スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 016〜020

03/09/22配信 016号

芸術における己を愛してはならない。己における芸術を愛せ。


もしかしたらこの言葉は、K.Sの教えの中で一番有名な言葉かも知れません。
システムには俳優術やその訓練法と云った側面と共に、劇場や劇芸術家のあり方と倫理の側面があります。
K.Sは、この双方の条件が整って初めて、創造的な芸術活動が生まれると説き、特に倫理面に関しては芸術座年鑑等に寄稿した小論文で、また俳優修業の中でも特に一章を設けて厳しく律しています。

劇場には汚れた足で入ってはならない。泥や塵は入る前に払い落としたまえ。
生活を損ない、芸術から注意を逸らせるつまらない心配や、いざこざや、エゴや、不快などはオーバーシューズと共に玄関で脱ぎ捨てたまえ。
劇場にはいる前に痰を吐き出したまえ。そしてひとたび中に入ったら、もう決して吐かないようにしたまえ。
遅刻をして、仲間の創造的状態を壊さないようにしたまえ。
個人的虚栄心が、集団的創造を台無しにしないよう注意したまえ。
等々ですが、これらの基本的態度を『芸術への奉仕』と表し、その最も根本となるものが今回の言葉『芸術における己を愛してはならない。己における芸術を愛せ。』なのです。

#芸術だの奉仕だのという言葉を使うと非常に堅苦しい印象を受けますが、もっと気楽に考えて下さい。
芸術とは小難しく難解なものではなく、親しみと暖かみがあり、人の中で永遠性を持って生きる近しいものであり、もっとぶっちゃけた云い方をすれば、最初は単純に、感動したり笑ったり出来る良い芝居と捉えてもらってもかまわないと思います。
また『芸術への奉仕』も『良心的俳優が、よりよいものを目指す姿勢』とでもした方が、堅苦しくなくて良いでしょう。



さて、ここ数回、いくつかの演技の流派という分類の解説をしてきましたが、今回の言葉は【芸術の利用】を戒めた言葉でもあります。
【芸術の利用】については解説室を参照して頂くとして、この場合は、
芸術における己を愛してはならない。=上演を利用して、自分自身の個人的虚栄心を満足させることが眼目であってはならない。
己における芸術を愛せ。=自分の作り上げた形象とその創造過程・創造能力にこそ価値を見いだしなさい。
とすれば分かりやすいかと思います。
03/10/03配信 017号

何事も、内面的に【経験】していないものに、強いて外的表現を与えようとしない事だ。
内的真実の上に形成された役は成長するが、紋切型やゴム判は萎縮するだろう。


【体験】とは『役の心理や情緒など(と類似した心理や情緒など)を、俳優が自分自身の心理や情緒などとして体験する』事を意味し、役を生きる芸術の核心ともなるものです。
そのためには【正しく演じる】ためのいたって複雑な創造過程が必要であるという事を 03/08/12配信の012号でも述べましたが、今回の言葉はその創造過程を台無しにしないための、一つの具体的な教えです。
K.Sは逆の云い方で
俳優は、常に内面的なものから役に近づくべきである。
と、ことあるごとに教示しています。

ただし【体験】を獲得すること自体の難易度がかなり高いので、俳優が行動を忘れ、その目標が『体験すること』にすり替わってしまわないように注意することが重要です。
ワフターンゴフも、生徒にあてた初期段階の稽古を指示する手紙の中で
慌てずに、輪郭からきちんと決めていきなさい。体験はいりません(それが自ずとやってくるなら話は別ですが)。
とわざわざ書いているほどです。

無理をして性急に結果を求めようとせず、正しい創造過程を確実に辿ることによってのみ、芸術的創造のたかみに達することが出来るということを忘れないでください。


追記 2005/03/019
最近よく訊かれる質問に対する回答です。

よく「形からではなく感情から入れ」という言葉を使う人がいます。
しかしこの言葉、使う方も聞く方も正しく理解していないと大きな弊害があるので、少し解説したいと思います。

この言葉の真の意味は「役の外形(身振り・仕草や声色・口調等)から役を形成していくのではなく、戯曲を通して役の人物の【与えられた環境】や【目標】等を研究し、心理や情緒の側面から役を形成し始めなさい」という意味です。
、 (これは、その方が邪道に陥る危険性が少ないからで、勿論正しい外的側面から役に近づくことも可能です)

しかし上記の言葉の意味を取り違え、感情を生み出す土壌も整っていないのに「いきなり感情を体験する(若しくは表現する)」ことを目指す人がいて、結果はまず失敗に終わります。
ですから「感情から入る」という言葉の本当の意味は、「自然にその感情が生まれるような、様々な準備をするところから始める」という事を理解し、実践して下さい。
03/10/14配信 018号

舞台には、事実というようなものは一つもない。
芸術は劇作家の作品がそうあるべきなのと同じく、想像力の産物なのだ。
俳優の使命は、自分の技術を使って戯曲を演劇的リアリティに転化させるということである。
その過程においては、想像力がとてつもなく大きな役割を演ずるのである。


前回の補足説明の中の『輪郭から決める』という言葉について御質問を頂きました。
これは【与えられた環境】の中で【もし】を利用しながら、【身体的行動】の【小さな真実】を見つけだしていくという作業を指します。
(厳密には、目標の選定、ポド・テキストの研究等も関わってきますが、問題が複雑になるので今は触れないことにします)

ちょうど演技の種類についての解説が一区切り付いたところなので、今回は【想像力】というシステムの要素に関する言葉をとりあげてみました。

俳優の仕事は、よく氷山に例えられます。
氷山は、見えている部分の何十倍もの部分が海中に沈んでいます。
逆の云い方をすれば、海中の部分があるからこそ、海面に浮いていられる部分があるわけです。
俳優の個々の台詞や仕草はこの海上に浮いている部分と同じで、その海上に見えている部分(表現する部分、若しくは、しなければならない部分)を生かすためには、氷山の海中部分に相当するものが必要となります。
つまり俳優は、氷山の見えている部分だけではなく、氷山全体を創造しなければならないという例えです。

さて、この見えている部分というのは、基本的には戯曲に書いてあります。
問題は見えていない部分で、これをつくれるか否かによって、またその度合いや質によって、見えている部分の出来が左右されてしまいます。
薄っぺらいだとか、含蓄があるとか、ステロタイプだとか、趣があるとか、全然分かっていない…、とかです。

この見えない部分の研究のためには【与えられた環境】と【もし】が大活躍するのですが、この二つの力自体の源となるのが【想像力(創造的想像力)】というわけです。

想像力やその他の要素については今後順次とりあげていきますが、最後に、見えない部分の研究の必要性について、俳優修業に大変分かりやすく解説されている部分があるので引用しておきましょう。
劇作家は、俳優が戯曲について知らなければならない事を、全て教えてくれるだろうか?
君は百ページで、劇中人物の生活の十分な叙述をすることが出来るかね?
たとえば作者は、戯曲が始まる前に起こった事の十分なディテールや、それが終わってから起こる事や、舞台の背後で進行している事の全てを君に教えてくれるだろうか?

劇作家というものは、説明にかけては締まり屋であることが珍しくない。
テキストには「前場の人々及びピーター」とか「ピーター退場」としかない事がある。
しかし人は、虚空から現れたり虚空に消えたりすることなど出来やしない。
そして俳優は、『ドアを開けて部屋に入る』といったような至って単純な行動でさえも、自分は誰で、どこから来て、何のためにそれをするのかということが分かっていなければ、それを正しく演じることは出来ないのだ。
人間は、ただ『彼は起きあがる』とか『彼は笑う』とか『彼は死ぬ』とかいったような、正当化されていない漠然とした行動は決して信じないのである。

またほとんどの戯曲では、特徴にしろ『見たところ気持ちのいい青年、しきりに煙草をのむ』といったような、簡潔な形で与えられるにすぎない。
その人物の完全な外的イメージや、態度や、歩きつきを創造するための十分な根拠には、ほとんどなりえないのだ。

それでは台詞についてはどうだろう、単にそれを覚えるだけでいいだろうか?
与えられているものは劇中人物の性格を描き出し、彼等の思想や、感情や、衝動や、行為の、あらゆる陰影を与えてくれるだろうか?
いや、これは全て俳優によってより豊かに、より深くされなければならない。
この創造過程においては想像力が俳優を導くのである。
(抜粋・構成)
03/10/24配信 019号

「何のために君はマッチが欲しいのだ?」
「火をつける為です」
「暖炉は紙で出来ているんだぜ、君は劇場を焼き払うつもりだったのかい?」
「ぼくはその芝居をしようとしただけです」
「芝居で火をつけるなら、あるつもりのマッチで十分だ。まるでマッチをする事が眼目みたいだねぇ。
君がハムレットを演じて、その復讐を遂げる瞬間に本物の剣が必要だろうか? それがなければ芝居を続けられないだろうか?
剣が無くても王を殺す事は出来るし、マッチが無くても火をつける事は出来る。燃え上がる必要があるのは、君の想像力なのだ


今回の配信分はiモードの250文字の制限から状況説明もない会話部分だけのおかしなものになってしまいましたが、これは俳優修業の『行動』という章に描かれている、暖炉に火をおこすというエチュードのレッスン風景の一齣で、感覚的には大変分かりやすいと思います。

俳優修業の章立ては、そのほとんどにシステムの各要素の名前が使われていますが、実際にはそれぞれの要素だけを述べている章はありません。
『行動』の場合は特にそういう傾向が有るかも知れませんが、例えば今回の言葉の中にも【目標】【信頼と真実の感覚】【想像力】の教えが含まれています。
これは、創造活動の要素というものは単体で活動するのではなく、それらは相互に依存し合い、硬く結びついているためです。

演技者はそれらの要素をことごとく自分のものとした上で、あらためてそれらにいちいち注意を払うことなく、それらが統一され、自動的に活動するすべを獲得しなければなりません。
K.Sはそれを、

諸君がなしうるのはそれが第二の天性となり、俳優としての諸君がそれによって舞台のために(各々の役とその表現のために)絶えず変形させられるほど、それが有機的に諸君の存在の一部となるまでそれを同化し、諸君の血肉と化すことだ。
それは多くの部分として習得され、次いで綜合されて一つの全体とならねばならぬ、ひとつの纏まったシステムなのである。
と語っています。

尚、今回の会話の内容は普通に考えればごく当たり前の、もしかしたらバカバカしい程のものかも知れません。
しかしいざ演じるとなると、その当たり前の事が簡単には出来ないという事もまた事実なのです。
03/11/04配信 020号

想像力が欠けた俳優は、代わりに自分の想像力を使ってその埋め合わせをしようとする演出家の手の中で、将棋の駒となってしまうだろう。
それよりは、自分自身の想像力を鍛え上げる方がよくはないだろうか?


今回は、内容的にはほとんど補足はいらないと思いますので、実際の現場での状況について少し書いてみましょう。

演出家や監督は、基本的に現場ではレッスンをしません。
現場の仕事というのは「作品」を創り上げるもので、「養成」が目的ではないからです。
劇団の舞台公演の場合には、その「劇団」という組織的な意味合いから、稽古過程の中で必然的に「養成」と云う要素も入ってきますが、最終的には作品の仕上げが主眼となります。
(本来、劇団組織は上演と養成を両立させ、演出家であり教育者である人物が、集団の芸術的価値観を確立することが理想的なのですが…)

昔は、映画の撮影現場で俳優を育てるような撮り方をした監督もいらっしゃいましたが、現在では制作のスケジュール的な問題などもあって、そういう現場はほとんど無いと云ってもいいでしょう。

そういう状況の中で、想像力の無い、従って創造力も無い俳優に対しては、演出家や監督は作品の質を上げるために、自分の想像力でそれを補ったダメを出します。
しかしダメを受けた俳優が、その本質、つまりダメが生まれた内的過程を理解しようとせず、それを機械的に実行するだけではいつまで経っても進歩は望めませんし、「自分と云う素材」を提供するだけの、まさしく「駒」になってしまうのです。

尚、この「駒」になってしまう危険性は、【想像力】と云う要素だけでなく、全ての創造過程において存在することを付け加えておきます。
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