スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 056〜060

05/02/13配信 056号

観客のことは忘れ、君自身のことを考えたまえ。もしも君が面白ければ、観客は君について来るだろう。
(「しかし、それでは僕も面白くないのです」と、ニコラスは抗弁した。「僕は、何か心理的なのを選びたいのです」。「君は、それにはまだまだだ。心理に関係するのは早すぎる。当分は、単純で、身体的なものだけにしたまえ。)
どんな身体的目標にも何か心理が含まれているし、どんな心理的目標にも何か身体的なものが含まれている。それを分離することは出来ないのだ。
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これは俳優修業の中での、目標を探る課業での一齣です。
「身体的目標が面白いでしょうか?」という生徒の質問に、教師は「面白いとは、誰にとって?」と訊き返します。
そして、「観客にとってです」という答えに対して今回の言葉が続くのですが、これは【単位と目標】という要素の技術的な問題は勿論のこと、システムとK.Sが提唱するものを端的に表している言葉でしょう。

芝居を始めて、少し慣れてきた人は、この生徒のように観客に印象を与えることを欲するようになります。 あるいは演出から、台詞が棒読みだとか、芝居が平板でつまらないといったようなダメを出されると、とりあえず外面的に変化を付けて、それがメリハリだといっている人も居ます。

K.Sは 「演技とは、人間の内的精神生活を体験し、それを分かり易く、生き生きとした、深い含蓄と親しみのある形式、すなわち芸術的な形式で表現することである」と教示していますが、上記の人達は【体験】もないのに目立った形式で表現して観客に印象を与えようという、我々の用語で「直接観客と取り引きしようとする」方法を取ります。
こういうやり方は、偶然のミューズの祝福でもない限り虚しい結果に終わるので、俳優はこれらから身を守る術を、習慣として身につけなければならないでしょう。

ここで云われている、心理的ではなく身体的なものに近い目標から入るというのも特に初心者の場合には大事で、それが正しい道を踏み固め、轍を作る事になるのです。

さて、以前K.S自らが「目標を心理的・身体的等に分類すること」を否定していると書きましたが、 今回の言葉の直後に大変分かりやすい例をあげてそれを説明していますので、それを引用しておきましょう。
例えば、自殺しようとする人間の心理は極めて複雑である。彼にとっては、デスクまで行ってポケットから鍵を取り出し、ひきだしを開けてピストルを手にし、銃弾を装填して、それを頭に撃ち込む、という決心をするのは大変なことであろう。
しかし、そこにどれだけの心理が含まれていても、それは全て身体的行為なのである。いや、おそらくこう云った方がもっと正しいかも知れない。そこにどれだけ身体的なものが含まれていようとも、それはすべて複雑な心理的行為なのだ。
(中略)
両者の区分が曖昧だという事実を利用するのだ。身体性と精神性の間に、あまり鋭い線を引こうとしてはいけない。いつでも、いくらか身体的なものの方に傾きながら、君の本能を頼りにして進みたまえ。 (中略)
その方が易しく、使いやすく、行いやすいのである。そうすることによって、君は間違った演技に陥る危険が少なくなるのだ。
05/02/28配信 057号

・単位の本質を結晶させる正しい名称が、その基本的目標をあらわすのだ。(中略)
この場面の大小の部分を、一貫して概観するようにしてみたまえ。それが、その内的意味を突き止める方法だ。

・諸君の感情や意識がそれを会得したら、単位全体の最も深い意味を包括するような言葉を探したまえ。その言葉が、諸君の目標を意味するのである。

・目標は俳優を惹きつけ、興奮させる力を持つことが重要なのである。


俳優修業では、前回の引用の後に『単位から目標をひきだし、その名前をつけること』『目標の名前には動詞を用いること』の解説が続きますが、当サイトでは既に10/26日配信49号でとりあげていますので、今回は【単位と目標】のひとまずの締めくくりとして、纏めとなるような3つの言葉を紹介しました。

実際にはこれらの前に単位に分ける作業がありますが、俳優修業ではその構成上、分割時の注意点について省かれているところもありますので、これも紹介しておきましょう。
それは「戯曲を分割するときには沈着冷静な裁判官のように、中立の目を持って行うべきである」というものです。
これは俳優が、戯曲を自分の都合や好みだけで解釈して、作者のライトモチーフや書いてある事をそっちのけにするようなやり方を戒めたもので、戯曲とは無関係の目標や傾向を導入する事に対するあらかじめの予防策でもありましょう。

さて、今回配信の言葉は単位から目標を引き出す重要性とその方法を概括したものですが、ここでの注意点は『動詞を用いること』と『諸君の感情や意識がそれを会得したら』という部分になります。
この二つ目の部分はついつい蔑ろにされたり脆くなったりしやすいのですが、これがきちんとできていないと、せっかく動詞を用いた目標の名前を発見してもその目標は形骸化し、所謂【冷淡な方法】になってしまいます。

先に少し触れた『裁判官の目による分割』というのは、『ひたすら知的であったり文学的になりすぎる解釈』を生むと云う危険性も孕んでいるので、目標の選択と命名・それらの消化と正当化においては、それが【熱した方法】で行われているかという事に十分注意しなければならない、というわけです。
05/03/16配信 058号

『ある』と云う動詞は静的だ。それは目標に必要な、行動の種子を含まない。
(私は力を得ることを欲します、とソーニャが答えた。
その方がより行動に近い、と演出家は云った。不幸にして、それではあまりにも漠然としすぎていて、一遍にすべてを実行することは出来ない。
試しに、この椅子に掛けて力を欲するところを演ってみたまえ。漠然と…。)

諸君は何かもっと具体的で、リアルで、手近で、行うことが出来るものを選ばねばならない。
全ての動詞が、内的にせよ外的にせよ能動的に行動するのでもなければ、全ての言葉が、完全な行動に対する刺激を与えうる訳ではないのである。
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以前「目標の名前は動詞を用いた形式で表す」ことを紹介した際に触れたと思っていた事がすっかり抜け落ちていましたので、今回はその追加分となります。

「目標の名前は動詞で〜」というのは10/26日配信49号でとりあげましたが、その際にも注意することがあります。
それは、
1.能動的な行動を誘発するような性質を持つ動詞を用いること。
2.漠然とした概念ではなく、リアルで具体的な行動を指示する動詞を用いること。

の二点です。

今回の言葉は俳優修業での『ブランド』を用いたレッスンの一齣で、「僕は力強くあることを欲する」と云う生徒の答に対して「『ある』と云う動詞は静的だ。〜」と続いていきます。

この後「リアルで具体的な〜」という上記2の解説にはいるのですが、その詳細は俳優修業を参照して下さい。

また、「一遍にすべてを実行する事が出来ない場合には、リアルで具体的な行動を〜」というのは、以前イメージ図で解説した「比較的大きな単位Aと、そこに含まれるもっと小さな単位1〜3」という単位の考え方と同じですので、そちら(04/11/11配信 050号〜)も参考にして下さい。

尚、「力強くありたい」のような一見能動的でない目標も、もしそれが本能的・潜在意識的に感じられる【超目標】のレベルにまで昇華されていれば、話はまた別と云う事になります。
K.Sの言葉を借りれば「隅々まで充実し、今にも爆発せんばかりになっている」状態という事になるのですが、【単位と目標】という要素をエチュードのレベルで研究・稽古する場合には、目標は上記1・2を基本として下さい。
05/03/31配信 059号

稽古とは、俳優が次の稽古までの間に家でやらなければならない事をはっきりさせるためのものにすぎない。


この言葉もK.Sやワフターンゴフの教えの中でかなりポピュラーなものです。
私はレッスンと稽古という2つの言葉を意識的に分けて使っていますが、つまり俳優養成のためのレッスンではなく作品を完成させるための稽古の場合には、今回の言葉は特に重要になってくるのです。
(もちろんレッスンでも重要ですが…)
特に初心者の中には、稽古場で指導してもらってなんとかしようというスタンスで稽古に臨む人がいますが、これは大きな間違いです。

稽古とは作品を仕上げ、完成させるための作業であって、これを演技指導に当てていては時間はいくらあっても足りません。
そんな状態では稽古は必然的に「出来ない特定の人へのレッスン」に終始し、全体的には底上げになるかもしれないけれど、アンサンブルや作品全体の完成度を高めるなどという事はとてもじゃないが出来ないという事になってしまいます。

少なくともそれはレッスンでやるべき事であり、本来の稽古というものは、若しくは俳優の在り方というものは、或る稽古で出されたダメを自力で解決し、その解決を携えて次の稽古に臨まなければならないという訳です。


とはいえこれは昔から、多くの俳優学校や養成所の方にも問題が有ったようで、ワフターンゴフはそれを次のように語っています。
演劇学校の最大の間違いは、(演技を)教え込もうとする点にある。そうではなく、(理想的な俳優を)どのように育てなければならないか、という事なのだ。(中略)
演劇学校の意義は、移り変わるものの本質の認識という点にある。これは、「創造を学ぶ」ために必要なことである。俳優の創造とはどこにあるのか? それは、魂の豊かさ、及びその豊かさを描き出す俳優の能力にある。
創造が行われうる条件を創り出すことを、学校で学ばねばならない。
創造とはどういうことか? 芸術は、この創造という過程があってはじめて存在するのだ。(後略)
少し難しいニュアンスもありますが、自動車教習所を例にとりましょう。
教習所では、その教習所のコースを上手く運転する技術(何を目標にどの辺でブレーキを掛けるとか、どのカーブではどのくらいハンドルを切るとか)ではなく、どんな道であっても事故を起こさず上手く運転できる技術を教えるのが普通です。

それと同じように俳優養成というものも、どんなテキストでも、どんな役でも、どのような表現形式を要求されても、その形象を自力で創り上げ表現できるような能力を持った俳優を養成しなければならず、また俳優側もそういった俳優の能力の本質を理解した上で学ばねば、ただ目先のエチュードの出来・不出来だけに一喜一憂し、別のエチュードをやってみたら結局本質的な能力は何も進歩していなかったという事になってしまうのです。
(ここではスペースの関係で触れていませんが、本来の理想的な俳優と云う言葉の中には「劇場の倫理」的なものも含まれます)

最後に、俳優に向けたK.Sの、更に辛辣な教示も記しておきましょう。
演出家に、二度三度と同じ注意を受けるという事は、恥ずべき事である。
それは、自分の無能さか怠惰を、自分自身で証明しているという事だからだ。
05/04/15配信 060号

【真実と、自分の行動に対する信頼の感覚】というものは二種類あるのだ。
一つは実際の事実の平面に作り出されるものであり、もう一つは創造上の芸術的なフィクションの平面に始まる、舞台的なタイプのものである。


今回から【信頼と真実の感覚】の章に収められている言葉を紹介していきます。
この要素も【役を生きる芸術】の流派を学ぶものにとっては大変重要な位置にあり、そしてまた誤解されることも多かったようです。
今回はこの要素の第一回目という事で、劇芸術(映画・TV等も含めて)における真実・信頼と云う言葉を、生活のそれと混同しないようにはっきりさせる言葉をとりあげました。

「実際の事実の平面に作り出されるもの」というのは、我々を取り巻く現実の世界、生活の真実をさします。
ここでの「真実」は、「現実」や「事実」とほぼ同義語です。
それに対して「創造上の芸術的なフィクションの平面に始まる、舞台的なタイプのもの」とは「劇中世界(上演の形式や様式なども含めて)の真実」という意味になります。
つまり、現実世界の目から見ればそれらは全て虚構のものであり、もともと非現実である世界の中の「現実感」とか「迫真性」という事です。
それは、現実ではないが現実的な感じがするから「現実"感"」であり、真実ではないが真に迫るような性質を持つから「迫真"性"」なわけです。

これを現実の世界の真実と混同すると「写実的リアリズム」とか「ナチュラリズム(自然主義)」という事になってしまうので注意しなければなりません。
(私はここで表現形式としてのそれらを批判するつもりはありませんが、システムはそれらと直接に関係付けられるような狭いメソッドではないのです)

この【信頼と真実の感覚】の章には本当に沢山の名言がありますので逐次紹介していきますが、まずは現実世界と芸術ではこれらの言葉の意味が違うと云う事を正しく理解して下さい。

尚、ここでは「自分の行動に対する信頼の感覚」という表現をしていますが、これも自分の行動に対してだけではなく、劇中世界の真実(相手役の行動や戯曲や演出で指示された事柄等も含めた様々な対象)全てに対する【信頼の感覚】と考えて下さい。
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