と呼ばれるほどです。
余談ですが、芸術座はKSでもダンチェンコでもチェーホフでもなく、『ゴーリキーの家』と呼ばれていました。

この『間違いや曖昧さが無く論理的で一貫しているという事』と云う部分は【身体的行動の論理と一貫性】【感情の論理と一貫性】として、システムでさらに詳細に探求され実践されています。

そして、『役に合わせて考え、努め、感じ、行動する』ためには、【もし】と【与えられた環境】が必須の条件となることは云うまでもありません。
03/08/22配信 013号

『生きる』ということがなくては、真の芸術は有り得ない。
それは感情が物を言うところに始まるのだ。


俳優修業では、『演技が芸術である場合』という章の中で、演技の手法・性質(若しくは特徴)を【役を生きる芸術】【再現の芸術】【機械的演技】【観念的なゴム版の演技】【芸術の利用】と、大きく五つにわけて解説しています。
今回の言葉は、【役を生きる芸術】と【機械的演技】を隔てる、一番簡潔な言葉でしょう。

上記、五つのそれぞれについては用語解説室で順次取り上げていきたいと思います。
今回は【機械的演技】を追加しましたので参考にして下さい。

尚、『演技が芸術である場合』の章の最後は、

しかしながら我々が、芸術をいくつかのカテゴリーに分類できるのは、ただ理論上のことにすぎないのだ。
実地ではあらゆる流派の演技が混在する。
偉大な芸術家が人間的弱点のために機械的演技に成り下がったり、機械的な俳優がしばらくは真の芸術の高みに昇ったりするのを見かけると云うことは、不幸にして本当なのである。
肩を並べて、我々は、役を生きているところ、機械的演技のところ、利用のところを見かけるのだ。
だからこそ俳優にとっては、芸術の限界を見究める事がはなはだ必要なのである。


と、結ばれています。
03/09/02配信 014号

鏡を使うのは非常に危険である。
それは俳優に、彼自身としても役としても、彼の魂の内面よりは、外面に注意することを教えるものだからだ。


これは、表情やポーズの研究をしていて、自分が表現しようと思っているものが外部にはどんな印象を与えるのかを確認するために鏡を使い、【再現派の演技】と云うものになってしまった生徒への警告として云われた、俳優修業の中の言葉です。

鏡を見ながらそういった研究をすると、役の人物の目的が、『自分が演じている人物の印象を確認する』という俳優の個人的な目的にすり替わってしまいます。

例えば、『何かに、愛情にあふれた眼差しを注ぐ』というシーンを、鏡を使って練習したとしましょう。
本来そのシーンでは、対象となるものに対する何らかの思い、つまり「ずっと●●を見守っていたい」だとか「もっと●●の力になりたい」「もっと●●を理解したい」等というような内的な能動性があったはずなのに、いつの間にかそれが『自分の表情は、そのシーンで要求されているものを満たしているか確認したい』という、役とは合致しない、俳優としての個人的な目的にすり変わり易くなってしまうのです。
そして、役の人物とは無関係の要素が入り込む程に、俳優と役はどんどん引き離されてゆくわけです。
これは、台詞や語りの稽古の場合も同じです。

肉体訓練として、筋肉のコントロールの確認には鏡は役に立ちますが、そこに役としての感情が(つまりは【行動】が)伴う場合には、鏡はむしろ訓練の邪魔をするばかりです。
現在では家庭用のビデオカメラも普及しているので、自分の演技の外的側面の研究にはビデオカメラを使って下さい。
これなら演技をしながら確認すると云う名人級の難易度の課題が必要ありませんし、また、研究には大いに役立ちます。

尚、【再現派の演技(再現の芸術)】については用語解説室にアップしましたので、参考にして下さい。
03/09/12配信 015号

それこそ一番悪いことは、紋切型がまだ生きた感情の詰まっていない役のあらゆる隙間を埋めようとする事だ。
そればかりではない。それは感情よりも先に闖入して、道を塞いでしまう事がよくあるのだ。
俳優がそういうものから厳しく身を守らねばならないのは、その為なのである。


俳優が役を準備する(及び実際に役を創造する)過程において陥りやすいのが、【最少抵抗線】と呼ばれる状態です。
(最少抵抗線については用語解説を参照して下さい)
今回の言葉も【最少抵抗線】に関係するものの中の一つで、【正しく演じる】事が出来ない場合に起こりがちな紋切型への傾向を戒めたものです。

俳優の仕事には、必然的に『表現する』と云う部分が含まれます。
ところが、役の準備が不十分では『表現するべきもの』自体が出来上がっていません。
何かを表現しなければならないのに、肝心なその『何か』がないわけです。
しかし俳優は、用意・スタートがかかれば表現をしなければならないので、手っ取り早くそれらしく見せる方法、つまり紋切型(この場合はゴム判も含む)に頼ろうとするのです。

感情より先に紋切型やゴム判が俳優にとりついてしまうと、感情の生まれる土壌を破壊され、感情がやってくる道を塞がれてしまいます。
そして、ひとたびそういう状態になってしまうと、これを払い落とすには大変な労力を必要としますし、もしそういう過程が習慣化されてしまったなら、俳優としての将来への道も塞がれてしまうことになりかねないのです。
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