05/04/30配信 061号この芸術的な平面で、諸君は現実の諸条件と類似したフィクションを準備するのだ。 今回の言葉は前回の続きとなるもので、純然たる自然主義にならないように、ここでもK.Sが教示しているのは『現実の諸条件と類似したフィクション』を準備する、という事です。 これは、現実の世界で様々な事象に対するのと同質の態度で臨めるような、様々なフィクションを準備するという意味で、もちろん戯曲や上演のスタイルにより程度の差はあるのですが、現実世界と虚構世界で共通する「情緒や心理の辞書や物差し」のような物を持たねばならないということになります。 「情緒や心理の辞書や物差し」という言葉が適当かどうかは分かりませんが、一例をあげましょう。 『夏の夜の夢』という戯曲で村人達が芝居の稽古をしていて、村人の一人が妖精のいたずらでロバ頭にされてしまうシーンがあります。 他の村人達はこのロバ頭を見て、驚いたり、怖がったり、哀れんだりするのですが、これらの反応(心理や感情や行動)に必要なリアリティとは「現実世界のロバ頭の扮装」そのものに対するリアリティではなく、「もし、今の今まで何事もなかった友人の頭がロバになってしまったら…」という仮定と、その仮定に対する信頼です。 (仮定に対する信頼などと云うと急に堅苦しく感じますが、これはその仮定を素直に受け入れる能力とでも云えばいいでしょうか。それでも難しく感じるなら、ノリの良さとか、子供がままごとをする時の素直な感覚と同じだと思って下さい) つまり、虚構世界の仮定の中で、「現実の世界でそれが起こったならば、おそらくこういう反応(心理や感情や行動)になるであろう」というような反応が自然に生まれるように、「情緒や心理の辞書や物差し」が自動的に働くことが重要なわけです。 これが「ロバの頭が作り物で本物らしくない」などという視点になると糞リアリズムやウルトラナチュラリズムという事になってしまいます。 また、「人間の頭がロバに変わる事自体あり得ない」という発想は、想像力・創造力が無いという事になります。 尚、今回の言葉は【魔法のもし】の項で『仮定を現実として受け入れようとするのではなく、仮定を仮定として受け入れる』と述べられている事と同じであり、『それを活かすためにはきっちりとした【与えられた環境(特に狭い意味での)】が必要である』という事とも同じで、「もし●●だったら…」という役や戯曲への近づき方こそが、「『起こりうる可能性』に対する信頼」を生むことに他ならないのです。 |
05/05/17配信 062号我々にとって重要なのは、役の人物としての精神的な内生活のリアリティと、そのリアリティに対する信頼である。 俳優修業では前回の教示の後、一人の生徒が疑問を口にします。 彼は、例えば『オセロウ』が自殺する短剣を始めとして劇中のものは全てまがい物なのだから、なぜ「真実(リアリティ)」が重要なのか分からないと云うのですが、教師は「短剣が小道具の作り物である事やその材質について神経質になる事はない」とした上で、 しかしもしも君がそれを通り越して、芸術を全て嘘とそしり劇中の生活を全て信頼するに値しないと罵るならば、君は観点を変えねばならないだろう。と教示し、今回の言葉に続きます。 この辺りの解説は前回のロバ頭の例と重複するので省きますが、今回の言葉の最後の行は、「もしそれが戯曲の世界観の中でところを得て、俳優の創造的想像力を刺激するものならば多いに歓迎し利用するべきだが、そうでないならば、それに過度の期待を寄せるべきではない」と考えて下さい。 実際には、それは個々の俳優の内的装備の力や精神的な解放の度合いによって異なりますし、それに拘り過ぎると「リアリズムのためのリアリズム」や「感じたいがために感じる(感じようとする)」というような事になってしまうからです。 |
05/06/02配信 063号我々が演劇で真実というのは、俳優が創造の瞬間に利用しなければならないところの、舞台の真実の事なのだ。 今回の言葉も前回の言葉に続くもので、【信頼と真実の感覚】の章の小さなまとめのような教示です。 ところで、もう少し早めに解説すべきだったのですが、芝居(映画・TV等も含む)でリアルとかリアリティとかという言葉を使う場合、大きく分けて2つの視点からの場合があります。 ひとつは作品の表現形式や様式、そして俳優の演技そのものに対して、あるいは戯曲のストーリーやプロットに対して使われるもので、使われ方としてはこちらの方がほとんどです。 例えば表現形式や手段、外面的な細部(ディテール)に対しては、所謂、写実主義(写実的リアリズム)的なニュアンスで「リアルだ」とか「リアリティがない」といった使われ方をします。 (これがもっと「現実を切り取って舞台にのせる」方向へ進むと自然主義(ナチュラリズム)や超自然主義(ウルトラ・ナチュラリズム)になり、反対に様式化の方向に進むと形式主義(フォーマリズム)ということになります。 また、これが内面的なものに向けられると超現実主義(シュールレアリスム)とか象徴主義(シンボリズム)という事になります) もう一つは、俳優が演技をするときに俳優自身が感じる「リアリティ(真実感・自分の行動に対する信頼感)」の事で、基本的にこちらはそれなりの専門家しか使いません。 現場で「ここでこの台詞は言わないでしょう」とか「ここ、動きたいんだけど」等という形で出てくるのですが、つまりは最初の使い方が観客側の受けた印象から来る感覚に対して、こちらは行動する俳優という当事者にしか感じられない感覚なのです。 (勿論、良心的で優秀な演出家や監督は俳優のそれを見抜きますし、当事者と同じ立場で話もできますが) そしてシステム(特に「俳優の自分自身のための仕事」「役(形象)を創造するための仕事」の訓練の過程において)で、リアル・リアリティ・真実感・信頼の感覚等といった言葉を使う場合には、ほとんどがこの後者の使われ方をしていると思って下さい。 (俳優修業の中で、生徒の演技を評して前者の使い方をしているところはありますが) この使い方と意味を混同すると、システムの教えが狭い写実的リアリズムになってしまうので注意が必要なのです。 従って、今回の言葉を例に取ると「俳優が創造の瞬間に利用しなければならないところの、舞台の真実」というのは、「俳優が何らかの演技(行動)をする際に、自分の行うべき事を信頼できる(信頼できるというよりも、違和感無くノーマルに行えるとか、その気になれると云う方が近いと思いますが)ような、俳優自身が感じる【与えられた環境】のリアリティ(真実・真実感)」という事になります。 尚、今回の言葉の中でもう一つ注意するところは「いつでも内面から仕事に取りかかるようにしたまえ」の部分ですが、長くなりそうなので次回に回したいと思います。 |
05/06/17配信 064号俳優がある状況を本能的に捉えられない場合には、感情に直接働きかけるべきではない。 俳優が自分自身にとって必要なリアリティをスムーズに得られない場合には、(大小両方の意味での)与えられた環境に対して「いつでも内面から仕事に取りかかるようにしたまえ」というのが前回の教示でした。 システム(特に『俳優修業第一部』で述べられている部分)の教えは世界的に広まっているので、この「内面から仕事に取りかかる」という言葉もいろいろな言い方でよく聞くのですが、その本来の意味を取り違えると却って間違った方向に進むことになります。 例えばよく云われる「気持ちから入れ」という言葉も、間違ってはいないのですが誤解を生む危険性を孕んでいます。 この「気持ちから入れ」は、芝居をする時に「感情も欲求・欲望も伴わないまま、外的な表現をしようとする人」に対して、「或る人間がそういう状態になる時の、内面的なものから研究しなさい」というのが正しい意味なのですが、それを理解していないと「気持ちから入れ」という言葉のニュアンスで、いきなり感情に向かうことになります。 ところが感情というのも一つの結果で、その結果を生み出す過程がないままにそれを求めてもこれは無理非道になり、自分自身を強制することになります。 そして、なにがしかの偶然でも起こらない限り、失敗に終わるのです。 この「気持ちから入れ」という言葉、使ってる方も正しく理解していない人が多く、「じゃあ具体的にはどうすべきなの?」と訊くと正しく指導できない場合がほとんどなのは困ったものなのですが、これをお読みの方は「気持ちから入れ」とは「何より先」に気持ちから入るのか、「気持ちから入る」ためにはどういう準備が必要なのかを正しく理解し、実践していただければと思います。 尚、今回の言葉は【情緒的記憶】と云う、もう少し後で出てくる要素に関してのものですが、今回の解説の内容に一番適しているので一足先に紹介しました。 この言葉も、三大原理のうちの一つ【意識的技術を媒介とする、無意識的創造】と密接に結びついています。 (注) これは「何が何でも内面的なものから仕事に取りかかりなさい」というものではありません。 外面的なものが創造過程をスムーズにするならそれは大いに利用すべきであるとK.Sは述べていますし、また外的な様々なものの探求についても強く要求しています。 ただ、内的なものから入る方が間違いを犯しにくいという事と、内的準備の訓練の章ということで、「いつでも内面から仕事に取りかかるようにしたまえ」という云い方になっています。 |
05/06/30配信 065号舞台における真実とは、自分自身のことであろうと相手役の俳優のことであろうと、何でも我々が誠実に信じられるもののことだ。# 括弧内はメルマガでは省略しています これは俳優修業の中で、生徒に前々回までの【信頼と真実の感覚】について手短かに要約してくれと頼まれた教師の答えですが、やはりシステムは要約するとぼやけて、わかりにくくなってしまうので少し捕捉します。 「観客にとっても」というのは、現実的なリアリズムの見地からのものではなく、これも「劇中で繰り広げられている事が現実世界でも起こったら、おそらくそういう風になるんだろうな」という、「観客が虚構世界の出来事を素直に受け入れられる」という意味になります。 もしくは「俳優が感じていることを感染させる」という方が、より良いかもしれません。 これらの観客に対するスタンスというか接し方は【交感】という章で、また更に高度な教えは【パースペクティブ】の章で語られていますのでここでは触れませんが、基本的に内的準備の訓練の段階ではあまり考えない方がいいと思います。 056号でも紹介したように、「観客のことは忘れ、君自身のことを考えたまえ。もしも君が面白ければ、観客は君について来るだろう」程度にとどめておいてください。 「そのためには、俳優が舞台で〜」云々のところは、情緒と云うよりもその前提条件(与えられた環境)に対する信頼の感覚と云った方がいいかもしれません。 或る特定の人物が或る特定の環境におかれたら「実生活ではおそらくこうするんだろうなぁ」という可能性、若しくはそこにおかれた人物としてのノーマルさを感得出来るようにしなければならない、と云うことになります。 前にも書きましたが、感情や情緒・心理・意志なども一つの結果なので、土台と展開(魔法のもしと与えられた環境)の連鎖がきちんと出来ていれば、結果は自ずと現れるという訳です。 最後の行ですが、「いついかなる瞬間も」とか「飽和」と云う言葉にとらわれすぎるのはよくありません。 もちろんここに書かれていることは理想なのですが、文字通りにとればそれは【我あり】と云われるような状態で、なかなか到達出来るものでもなく、また長く続くようなものでもありません。 むしろそれに拘るとやりすぎの罠にはまってしまうので、理想は理想としながらも、やりすぎにならないように注意しなければなりません。 このあたりのことは、また次回以降で…。 |
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