03/11/14配信 021号「君が想像力の訓練に失敗したのは、それが間違い通しだったからだ。 これも俳優修業の中のレッスンの一齣で、自分の想像力を確かめるために空想を試みたけれども上手くいかなかった生徒に対する教師の言葉です。 最初の理由は、そのために精神的な緊張・萎縮を引き起こし、そしてそれは【想像力】だけでなく、ほかのすべての要素にも悪影響を与えることになるからです。 二つの目の理由、「主題が無いものを想像する」と云う事は、もしそれがある程度出来たとしても、それは漠然としたとりとめもないものになり易く、連続した想像の線を作ることも難しくなります。 また、「想像のための想像」になりやすい傾向もあります。 そして最後の理由は、能動的でない想像というものは、【行動】に転化できないという事です。 俳優修業ではこの後「まず内的な行動がきて、そのあとから外的な行動がくる」と続きますが、俳優の外面的な身振りや仕草はもちろんの事、台詞というものも実は外面的な行動です。(内的行動が外的形式をとったもの) 従って、内的な行動、つまり「欲求・欲望」を生む想像力でなければ、それは実際の演技には有効的な影響を及ぼせないのです。 (本来、演技者の行動を内面的・外面的に分けることは不可能ですしナンセンスですが、両側面から研究する場合には便宜上こういう云い方をします。また台詞は、専門用語では言語的行動と云います) 尚、能動的か否かの例として、俳優修業では次のように解説しています。 (二つ目の例は、生徒の空想の中の設定に対する批評です) 君が急行列車でゆったりと横になっている場合には、君は能動的だろうか? |
03/11/25配信 022号「君が想像の世界で世界旅行をすると仮定したまえ。 この教えもシンプルですが、戯曲、テキストを使ったエチュード、そして即興においても、まさに核心をついた言葉でしょう。 例えば、豪華客船で世界旅行をしているシーンのエチュードがあったとします。 しかしテキストには『A夫妻、70才位の温厚そうな紳士とその婦人』とか『派手なファッションに身を包んだ30代の美女』とか『青年実業家とモデルらしき若いカップル』等のように、登場人物についての大まかな説明しかなかったとしたらどうなるでしょうか。 大抵は、『そういう人』っぽく台詞をしゃべり身振りや仕草をする、つまり『そういう人』を演じようとして観念的なゴム版か紋切型という、薄っぺらいものに陥る訳です。 らしくあればいいエキストラならそれでもいいでしょうが、人間を描かなければならない『役』としては、それでは全く不十分です。 そんな場合には役の人物としての様々な背景が無いので、それを探り出す作業が必要になってきます。 即興は【与えられた環境】の制約が緩いので、こういう訓練にはもってこいなのですが、想像力の欠けた人・未発達の人は、やはり即興もままならない場合がほとんどです。 役の前提条件が『なんとなく』『漠然と』『大概に』しか決められないために、役に行動が生まれず、即興自体が前進しないという事になってしまいます。 (そういう人に限って「話を進展させなければと思って…」等と云うのですが、土台の無いものが進展するわけはありません。無理に進ませれば、演技者は立ち往生してしまうのがオチでしょう) こういう場合には、『役の人物の背景』をしっかり決めなければなりません。 自分は普段は何をしている人物なのか、何故この旅行をしているのか、この旅行をする事によって何を望むのか、この旅行は自分にとってどんな意味があるのか…等々です。 それらが決まれば必然的に、その場所やその場にいる他の人々に対する態度も決まってくるでしょう。 そして、個々の瞬間に対する次の目標(=行動の目的)も決まってきます。 演技者(=役の人物)は、内的なリアリティに導かれて行動し、結果としてストーリーも進展していく訳です。 上記の例は一番ノーマルな近づき方で、他にも【目標】や【適応】から近づく方法もありますが、ここでは割愛します。 しかしいずれの方法にせよ、最終的な形象の行動は、すべて論理的で生き生きとした想像力・空想力と、その一貫した流れの中から生まれてくるものなのです。 |
03/12/05配信 023号三分間のエチュードには、一時間の準備と用意が必要である。 前回の補足説明の中の『役の人物の背景をしっかり決める』という事について具体的な例が欲しいというご要望をいただきましたので、今回はその辺りをもう少し補足してみたいと思います。 『豪華客船で世界旅行をしている』という、即興の場合を例に取りましょう。 この条件を満たすだけなら様々なシチュエーションが考えられますが、複数人数での即興ではかえって混乱を招くことになります。 そこでもう少し共通の与えられた環境を限定して、時代は現代、時間は21時頃とでもしましょう。 もし客船のホールでパーティが開かれていたとしたら…、そこにはどんな人物が登場するのか、別の云い方をすればそういうシーンに相応しいのは、もしくは興味深いのはどんな人物なのかと云うことは、演技者の想像力にかかってきます。 ごく一般的な考え方をすれば、前出のエチュードの例のように『A夫妻、70才位の温厚そうな紳士とその婦人』『派手なファッションに身を包んだ30代の美女』『青年実業家とモデルらしき若いカップル』が登場するとしても何もおかしくはないでしょう。 (もしそれらの人物が登場するならば、この即興は台詞やト書き、そしてストーリー展開の指定こそ無いながらも、先のエチュードの環境に近づくことになります) しかしそれだけでは登場人物に関するト書きと同じなので、A夫妻とはどんな人物なのか、何故この船に乗っているのか等、この即興の中で『A夫妻が存在する権利』と、彼等の行動を正当化する作業が必要になります。 つまり、A夫妻が『老後を趣味の旅行で楽しむ大富豪』なのか『一生をかけてためた貯金で夢の旅行をしている人達』なのか『子供や孫からの招待でこの旅行に参加している』のか、あるいは『宝くじに当たった幸運な夫妻』なのか、『実は名うての詐欺師で、獲物を求めてこの船に乗り込んだ』のか等々、まず二人がどんな人達なのかを気に入った設定で決めればよいでしょう。 それらが決まれば、行動の目的も限定しやすくなってきます。 『老後を趣味の…』なら旅行自体を楽しみ、目にするあらゆるものに興味を引かれるかもしれません。 『詐欺師』なら他の乗船客を観察し、ひと仕事を企てることでしょう。 また、この旅行の意味やその後の予定といった要素も見つけ易くなります。 『夢の旅行』なら、ここでリフレッシュして明日からの活力にするかもしれませんし、逆にこれを人生最後の良き思い出として、自らの生に終止符を打つつもりなのかもしれません。 あるいは夢見ていたものへの失望と、元の生活に対する愛着が再確認されるかもしれません。 これらの事から、ある人物には好意的、別の人物には否定的になったりと、他者に対する態度も自然に決まってきます。 また、他者との接触や交流自体を避ける傾向や、その逆の傾向が現れることもあるでしょう。 『A夫妻』といった複数の場合には、二人と他者の関係(態度)と共に、二人の相互関係のバリエーションも多数存在します。 (また即興が展開していけば、相手に対する疑惑が生まれるとか、絆がよりいっそう強くなるとかといった、一方もしくは双方の態度の変化も生まれるでしょう) こうした一連の準備作業から、即興とその登場人物の、与えられた環境の一番外側のワクが決まってきます。 つまりこのワクからはみ出さない限り、ワクの中では何をやるのも自由だし何をやっても間違いではないということになるのです。 (テキストを用いたエチュードや戯曲の場合には台詞やト書きによってワクは極端に狭められますが、演技者側の準備としては、なすべき事は同じです。またワクの破壊やワク自体の拡大は別の問題になります) スペースの都合上、例を挙げるのはこの位にしますが、これらのバリエーションは無限にあるでしょう。 こうした、与えられた環境の輪郭を鮮明にする作業は想像力に自然な刺激を与え、これを前進させます。 そこから生まれ、成長した役(形象)が、ゴム版や紋切型とどれほど大きな差があるのかは、実地の稽古で確認していただきたいと思います。 最後になりましたが、今回配信の言葉はK.Sやワフターンゴフが好んで使っていたもので、前回・今回の補足説明でも明らかなように、演技者の準備作業の重要さを端的に表したものでしょう。 |
03/12/19配信 024号諸君が単なる傍観者として自分の想像の世界を観察するならば、諸君はまだその想像の生活に参加する事は出来ない。 人間は、通常その感覚の80%を視覚に頼っているそうで、【与えられた環境】を想像する場合でもこの内的なヴィジョン(内的イメージ)というものが大いに役に立ちます。 (上記のパーセンテージは個人差や男女差があり、女性は男性に比べて聴覚の割合が若干高いとか…。 尚、内的ヴィジョンという言葉は、広義には内面的に想像された世界を意味し、そこでは視覚のみならず聴覚や嗅覚などのすべてを含んだ、世界の移ろいをも指します) ここで述べられている三段階の状態は、想像力によって頭の(もしくは心の)中に描かれる情景とその時の演技者の状態についての教示で、これは映画やテレビのフレーム(画面)に例えると分かりやすいかと思います。 一例として、「公園のベンチで話をしている二人の人物」が映し出されたシーンがあったとしましょう。 これが最初の段階の例、つまり傍観者としての自分が見る、ある【(小さな意味での)与えられた環境】の一番大雑把な風景で、自分は第三者としてその世界を見ています。 画面は、わりとロングの情景描写といった雰囲気のショットです。 次の段階では、話をしている人物の片方が自分となります。 画面も少し寄った2ショットとなり、各々の表情や態度、お互いの関係や立場などもある程度は分かってきますが、演技者自身が『自分が生活している光景を自分が見ている(観察している)』という或る種冷静な立場のため、やはりその登場人物そのものではない感覚が残ります。 最後の段階になると、登場人物としての目的・欲求・衝動と云ったような内的な能動性を感じるようになり、もはや傍観者としての自分ではなく役の人物として想像の世界で行動しはじめます。 ここでは相手のリアクションや虚構世界の外的状況の様々な変化(公園で聞える生活音だとか、頬を打つ風だとか、木々や花の匂いだとか、気温や明るさの変化だとか等々)にも敏感になります。 画面も先ほどまでの第三者のアングルではなく、自分の『見た目』へと変わります。 この段階になれば台詞や仕草にも説得力が生まれ、外面的にも『らしく見せかける』のではなく、内的信頼に裏付けられた真実の身体的行動が生まれてくる、という訳です。 尚、ここで論じているのは【想像力】という内的要素に関する事柄であり、【パースペクティブ】や【抑制】等の、他の要素を操る要素が入ってきた場合には、第二段階の『観察する』という状態が重要になってきます。 これらは情緒と理性(知性)という別の見地での問題なので、混同しないようにして下さい。 |
04/01/13配信 025号困難事は習慣となるべきだ。習慣的なものは容易だし、容易なものは美しい。 「一年の計は…」ということで、本年最初の名言にはこの言葉を選んでみました。 これは俳優修業の中で引用されている、『表現する言語・言語科学入門』の著者S・M・ヴォルコンスキィの言葉です。 ヴォルコンスキィは若手の俳優やオペラ歌手の物言いの訓練にも招かれた人で、「母音は川で、子音はその堤防だ」という大変含蓄のある教示も残しています。 俳優修業では、困難で長く続く課題に対する生徒の絶望的な嘆きに対して、初めて立った赤ん坊が歩くことを覚え、やがては走ったり跳ねたりも出来るようになる事、ピアニストや舞踏家が、はじめは意識して筋肉をコントロールしなければならなかった事を、やがては筋肉が自動的にそれをなし得るようになる事の例などをあげて、演技においても正しく演じることの習慣化を解説しています。 しかしまた、 とはいえ、その不幸で危険なところは、習慣というものがまた間違った方向に発達させる事もできるものだという点である。と、良からぬものの習慣化に対する警句も付け加えています。 尚、今回の言葉は、別の書籍では「困難なものを──習慣的なものに、習慣的なものを──容易なものに、容易なものを──美しいものに」と訳されています。 |
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