06/06/15配信 086号あれ、本物じゃない。おかしいよ。 この言葉はある象徴的作品の舞台装置についてのエピソードです。 K.Sは或る上演で、舞台上にリアルな家のセットを作りました。 屋根には水を貯めたタンクを隠し、雨水は樋を伝って流れるほどの凝りようです。 水は庭の池にたまり、この池には本物のアヒルが放たれました。 稽古中のある日、演出助手のスレルジィツキィの幼い息子が劇場の庭で遊んでいるのを見たK.Sは、彼に自慢のセットを見せて感想を聞きます。 さぞ喜ぶだろうと思っていたら返ってきたのがこの言葉で、K.Sは少年の素直な感性が自分の過ちを諭してくれたことを知り、この装置を使うことを止めたそうです。 『芸術における我が生涯(スタニスラフスキー著/蔵原惟人・江川卓訳/岩波書店)』には、 しかし象徴主義は私たち――役者――にとっては力に余るものであった。象徴的な作品を演ずるためには、役と戯曲にしっかりとなじみ、それの精神的な内容を認識して自分のうちに吸収し、それを結晶させ、得られた結晶に磨きをかけ、そのために、作品の多様な、複雑な全本質を総合するような、明確で鮮明な芸術的形式を発見することが必要である。そのような課題のためには私たちは経験が浅く、また私たちの内面的な技術は十分に発展していなかった。という、当時の象徴主義的作品への取り組み方に対する回顧があります。 この『明確で鮮明な芸術的形式』へのアプローチの一つが内面的リアリティの追求であり、それを助けるべく行ったものがこのセットに見られるような外面的リアリティへの傾向だったわけですが、イズムという言葉を使うならば、リアリズムのつもりがいつの間にかナチュラリズムに陥ってしまっていた、ということになります。 今回の言葉はどちらかというと演出という立場からの教えですが、俳優が『実生活から規範をとる』ときに準備と表現の両方で、所謂『糞リアリズム』に陥らないためには、何をどの程度まで利用すべきか、或いは、その本質をどのように変形させれば用いることが出来るかという事につながるものでしょう。 つまり、役や、戯曲や、上演形式や、その上演自体の真意といったものと照らし合わせた上での『必要とされる真実』を見つけ出すことが大事になるわけで、これこそが、その時々における『詩的等価物に変形された真実』ということになるのです。 |
06/06/30配信 087号俳優が一人で自分の記憶を蘇らせようと、他人の助けを借りてそうしようと、何か本当の違いがあるとは思われない。 俳優修業の進行に伴って、【情緒的記憶】の章に入っていきましょう。 今回配信の言葉は、先のダーシャの一連のエクササイズ(06/04/13配信 082号 参照)の後に、起こったことの説明をしたときの台詞の一部ですが、これが一番シンプルに【情緒的記憶】を語っている言葉なので、今回とりあげてみました。 K.Sは、博識な、とある人物との会談の中で「俳優の創造活動というものは、感情の記憶に根ざしているのではないか」という意見を聞き、さっそく検証に入ります。 それは彼が、以前の自分自身の経験からもぼんやりと感じていたものを、精神生理学の見地から解明しようという試みでした。 研究したのはテオドア・リボーの『記憶の病』と『意志の病』で、それらから得られた幾つかの知識やヒントも加えて、システムに『感情の記憶(若しくは情意的記憶。後に情緒的記憶と改名)』という要素(エレメント)の考え方が生まれてきました。 結論から言うと、この要素も後には『潜在意識的な領域で活動する色合いが強く、直接働きかけるべきではないもの』として制約を受けるのですが、しかしこれが上手く働き出す場合には、俳優に素晴らしい天恵をもたらせてくれます。 したがってこの要素について知っておくことは大変有意義ですし、やはり結論から言ってしまうと、この【情緒的記憶】の貯蔵庫を増やすこと、それが自発的に活動しやすくなるような、力強くあるような、また持続しやすいような、俳優にとっての体質改善ともいうべき『自分自身の為の仕事』が重要になってくる訳です。 |
06/07/18配信 088号肝心なのは、諸君が何を感じていたか、ということである。(中略) 俳優修業の【情緒的記憶】の章は、生徒達がおなじみの即興の復習をするところから始まります。 それを彼らはあるやり方で演じるのですが、教師は「そこに情緒的記憶の(若しくは情緒的記憶から生まれたものの)片鱗も見られなかった」と批評します。 生徒達は驚いて「自分たちがしていることを本当に感じた」と主張しますが、教師は「もちろん諸君は何事かを感じて(=知覚して)いた。そうでなかったら、諸君は死んでいたのだ。肝心なのは、諸君が何を感じていたか、ということである」と、今回の言葉に続いてゆきます。 教師の批評は、前回は【与えられた環境】【魔法のもし】【(潜在意識的に生まれた)目標と適応】等によって(情緒的記憶も自然に活動し、)正しい演技が生まれたけれども、今回のものは、その成功した前回の自分たちの演技を自分たち自身が模写したにすぎない、そこには『段取りの記憶(こういうシステム用語はありませんが、情緒的記憶に対比するものとして仮にこう呼ぶ事にします)』しか無かった、というものです。 つまり、自分たちがどう動いたとか、どういうポーズを取っていたとか、お互いどういう位置関係にあったとか、どういうタイミングでどういう事をしたか等を覚えていて繰り返すのは『段取りの記憶』であって、(もちろんそれは芝居には必要なものではあるけれども)同時にそこに【情緒的記憶】が無ければ、演技はただ単に段取りをなぞるだけの形式的で冷ややかなもの(=要求される情緒の欠如した、機械的なもの)になってしまう、というわけです。 【情緒的記憶】と『段取りの記憶』の違いについては俳優修業に良い例えが有るので次回に紹介します。 また、今回の補足解説の中にも、もっと詳細な解説を付けなければならないところも多々あるのですが、スペースの都合もあるので、追々触れていきたいと思います。 |
06/08/17配信 089号二人の旅行者が高潮のために岩の上に置き去りをくったのだ。救われてから、彼らは自分たちの印象を物語った。 これはリボーの、二人の遭難者の例えを元に【情緒的記憶】と『段取りの記憶(この場合は『自分のおこなった行動の記憶』と言った方が分かり易いかも知れません)』の違いを解説したものです。 ただし、元になったリボーの文献は病と感情の関係についてのものなので、この例えも少し極端な部分がありますし、また我々が実際にこの要素を利用する際には、これらをあまり厳密に分けて考える必要もないでしょう。 もし実生活でこういう事が起こった場合、この第二の男の『場所については全然記憶がなかった』というような事は、普通はありません。 同じように『自分の行った行動だけは思い出すけれども、情緒的な記憶がない』という事もまず無いでしょう。 例えば、
勿論、こういう劇的な状況の中では記憶が交錯してしまう事や欠落してしまうこと(例えば上記リストの4番目で、どうやって岩場を降りたのかは憶えていないがとにかく必死だった、というような場合)、あるいは精神的ショックである種の記憶が全く無くなるという症状(特定の事柄に関する記憶喪失等)の場合もあるでしょうが、それはあくまでも例外です。 戯曲でも、人間のそういう状態を描くシーンが、ときには全編を通してそういう状況下で進展していくものが無いわけではないでしょうが、性格描写や形象の創造の基本という観点から見れば、それもやはり例外的なものです。 以前、【行動】という要素を研究するときに便宜上の分け方として『内面的行動』と『外面的行動』という言葉を使うと述べましたが、この場合も同じで、【情緒的記憶】と『自分のおこなった行動の記憶(芝居の場合は段取りの記憶)』は相反するものではなく、互いに強化しあいながら【途切れぬ線】に融合されてゆくべきもの、と考えてください。 |
06/09/02配信 090号もしも私が、私の要求をもっと切りつめなければならないとしたら、私はこう云うべきだ。 今回の言葉は前々回のエクササイズで『どうあれば良かったのか』を教示する一節ですが、この言葉の前に、『更に良い状況』というのが二つ示されています。 一番目は、『最初の時と同じように特に努力することもなく、精神的材料を使って演じられる』というもので、教師は、 もしそれが出来たのだったら、私は諸君が、並はずれた情緒的記憶を持っている、と言ったことだろう。と言っています。 しかし続けて、 不幸にして、そんなことは全く滅多に無いことなのだ。だから私は、私の要求をもっと控えめにしないわけにはいかない。と、二番目の状態について解説しています。 これは『段取りの記憶』に守られてスタートし、進んでいくうちに、上手く情緒的記憶が働き出す場合の解説で、実際には「以前の感情を思い出させるようにして」と言う部分は直接的にそうさせようとするのではなく、間接的にそういう精神技術を使えるような、またそれが起こったならそれに身を任せられるような、俳優的体質になっていないと難しいようです。 (つまり我々の用語で云う『自分自身に対する仕事』の各要素がかなり鍛えられていないと難しい、ということです) ところで、芝居というのは、実はすべて『段取り』の上に成り立っています。 戯曲の流れに沿って、ここでAがこれこれの台詞を言う、続いてBがなにがしの台詞を言い、Cが登場する、そこで何々の効果音が入り、AとBはあれこれのリアクションをする…、という具合です。 つまり俳優という職業は、『段取り』をあたかも目の前で起こっている実際の出来事と同じように取り扱わねばならないと云うことになります。 戯曲の流れと俳優のなすべき事を道に例えると、『段取り』というのはその道幅から外れてはいけない事を示す線、先ほど「『段取りの記憶』に守られて」と書きましたが、まさしくある種のガードレールのようなもの、と考えると分かり易いかも知れません。 『アドリブ』という要素が有り、これはガードレールを飛び越しているように感じられますが、実はそうではなく、『アドリブ』が許されるところは単に他の場所よりも道幅が広くなっていて、その道幅の範囲内を自由にコース取りできる、場合によっては蛇行したり回転したりできる、ということにすぎません。 いずれは元の道幅とコース取りに戻り、本来計画された通りに戯曲を展開していかねばならない訳で、言い換えれば『アドリブ』自体もそれが認められている範囲というのは『段取り』の一部、「想定内」ということなのです。 さて、話を戻しましょう。 二番目の状態も難しいならばもっと要求を切りつめよう、というのが今回の言葉です。 これが前の二つと違うのは、以前使った情緒的記憶を蘇らせることにこだわらず、正しい創造過程をたどることによってその題材を再創造しよう、ということで、そこに有機的な創造活動があるか否かが重要になるのです。 つまり『段取り』のガードレールに手を添えてトボトボ歩くのではなく、その許容範囲内でもう一度自由にコース取りをして、目標を持って道を進みなさい。その場合にきちんと『新しい想像上の付け足しを導入する』事が出来るならば、(以前の情緒的記憶と同じものが蘇るかどうかは別としても)なにがしかの情緒的記憶は現れ易くなるでしょう、ということです。 これは【情緒的記憶】から更に進んだ【インスピレーション】という要素にも関係してくるのですが、少し難しくなりすぎるので置いておき、今は「『段取りの記憶』を機械的になぞるだけにならないように」ということにだけ注意してください。 |
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