スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 026〜030

04/01/27配信 026号

想像力の鍛錬には、テキストの研究時のみならず日常生活でも「観察する」ということ、そして「何故そうなのか?」と自問することである。
この「何故?」という問いがきわめて重要で、それは細部を研究し、全体に目をやり、過去を顧み、未来を暗示するのである。


03/11/04配信の020号で、想像力の欠けた俳優は単なる素材になってしまうという教示をとり上げましたが、そうならないための回答の一つが今回の言葉です。

配役が決まり、テキストを受け取ったら、自分の役や戯曲の世界の様々な研究(当然その中には、必要とあらばモデルの観察をする事も含まれる)をする事は勿論ですが、そういう時だけではなく、日常生活でも常に「観察する」という習慣と「何故そうなのか?」という問題提起がいやでも想像力を働かせることとなり、これを鍛えてくれるのです。

こういう人物に会うことはなかなか無いでしょうが、分かりやすい例題をあげてみます。
公園のベンチに挙動不審の男がいたとしましょう。
彼はきょろきょろと辺りを見回し、時には時計に目やり、立ち上がる素振りがあったかと思うと急に思案に沈み、またふと現実にかえったように辺りを見回している。
彼の態度は、おどおどしているようにも見えるし、いらつきがあるようにも思われる…。

この人物を観察し、「何故そうなのか?」と自問してみましょう。
彼は何故このような状態にあるのでしょう? 何故そんなに辺りを気にしているのでしょう? 誰かが来るのを待っているのでしょうか? だとしたら、それは…?

見たところ彼は、一見して格別の魅力があるようには思えません。むしろどちらかというとあまりパッとしない方です。とすると、たとえば彼から一方的に申し込んだ、来るか来ないか分からないデートの相手を待っているのかもしれません。もう予定の時刻はだいぶ過ぎています。来ない彼女に苛立ちながらも、もし来てくれたらどのように接すればよいだろうかと、この冴えない彼は内心どきどきおどおどしているのかもしれません。

それとも、何かの合否の結果を知らせてくれる人を待っているのでしょうか?
不況の嵐で彼もリストラされたのかもしれないのです。大学時代の先輩のコネで雇用試験を受け、その結果を知らせてくれるはずの先輩を待っているのかもしれません。そういえば彼にはどこか、生活に疲れた感じが漂っています。スーツも何となくデレッとしているし、第一カバンすら持っていません。
この時間にこんな所にいるのは外回りの営業マン位ですが、もしそうならカバンくらいは持っているでしょう。疲れた営業マンがベンチで一休み、というわけではなさそうです。

…、いや、もしかしたら彼は大事な書類の入ったカバンをなくしてしまった営業マンなのかもしれません。彼にとって初めての大きな契約を取り付け、有頂天になり、興奮し、会社に結果報告をしていたところ、足下に置いたカバンを盗まれてしまったのです。
「ああ、こんな事ならさっさと帰社すればよかった」と悔やみつつ、しかしもしかしたら小さい子供が持っていっただけで、そこいらでカバンを持って遊んでいるかもしれない…、とはかない希望で辺りを見回し、いや、やはりそんなことはあり得ないと現実に引き戻され、しかし会社に帰ってなんと報告すればいいのかと悩んでいるのかもしれません。

いや、しかし彼の様子は、もっと別のもののような気もします。
焦れている感じもあるし、怯えのようなものもあるような…。

!! もしかしたら彼は誘拐犯で、身代金を受け取りに来たのかもしれません。しかし時間になっても相手が現れず、身の危険も感じはじめています。相手は「どうにか金は工面する」と云っていましたが、そう簡単に揃えられる金額ではありません。工面に時間がかかっているのか、それともやはり警察に…。
「ああ、こんな事はしなければよかった」と内心では後悔しているのかもしれません。彼は根っからの悪人には見えないからです。何が彼をこの犯罪に駆り立てたのでしょう?
賭事とか事業に失敗したとかで、大きな借金でも作ってしまったのでしょうか? それとも、誰か彼の大事な人の手術でも有り、大金が必要なのかもしれません。

いや、もしかしたら彼は誘拐犯なんかじゃなくて、ここである大手術が終わるのを待っているのかもしれません。なんとなくダラッとした背広は、長時間それを着続けていたために起こることは珍しくありませんし、彼の精神的な疲労が余計にそう見せているのかもしれません。気の弱い彼には、病院内の重い空気が耐えられないのです。手術は十時間以上にも及ぶもので、成功する確率は五分五分です。そろそろ終わるはずの時刻で、彼の兄弟が結果を知らせに来るはずなのですが…


こんなふうに細部に目をやることにより様々な可能性が見えてきます。
(スペースの都合上省略しましたが、彼の容貌・容姿・身ごなし・態度・癖・雰囲気等々の細部をより詳細に研究することにより、それぞれの選択肢においても更に様々な想像の可能性が拡がります)
そして、それらを照らし合わせることにより、消えていく選択肢や、変形して発展する選択肢もあるでしょう。
また、それらを正当化するためには過去に遡り、様々な想像上の材料を見つけださねばならないかも知れません。
(どんな環境や要因がこのような人物を作ることになったのかとか、この人物の幼年・少年時代はきっとこんな風であったであろうとか)
そういう一連の流れは当然未来の可能性を暗示するというわけで、これらはすべて想像力・空想力を鍛える方法となるわけです。

これは何も人物に限ったことではなく、自分を強制せず、興味がもてるものならば、心惹かれる絵画や彫像だとか、古めかしい本だとか、街路樹の一本だとかでも良いわけです。
人物の場合、知らぬところで題材にされている本人には迷惑な話でしょうが…(^^;;

余談ですが、永六輔さんの本で「他人の行動が奇妙に見えると云うことは、想像力の欠如以外の何物でもない」というような言葉を読んだ記憶があります。
これもまさしく名言ですね♪
04/02/07配信 027号

僕らが舞台に立っている間はいつでも、戯曲の行動が展開していく間はいつでも、僕らは僕らを取り巻く外的環境と、僕らの役を図解するために僕らが自分で想像した環境の内的連鎖とを心得ていなければならない。


前回の言葉の中に過去と未来に触れた部分がありましたが、システムではこの時間の流れと共に展開される内的及び外的な行動の流れは【貫通行動線】や【ポドテキスト】にも関係する重要な部分です。
(正確には時間の流れというよりも【感情の論理】【行動の論理】に従って展開されるのですが)

準備段階に於ける想像力の活動でもそれはやはり重要で、これがなければ想像力のベクトルがそれぞれ勝手な方向を示す事になり易く、そうなると混乱し収拾のつかないものになってしまいます。
そこで【一貫性】という要素が重要になってくるわけです。
(この一貫性という言葉は、後に出てくる【注意の集中】という要素の場合と同じで、何か一つの対象や行動に対する執着ではなく、変化する行動や対象へのとぎれぬ連鎖・若しくはその連鎖した状態を意味するものです)

そして、想像力を鍛え、またそれを利用する場合には、【内的ヴィジョン】と云うものが力を発揮するのですが、俳優修業では今回の言葉に続けてそれを
そういった契機(=モメント。その後の展開に重要な影響を及ぼすような誘因を持つ、或る瞬間)から、何か活動写真みたいな、イメージのとぎれのない連続したものが形成されるだろう。僕らが創造的に行動している間は、このフィルムが展開し、僕らの内的ヴィジョンのスクリーンの上に投影されて、僕らがその中で生きている環境をまざまざとしたものにするのである。そればかりではない。それらの内的イメージは、対応する気分を作り出し、僕らを戯曲の限界内に保ちながら、情緒を喚起するのだ。
と解説し、樹木の生活のエクササイズで具体例を挙げています。
この、内的ヴィジョン・内的イメージのフィルムについては【ポドテキスト】の項でも触れられていますが、これも役づくりが進むにつれ自動的に利用できるようになるのが理想で、そうでないとやはり「技術のための技術」になってしまいがちです。
しかしともあれ、この内的ヴィジョンの方法もおおいに利用したいものです。

尚、俳優修業では「〜僕らを取り巻く外的環境(演出の物質的な組立の全体)、僕らの役を図解するために〜」と、ORの形で書かれていますが、実際には「内的・外的、両方の環境」を心得ていてそのバランスを取るとか融合させるとかをしなければならないので、ここではあえてANDの書き方をしています。
04/02/17配信 028号

もしも彼の想像力が働かないようであれば、私は彼に何か単純な問いをかける。
問いをかけられたからには、彼は答えなければならないだろう。
(もしも彼が思慮のない返答をするようなら、私はその答えは受け付けないのだ。
そこで、もっと)
満足な答えをするためには、彼は自分の想像力を喚起するか、さもなかったら彼の知性を媒介として、論理的推理を手段として、主題に接近しなければならない。
想像力の働きというものは、しばしばこの意識的な、知的なやり方でもって準備されたり指導されたりするものである。
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04/01/27配信の026号では、日常生活でも「観察し、自問する習慣」を身につけることが大事だという教示を書きましたが、今回の言葉は実際のレッスンや稽古において想像力を働かせる具体的な方法です。

俳優修業では「もし自分が何かの植物だとしたら」というエクササイズで上手くいかない生徒に対し、「君には何が見える?」と問います。
そして「公園が」と答える生徒に「しかし公園全体が一度にすべて見渡せるわけではないだろう。右手には何がある」と重ねて尋ね、「柵が」という答えに対して「どんな柵だ?」と追求し、生徒の想像力が働かず黙しているのを見て「その柵は何で出来ている?」と生徒の知性が働かざるをえないような質問をします。
生徒の方は彼自身の経験から公園にあるような柵を思い浮かべ、「材料ですか?…鋳鉄です」と答えますが「それを話したまえ。どんなデザインかね?」と更に追求し、想像の輪郭を鮮明にさせていきます。

俳優修業の例では、ここでこの生徒は立ち往生してしまうのですが、「何が見える?」という問いに「公園」という漠然とした答えしか返ってこなかったものが、対象を限定(細部を研究)し、問題提起をすること(ここでは自問ではなく教師の力を借りてですが)により、わずかとはいえ彼の知性(=この場合は答えを出すために考える力)が働き、結果として彼の想像も一歩前進することになります。

ここで重要なのは【与えられた環境】を教師が与えるのではなく、生徒自らが見つけだすと云うことで、こうして見つけだせたものには【真実の感覚(内的なリアリティ)】が自然に伴っていることが多いものなのです。
従って、教師の力を借りるにせよ自問自答するにせよ、知性を媒介とすることによって想像力を働かせるこの方法は、大変実際的な方法となるのです。
04/02/27配信 029号

「ところで、想像力に対して意識的・論理的にのみ近づく場合には、生活の、血の気のない、見かけばかりの描写を作り出すものだ。
それは演劇には無益だろう。我々の芸術は、俳優の本性全体が能動的に包含されるという事、彼が心身共に役に没頭する事を要求する。
(実体を持っていない想像力は我々の身体的本性を反射的に動かしてこれに行動をさせる事が出来るのだから、)彼は行動に対する挑戦を、知的にのみならず身体的にも感じなければならない。この能力が、我々の情緒技術ではこの上なく重要なのだ。
諸君が舞台で行う運動の全ては、口にする言葉の全ては、諸君の想像力の正しい生活の結果でなければならないのだ
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今回の教示は、想像力の果たす役割、訓練法、実際の稽古においてそれを働かせる方法等のまとめの後に続く警句で、俳優修業では、
俳優の想像力の創意はすべて、徹底的に工夫され、しっかりと事実の基礎の上に築き上げられていなければならない。
彼は、彼が自分の創作能力を駆使して『虚構世界の内的ヴィジョン』をよりはっきりとしたものにしてゆく過程で自問する、あらゆる問い(いつ、どこで、なぜ、いかにして等)に答えられなければならないのだ。
『十分に限定され、徹底的に基礎づけられたテーマ』を持たずに、漠然と想像するということは無駄なことである。
とした上で、今回の言葉が続いています。

前回の配信では「想像力は、意識的な、知的なやり方で準備され、指導される」という事を書きましたが、「それは有効な近づき方ではあるけれども、俳優の創造活動にとってはまだ十分ではない」というのが今回の教えです。
つまり、俳優の想像力は【行動(先ず内的に、そして外的に)】を伴うか、若しくはそれを誘発する、行動に対するある種の刺激や暗示を含む性質を持たなければ意味がないという事で、こういう性質を持つ想像力を、【創造的想像力】と呼んでいます。
(通常、システムで想像力という場合には、この創造的想像力を指します)

「〜身体的にも感じなければならない」という部分は、「情緒的にも、あるいは心理的にも、そして場合によっては生理的にも、実感されなければならない」とすればわかりやすいかと思います。
それは、「運動や言葉の全てが、(例え正しくとも)想像力から生まれた分析の結果」ではなく、「想像力から生まれた内的行動の結果」でなくてはならない、という事です。

三大原理と関係付ければ、前回の言葉が、 意識的技術を媒介とした無意識的創造 に従っているように、今回の言葉は、 創造と芸術とにおける能動性 を具体的に述べたものと云えるでしょう。
04/03/09配信 030号

客席をそっちのけにするためには、諸君は何か舞台の上の事に興味を持っていなければならない。(中略)
対象が心を惹くものであればあるほど、それは注意を集中させるのだ。実生活では、いつでも我々の注意を固定させる対象が沢山あるが、演劇では条件が違っていて、俳優が当たり前に生きる事を邪魔するので、注意を固定させる努力(精神技術)が必要になるのである。


さて、今回から内的装備の新しい要素に関する教示になります。
これは【注意の圏(サークル)】という考え方で展開され、俳優修業では【注意と集中】という章に纏められているものです。
この要素も実生活ではごく普通の現象として我々が体験しているものですが、その見過ごされてしまう無意識的な個々の瞬間の状態を、演技論とか演技術として分析してみると非常に難解に感じるものです。
従って、「こういう状態にならなければならない」と注意の圏を意識するのではなく、演技をした後でチェックしてみたら「日常生活と同じようにそれが働いていた」となるまで、自分自身を教育することが重要です。
注意の圏に対する詳細は次回以降に述べるとして、今回は一番基本的な注意の圏について触れておきます。

俳優にとって、一番最初の障害は『観客』そのものでしょう。
本来観客というものは、K.Sの言葉を借りれば「俳優の感情の最も良き反響板」であり、彼等のために芝居をする訳ですから「最も親しい友人達」のはずなのですが、正しい装備が整わないうちは「最も大きな障害」となってしまう諸刃の剣なのです。

例えば、小さなパーティの挨拶でも、あるいは学内のちょっとした発表の場や社内のプレゼンテーションでも、それが公式のものとなると急に緊張して普段の自分が出せなくなる人は沢山います。
それは、そこに観客がいるという理由が大部分で、彼等に見られているという事が大きなプレッシャーになるのです。
まして俳優は、単に見られるだけでなく、常に観察され評価されるという、品評会の出展品のような立場です。
台詞や動きを間違えてはいけない、下手だと思われたくない、出来れば少しは上手いところも見せてみたい、いや、それ以前に台詞はしっかり入っているだろうか? あの言いにくい台詞はきちんと言えるだろうか? 或る場面では大きな悲しみを表現しなければならないが、その時感情は枯れていないだろうか…。
これらのプレッシャーが、その元となる観客の磁力が、俳優を引き寄せ、彼の注意を劇中の虚構世界の外へ連れ出してしまいます。
創造的想像力も霧散し、【与えられた環境】はぼやけ、【魔法のもし】も効力を失います。 結果、芝居は失敗に終わるというわけです。
これが映画やテレビなら、キャメラや現場にいる各スタッフ、現場独特の緊迫感やカチンコの音、そしてそれが上映されるという事実が、同じプレッシャーをもたらすでしょう。

そこで、そうならないために【注意の圏】をコントロールする技術が必要となってきます。
「役の人物にとっては論理的で正しく、俳優にとっては魅力的な対象(目標)」を利用し、その注意の対象を舞台の上の事(=劇中世界の中の事)にとどめることで【注意の圏】の観客席への拡大を防止しようと云うわけです。

#ここで論じているのは『役の人物としての注意の圏』の事で、『表現者たる俳優としての注意の圏』については後日触れたいと思います。
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