06/03/31配信 081号ゴヴォルコフは熱狂的に、熱情を持って、ほとんど朗唱するように云った。 前回飛ばした部分を含め、俳優修業ではこの辺りで身体的行動と俳優の感じる情緒的なものとの関係についての解説が入ります。 これは、その二つがどのように固く結びついているか、情緒的なものに直接近づこうとするとどれだけの落とし穴があるか、情緒的なものを極限まで出し切るのはどれだけ困難なことか、それを成し遂げるために一番確かな方法とはどういうものか、というような事柄が分かり易く解説されていて、当サイトでも再三述べてきた【身体的行動の方式】の根本を記している部分です。 そしてその後は、レッスン風景の成功例や失敗例を用いたより具体的で詳細な解説に切り替わるのですが、この切り替わりの前後に、今回配信の言葉(以前紹介した『列車の旅の例』を皮肉ったもの)と、それに対する回答が語られています。 これはグリーシャ・ゴヴォルコフ(生徒の一人)の『まだ若く未熟な俳優の熱情性』の立場を借りて、俳優の陥りやすい間違いと、それを回避する方法が説かれているのですが、『身体的行動(スタニスラフスキィ著/土方與志訳/未来社)』ではこのエピソードが一連の流れとして記されているので、こちらを少し紹介しましょう。(一部構成) 「そうすると、君には地上を走る汽車ではなく、雲の上を飛ぶ飛行機が必要だというのか?」という会話から次のレッスンが始まります。 そして当時誕生間近であったヘリコプターを例にあげ、 「おそらく君は、地上を滑空しないで、空にまっすぐ、垂直に飛び上がることが出来るようになるかも知れない。聞くところによると、機械技術はすでにそこまで来たそうだ。とし、 「もしインスピレーションの旋風が捲き起こったならば、『我々の創造の飛行機』は滑走を必要とせず垂直に、雲の上に捲き上げられるだろう。と、当時の『偶然のインスピレーションの訪れに頼り、それが来ないと何も出来ない俳優達』を否定して『演技者の文法』の探求を始めた、所謂『システムの根本』について教示しています。 そして、 「飛行機が飛ぶのは、機体が地面から離れたその瞬間に始まる。と纏めています。 この最後の部分では俳優自身にとって必要な『真実』『リアリティ』と表現形式としてのそれらとの差異にも触れていますが、この辺りは05/06/02配信 063号で補足している通りです。 尚、余談ですが、これらの身体的なものと精神的なものの結びつき、或いは意識的なものと無意識的なものとの相互関係についての研究が、『パブロフの犬』で有名な生理学者のパブロフにシステムへの興味を抱かせた所以であり、また『夢判断』で有名なフロイトと比較されて、「スタニスラフスキィは芸術で、フロイトは心理学で、同じ真理に行き着いた」と評される所以でしょう。 (実際には、例え同じ真理に行き着いていたとしても、潜在意識的なものに対する両者の態度というか接し方はまったく違うのですが(^^;) |
06/04/13配信 082号起こったのは、彼女が、小道具の木の棒が生きた赤ん坊に変形したと信じたのではなく、もしそれが彼女の実生活で起こったならば彼女の救いになったであろうような、劇中の出来事の可能性を信じたという事なのである。# 括弧内はメルマガでは省略しています 少し背景を記しましょう。 前回のグリーシャのエピソードに続き、次にはダーシャという女生徒がエクササイズに挑む一齣となります。 その題材は彼女の実体験と類似した要素を持っていたため、自然にインスピレーションの爆発が起こり、彼女は大変上手く演じます。 しかし教師の「それが毎回起こるとは限らない」という言葉を否定するかのように再び演じた彼女は、直接インスピレーションに近づこうとして失敗に終わります。 教師は「もっと実質的な手段を見つけなければならない(06/01/12配信 076号の最後の引用文)」と諭しますが、やはり彼女は直接的にインスピレーションに接近しようとして失敗してしまいます。 そこで教師は上手くいった時に直感的に行った行動(と、それに伴う真実の感覚・目標・想像力による付け足し等)を意識的に用いるように仕向けて、彼女を指導していきます。 彼女はだんだん正しい道に戻り、結果もついてくるのですが、最初のインスピレーションの爆発のような成果は得られません。 教師は、 気にすることはない。ひとたび土台ができあがって俳優の感情が高まり始めるならば、俳優は何か想像上の刺激でもって感情のはけ口を見つけ、観客をも動かすものだ。と、【魔法のもし】の力強さと【与えられた環境】の輪郭をより鮮やかに暗示するアドバイスを送るのですが、これが彼女の実体験により近いものだったために、彼女はまたインスピレーションの大波にのまれることになります。 今回の言葉はこのエピソードの纏めとなるもので(もう少し触れたい部分もありますが今回は割愛します)、これも再三の繰り返しになりますが「劇中の出来事の可能性を信ずる」というのが我々の用語で云う【リアリティ・真実・信頼・誠実さ】という事になります。 そして、「役を創造する場合だけでなく、すでに創造した役を復活させようとする場合にも〜」の部分ですが、これは【反復性】に触れた教示です。 以前どこかで、『演技力』という漠然とした言葉には「質(どのくらい難しいものが出来るか(個人的な資質の差によって一概に何が難しいとは云い切れないが、一例を挙げると大きな喜び・深い悲しみ等))」と「量(それをどのくらい続けられるか(二言三言の台詞だけでなく、一幕全体とか戯曲全編を通してとかという意味で))」というような要素があると書きました。 【反復性】というのは上記の要素とは少し違うアングルからの、「何度演じても同じ水準が保てるか」という技術のことで、俳優修業にも例があるように、舞台なら、稽古や初日だけ上手くできても他の日はダメ、映像だとリハーサルやテストでは良くても本番でキャメラが回ったときにそれが出来なければ意味がない、あるいは当人の責任ではない何らかの理由でNGが出た場合に、テイクを重ねると上手くいかなくなるということではよろしくありません。 この技術は特に内面的なものに対して困難なのですが、外面的なものに対しては意識的にコントロールし易いという側面もあります。 つまりここでも、身体的行動をおとりに使って【目標】だの【真実の感覚】だのを自然に働かせ、結果として感情をおびき出す【身体的行動の方式】が役に立つということになるのです。 |
06/04/28配信 083号我々は、決してあらゆるタイプの真実が舞台へ移されうるものではないと結論する。 俳優修業では、引き続き生徒達が【真実の感覚】をテストされるというシーンを使って解説が続いていきます。 一つは、『外面的なだけのリアルさ』と『(虚構世界の中で、)虚構としてではあってもまさしくそこに実在するリアルさ』との違いで、端的には『そう見える』と『そこにある』の違いと説明しています。 続いて、喜劇的な役ではリアリティのバランスが取れているのに、劇的なものになると『気取ったやりすぎ』に陥ってしまった生徒を例に挙げ、『一面的な真実の感覚』について触れています。 (これは、自分の役のレパートリーを広げるためには未熟な面は強化すべきであり、またキャスティングの見地からいうと、自分の資質に不相応な役を望むべきではない、という厳しい教えになります) そして、死の場面で真実のディテイルを望ましくない程度にまで誇張した生徒に対しては、 君は痙攣をし、吐きそうになり、呻き、恐ろしく顔をしかめ、だんだんに痙攣する。君はそこでは、自然主義のための自然主義に溺れているように見える。君は人体の死滅の、外的な、視覚的な記憶により興味を持っていた。として、今回の言葉に続いていきます。 これは05/11/28配信 074号でとりあげた、身体的行動で『どの程度のリアリスティックなディテイルにまで行かなければならないか』という問題と同じで、『その時々の要求に応じたリアリティ』の本質(程度・性質・求められる理由等)を見極める、ということになります。 『創造的想像力によって詩的等価物に変形された真実』とは『演劇にふさわしい、美しい(=魅力的な)形式や表現』に転化できる(若しくは転化された)真実の事であり、06/03/16配信 080号で紹介した『小さな身体的行為が、大きな内的意味を持つ』に通じるものです。 |
06/05/20配信 084号どこからどこまでも芸術的に真実だった。諸君はすっかり信ずることが出来た。というのも、あれは実生活からとった、注意深く選択された小さな真実を基礎にしていたからだ。 次にはマリアという学生が、前々回のダーシャと同じシーンを使ってテストされます。 ダーシャにはエクササイズで与えられている環境と類似した実体験があり、その類似性がインスピレーションの爆発を生んだのですが、マリアにはそういう実体験は無いようです。 しかしマリアは、生活の観察からとった様々な小さな真実(ある環境における人間の典型的な、或いは普遍的な心理・反応・行為等)を上手く利用することによって、ダーシャとはまったく違った風に、しかし大変素晴らしく演じます。 今回配信の言葉はそのマリアの演技に対する批評で、これこそがシチェープキンの「規範は生活からとる」という教えと、『正しく演じる(03/08/12配信 012号 参照)』事の結果として生まれた演技の一例でしょう。 尚、『プロポーションの感覚』というのは、『生活からとった小さな真実の中から、どれを採用するか、またどのように変形させて利用するかという能力』という意味です。 俳優修業ではこのあと、【信頼と真実の感覚】と【小さな真実】は、日常生活でも稽古でも公演でも我々について回るもので、これを発達させコントロールできるように訓練するべきだと、その理由とともに纏めています。 最後にそれを少し引用しておきましょう。 我々の唯一の関心事は、この感覚を発達させ、強化する方向に向かうべきだということだ。これは難事業である。なぜなら、諸君が舞台の上にいるときは、真実を言ったりしたりするよりも、嘘をつくことの方がずっと易しいからだ。 |
06/06/01配信 085号いけません、いけません。舞台は芸術です。 今回の言葉は使われた経緯に少し誤解された部分もあるのですが、現実と芸術での『リアル』の意味合いの違いを簡潔明瞭に示した名言なのでとりあげてみました。 この言葉はチェーホフがモスクワ芸術座の『かもめ』の稽古を見る前に、「本物の蛙やコオロギの鳴き声、犬の遠吠えが効果音として使われる」という話を聞き、それに対して意見したものです。 この「稽古を見る前に意見をした」というのは、『かもめ』はすでに別の劇団によって上演され、決して成功とは言えない評価が下されていたので、チェーホフ自身がかなり神経質になっていたということもあります。 一方、演出プランを練ったK.Sの意図は「本物の鼻」を付ける(=生活を切り取ってそっくり舞台に乗せる)つもりではなく、作品の持つ叙情性を表現し、俳優や観客の感じる『劇中世界の雰囲気』や、そこで繰り広げられる『舞台の真実』を手助けするためのもので、ダンチェンコに宛てた手紙にも、 考えてみてください。静けさを出すためにだけ、その場面に蛙を鳴かせているのです。静けさというのは、舞台では沈黙ではなく物音で表現されるものです。沈黙を物音で満たさなかったら、イリュージョンは生まれないのです。と書いています。 (表現・演出手法の是非については、また別の話となります) 結果としては、それらの効果音は叙情的効果を表し、『かもめ』の上演は大成功を収めます。 K.Sの意図したイリュージョン、つまり『舞台の真実』が高められたわけです。 尤もこの大成功は当時まだ広く行われていた演劇的因習からの脱却とも言うべき新鮮な演技や上演だったという理由もあったようで、後には内・外部から、自然主義的要素の多い演出として「コオロギや蚊に死を!」といった批判も出ています。 蚊というのは、(片田舎の夕暮れ時の情景やその場の雰囲気、そしてそこでの人間の普通の行動として)登場人物がヤブ蚊を追い払おうと腕や首筋をバチバチ叩く仕草が多かった事(ワーニャ伯父)を指したもので、こちらの方は生活からとった真実が叙情ではなく叙事になってしまい、「本物の鼻」を付けてしまった、ということになりましょう。 |
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