スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 091〜095

06/09/16配信 091号

たとえ、我々の嗅覚や、味覚や、触覚が我々の芸術において有用であり、ときとしては重要でさえあっても、それらの役割は単に補助的で、我々の情緒的記憶に影響を与えるのが目的なのだ。


俳優修業の課業では生徒の実体験を例にして、
君に、かつてモスクヴィンが演ずるのを見たときや、友達が死んだときに感じた感じを蘇らせるような、そういったタイプの記憶が、我々の、情緒的記憶と呼ぶところのものだ。
ちょうど君の視覚的記憶が、何か忘れていた物事や、場所や、人間の内的イメージを再構成することが出来るように、君の情緒的記憶は、君がかつて経験した感情を蘇らせることが出来る。(中略)

ときとすると、その情緒は、いつかと同じように強いし、ときとすると、より弱く、またときには、同じ強い感情が戻ってきても、いくらか様子が違うだろう。

君はある経験を思い出すと、今でも頬を紅潮させたり、蒼白になったり出来るし、ある悲劇的な出来事は、「思い出す」のを恐れるのだから、我々は君が、情緒的記憶を持っていると結論することが出来る。
しかしそれは、君が舞台へ出ると陥ってしまう芝居じみた状態との戦いに、助けを借りずに勝つことが出来るほどには訓練されていないのである。
と、情緒的記憶の性質や現れ方を、また彼の場合の(そして多くの人の場合の)情緒的記憶を利用できる能力を解説し、続いて【感覚的記憶】との区別にも触れてゆきます。
上記の引用にも『視覚的記憶』という言葉が出てきましたが、【感覚的記憶】とは人間の持つ五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と結びついた『ある種の感覚の記憶』の事で、幾つかの例をあげて、これは情緒的記憶との相互関係において、俳優にとって有用な要素である、としています。

また【感覚的記憶】を素材として想像力を働かせることにより、見たり聞いたりしたことのないものについてまで、自分の想像で同じ事をすることが出来る、とも教示しています。
(この『自分の想像で同じ事をする』と、先に出た『内的イメージを再構成する』ということが、実際の現場では最も多く、また最も普通に使われていることでしょう。これについては情緒的記憶や感覚的記憶の材料をどこに求めるかという問題もあるので、後日機会が有った時に触れたいと思います)

さて、感覚的記憶について説明している最後の部分を少し引用してみましょう。
とはいえ、いくら完全に発達した技巧(=トリック)だって、自然の芸術とは比較にならない。(中略)
我々は、我々の複雑な本性(=創造的自然の本性)の多くの重要な側面が、我々に知られてもいなければ、我々の意識的な命令に従いもしないのだという事実を見逃してはならないのだ。
自然(=我々の内部にある、創造的自然の本性)だけがそれへ近づくことが出来るのである。
自然の助けを借りないかぎりは、我々は、我々の複雑な創造器官の、ただ一部を支配するだけで満足しなければならない。
この後に今回配信の言葉が続くことになります。
これは、【感覚的記憶】は【情緒的記憶】との相互関係、【情緒的記憶】を刺激する一要素として有用ではあるけれども、【感覚的記憶】にこだわりすぎると手段が目的にすり替わり、「真実感のための真実感」「技術のための技術」になり易いということです。
つまり(これもK.Sがよく使う分類の仕方ですが)『技術(テクニック)』が『技巧(トリック)』になってしまっては生きた創造活動は行えない、ということになるわけです。
06/09/29配信 092号

時間は、我々の記憶している感情の、素晴らしいフィルターだ。おまけにそれは、大芸術家なのである。
それは単に浄化するばかりではないのだ。それはまた、痛ましいほどリアリスティックな記憶でさえも、詩に変えるのである。


一般的に云う人間の記憶力というものは結構不正確なものですが、情緒的な記憶、たとえば或る記憶に伴う情緒や印象というものも同じように移ろいやすいものです。

昔観た映画の或るシーンが強く印象に残っていて、何年も経ってからあらためて観てみたら「あれっ、こんなだったっけ…」という経験は多くの人が持っていることでしょう。

これはその人の年齢的・精神的成長によってものの見方が変わったというだけではなく、どうやら我々の情緒的記憶というものは、特にその印象が強ければ強いほど、或いはそれに心引かれる度合いが強ければ強いほど、変化しやすいということのようです。

その人にとって嬉しいとか楽しいといったプラスに働いたものはよりプラス方向に、悲しいとか痛ましいといったマイナスの印象を残したものはそれらを癒す方向に精神的な自己防衛本能が働く、といった話を聞いたことがあります。

俳優修業ではこの情緒的記憶の持つ性質を、
それは我々の内部に起こることの、すばらしい実例だ。我々は銘々、多くの事件を見たことがある。我々はその記憶を持ってはいるけれども、しかしそれは我々に印象を与えた目立った特徴だけで、それらのディテールではないのだ。
そういった印象から、関係のある経験の、一つの大きな、圧縮された、より深い、より広い、『感じの記憶』が形成される。それは一種の、大規模な記憶の綜合である。
それは現実の出来事よりも、より純粋で、より凝縮されていて、緊密で、実があって、より鋭い。
と、或る出来事に遭遇した生徒の、数日間に渡って起こった様々な内的変化について解説し、今回の言葉に続いてゆきます。

今回の冒頭では『情緒的記憶は移ろいやすいもの』と書きましたが、これを『成長するもの』と言い換えれば、俳優という『情緒的記憶を創造の材料として使う者』にとっては大きな財産となるわけです。

ところで、「俳優が芝居や映画を観るときには、俳優の目で見るべし」という言葉を聞いたことはありませんか? 私も昔はそう教わりました。

しかし現在では、「極力、観客の目で見るように」と指導しています。
これも詳細に説明すると長くなるので簡略に述べますが、俳優の目で見ようとすると、
・上っ面だけの陳腐な模倣や、表現のための表現に陥りやすい。
・自分がその作品の制作側に深く関わっているわけでもないのに、一度や二度見たくらいで俳優の魂や作品全体を通した演出の意図する深い部分を分析できるわけがない。(まして芝居はどんどん進行してゆくのに!)
というのが大きな理由です。

一方、観客の目で見ると云うことは、もしそれが優れた作品ならそこになにがしかのエモーションが生まれ、それは当人の中に情緒的記憶として残り、成長して俳優の財産となるのです。
また観客として楽しみながら感受性を高める習慣にもなるわけで、外的表現の研究のために同じDVDを何度も繰り返して見るというような場合を除いては、(特に初めて観るものは)出来るだけ観客の目で観るようにしてください。

案ずることはありません。
良い俳優というものは、どんなに観客の目で鑑賞しているつもりでも、同時に、必ずどこか俳優の目で研究しているものですから。
06/10/16配信 093号

「しかし、大詩人や大芸術家は、自然から引き出すものです」
「その通りだ。しかし彼らは、自然を写真に撮るのではない。
彼らの作品は、彼ら自身の個性を通過するのだし、自然が彼らに与えるものは、彼らの情緒的記憶の蓄えからとられた、生きた材料で補足されるのだ


これは前回の言葉の後に直接続いているもので、この後教師はシェイクスピア作品に触れて、彼の作品のほとんどには所謂元ネタというものがあったけれども、シェイクスピア自身の情緒的記憶からとられた生きた材料や付け足しをすることによって元ネタを素晴らしい作品に生き返らせた事実を例に補足説明をしています。

今回の言葉の最初の行は生徒の質問で、これは様々な要素の解説の中で度々出てきた「規範は生活からとる」という基本的な教えを持ち出してのものですが、教師の答えはその基本的な教えをもう少し深く解説したものとなります。
生活からとられた素材が創造者の中で変形され、あるいはちょうど『何年ものの銘酒』のように熟成されると、それが彼の芸術に果たす役割や効果はより素晴らしいものになるというわけです。

言い方は違いますが、【注意の圏】の章で「規範は生活からとる」について触れている 04/05/28配信 037号 も参照にしてください。

尚、「自然を写真に撮るのではない」は、「ただ単にコピーするわけではない」或いは「写実的に切り取る事だけが目的ではない」という意味で、創造的芸術家たる写真家の作品を否定するものではありません。
06/11/02配信 094号

それはちっとも珍しい事ではない。
人によっては、たとえ或るものは他のものより近づき易いとしても、諸君は諸君の情緒的記憶を書庫の中の本を扱うようには扱えないのだ。


前回、前々回は、情緒的記憶自体の変形・成長について触れましたが、今回は創造的瞬間に現れる情緒的記憶の「現れ方」そのものについての教示です。

俳優修業の例で云うと、列車事故について回想すると別の脱線事故の記憶が蘇ること、被害者にかがみ込んでいる薬屋の事を考えると、やはり全く別の、死んだ猿の口に泣きながらオレンジを押し込んでいるイタリア人を見た記憶が蘇る、というくだりで、この記憶の変換を体験した生徒の疑問に対する教師の答えが今回の言葉になります。

K.Sは『感じの記憶』から引き出される情緒的記憶の現れ方について、俳優修業をはじめとしてあちこちで「ガラス玉の例」をあげていますが、「書庫の中の本を扱うようには扱えない」という言葉の方が分かり易いと思います。
つまり「ああ、あの資料は確かこれに出ていたなぁ」と必要な本を手に取るように、特定の情緒的記憶を自由自在に引き出すことは出来ない、ということです。

「たとえ或るものは他のものより近づき易い」という部分は「ある人にとっては、Aという特定の情緒的記憶は他の情緒的記憶よりも比較的現れ易い」という意味で、この近づきやすいものが多ければ多いほど、様々な役やシーンを演ずるのが容易になるのですが、世界中のすべての役のすべてのシーンに呼応する情緒的記憶の持ち主などいるわけもないので、やはり「書庫の中の本を扱うようには扱えない」となるわけです。

俳優は、稽古ででも本番ででも、一度でも情緒的記憶の恩恵を受けるとそれを定着させ繰り返したくなるものですが、それは無駄な努力とすっぱり諦め、もっと別のやるべき事にエネルギーを注ぐべきでしょう。

最後に、俳優修業から少し引用しておきましょう。
問題は、かつて流星みたいに閃き去った情緒をもう一度捕まえるということである。
もしもそれが(潜在意識の)表面近くに止まっていて君のところに戻ってくるならば、君は君の幸運に感謝するがいいのだ。
しかしいつでも、その同じ印象が取り戻せるものと思ってはいけない。
明日は、何かまるで違ったものがそのかわりに現れるかもしれない。それに感謝したまえ。他のことを期待してはならない。
もしも君が、そういった戻ってくる記憶を受け入れやすくする事を学ぶようならば、新しいのが形をなすにつれて、重ねて君の感情を動かすことがよりよく出来るようになるだろう。
今度は君の魂がより感じやすくなって、君の役が絶えず繰り返されるために訴えかけが弱くなってしまっている部分に対して、新しい暖かさ(=【熱した方法】)で反応するようになるだろう。
06/11/21配信 095号

俳優の反応がより力強い場合には、インスピレイションがあられることができるのだ。
そうかといって、一度巡り合わせたインスピレイションを追っかけて、時間を空費すべきではない。
(それは昨日のように、子供の時分の悦びのように、初恋のように、取り戻すことが出来ないものなのである。)
今日のために、新しい、爽やかなインスピレイションを創造することに君の努力を傾けたまえ。それが昨日のに劣るという理由はないのだ。
(それは、それほど素晴らしくないかも知れない。しかし君は、それを今日、掌中に握っているという利点を持っている。
それは、君の内部に創造の火花を点ずるために、君の魂の深みから自然に起こったのだ。

真のインスピレイションのどっちのあらわれが優っているなんて、誰に言えるだろう?
もしもそれらがインスピレイションによって与えられたものでありさえするならば、それらはみんなとりどりに素晴らしいのである。)

# 括弧内はメルマガでは省略しています


前回「情緒的記憶を書庫の中の本を扱うようには扱えない」という言葉を紹介しましたが、インスピレイションについてはより以上にこの言葉が当てはまります。
インスピレイションというのは「潜在意識の領域からやってくる(従って多くの場合、何らかの思いがけなさを伴った)、俳優と役との有機的な血の繋がりや、そこに存在する情緒や目標(超目標)」とでも云えばいいでしょうか。

それは「霊感」とも呼ばれ、当時は(現在でもそういう人はいますが)「役を感じさえすれば上手く演じられる」という、そのために自分自身にどういう準備をしなければならないかなど考えもしない「霊感頼みの俳優」が沢山いました。

一方K.Sは、インスピレイションの訪れに関してそういう俳優達以上に熱望していましたが、「そういう潜在意識的なものは我々の手に負えるものではない」と、それに直接近づくこともそれについて語ることも避け、それが訪れやすい土壌を作ることと、それが訪れやすい道程を進むことを説いていたのは度々述べてきたとおりです。

インスピレイションについてはこの後にも幾つか教示があるので追って紹介してゆきます。
尚、岡本太郎氏の「芸術は爆発だ」という言葉も、インスピレイションについての、たいへん趣のある名言でしょう。
back
バックナンバーの目次ページにもどります
next

Copyright(c) Tolzov-3 all rights reserved.

当サイトの著作権は他文献の引用部分や一部の画像等を除きTolzov-3 に帰属します。著作権法で許可されている私的利用目的の複製以外、当サイトの内容の一部及び全部の、複写・転用・無断転載等を禁止します。