スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 096〜

06/12/08配信 096号

我々は、それがしばしばあらわれて、創造活動の一番重要な要素の一つである『我々の情緒の誠実さ』を激しくするのを助けてくれるように願うほかはない。
感情のこういう自然な発生の思いがけなさというものは、抵抗しがたい、動かす力なのである。


俳優修業のレッスンは、生徒の質問と教師の答えという形で、インスピレイションについての教示が続きます。
その発生について教師は「それは私の畑ではないし、それを究明しようとも思わない。ただそれが我々にとって大変有用なものであることを諸君に伝えるだけだ」と、インスピレイションそのものについての議論は避けます。

しかし、「俳優が舞台で初めて感じたりするものがあるのか? もしあるとするならば、それは良いことなのか?」という俳優にとって実際的な質問に対しては「それは種類次第だ」として、『ハムレット』を例にあげて、「もし君が最後の幕で、突然、生まれて初めて本物の殺意をおぼえたと仮定したまえ。劇場は大惨事に見舞われるだろう。そんな風な自然の情緒に身を任せることが賢明だと思うかね?」と答えます。

そして、「それでは、自然の情緒はけっして望ましくないのか?」という問いに「それどころか極めて望ましいのだ。そういった、力強い、まざまざとした情緒は、普通は先の例のような形では現れないものなのだ。それは、長い間はもたない。短いエピソードや、個々の瞬間にぱっと閃いて、消えてしまう。そういう形では、それは大いに結構なのだ」 として、今回の言葉に続いてゆきます。

これは少し極端な例でしょうが、その【与えられた環境】に合致した『殺意』がインスピレイションとして閃くならば、ハムレット役の俳優の『情緒の誠実さ』は強められ、役と俳優の血の繋がりはますます強くなる、というわけです。

また「抵抗しがたい、動かす力」というのは、まさしく【大いなる内的能動性】につながるものですね。
06/12/22配信 097号

俳優が戯曲の核心を自分自身の核心とせず、真の創造の秘密が無意識を信頼すること(無意識自体が戯曲の核心に反応する)にあることを信じなければ、彼は過去の紋切型で、つまり出来の悪い稽古で創り出される紋切型で演技せざるを得なくなる。(中略)
俳優が新しい役を演じるとき、最も興味深いのは、その意外性である。


前回は「感情のこういう自然な発生の思いがけなさ」と言う言葉が出てきましたし、前々回の解説では「従って多くの場合、何らかの思いがけなさを伴った」と、書きました。
今回はこの「思いがけなさ(=意外性)」について少し触れてみたいと思います。

創造過程ではインスピレーションに直接働きかけようとするのではなく、意識的な道を辿ることによって潜在意識的な領域にたどり着くべきである、という方法論はすでに述べてきた通りです。
そしてもしこの方法でインスピレーションの閃く瞬間を獲得したならば、それはつまり今までの意識的な研究や稽古では発見できなかったものを発見したという事なので、多かれ少なかれそこには何らかの「思いがけなさ」があるのです。

これはその瞬間に自分自身が気づくものもありますし、後になって他人に言われても自分ではわからないまま、という事もあります。
台詞ではアクセントやイントネーションの微妙な違い、身振りや仕草の些細な変化、様々な目標に対する能動性の強弱、戯曲や台詞の解釈や相手役に対する態度の変化等、訪れたインスピレーションの強さや性質によって様々な場合がありますが、【信頼と真実の感覚】や【適応】に著しい効果を及ぼすのが普通でしょう。
また、かなり強いインスピレーションの場合には【超目標】に直接影響を与えることもあります。

いずれも俳優自身が知覚できる場合には、意識的な過程では発見できなかった真理が突然目の前に開けた、という感じであり、その結果として今までは考えたこともなかった行動が必然的な(若しくは無意識的な)行動になる、という訳です。

インスピレーションは本番の時だけでなく、稽古の時に訪れることもあります。
否、本来は毎回毎回の稽古がそうあるのが最良なのですが、まあそれはともかくとしても、稽古で訪れたインスピレーションもそのままでは二度と戻ってこないか色あせた形骸だけのものになってしまうので、その経験は正しい道を辿っている目安として考え、再びそういうものを誘致しやすくするような作業が必要になるのです。

今回配信の言葉はワフターンゴフのもので(演劇の革新/群像社)、少し厳しい言い方の部分や表現形式を含む創造全体に対する意味合いも含んだものですが、大変含蓄のある言葉です。

尚、インスピレーションの意外性について一つだけ補足しておくと、「意外性」さえ有れば何でも良いというわけではないと言うことです。
その意外さは、客観的にみても説得力の有るもの、検証したときにきちんと納得できるもの、そして上演のテーマや形式にも則したものでなければならない、ということです。
07/01/15配信 098号

意識は、潜在意識が創造するものを創造することは出来ない。
無意識の領域には、意識の関与無しに自主的に素材を選ぶ能力の他に、意識的手段でも創造のための素材が送り込まれているようだ。
(中略)
何もないところからは何も創り出せない。(中略)
インスピレーションとは、潜在意識が意識の関与無しに、それに先行するすべての印象や経験や作業に形を与える瞬間なのだ。(後略・構成)


今回の言葉もインスピレーションに触れたワフターンゴフのものですが、俳優教育について、稽古のあり方について触れている部分もあるので、背景を簡単に補足しましょう。

当時から俳優学校は、俳優に「役の演じ方」を詰め込むところがほとんどでした。
つまりそこで何ヶ月か稽古したものはそれなりの形になりますが、新しい台本をポンと渡されて「やってみろ」といわれると何も出来ない、紋切り型が顔を出す、という具合です。

それに対し、K.Sやワフターンゴフが常々言っていたのは、俳優教育というものは「創造」それ自体を仕込むのではなく、「自らの力で創造することができる俳優」を育てなければならない、という事でした。

ワフターンゴフの弟子であったB・ザハーバーが纏めたワフターンゴフの教えでは、今回の言葉の前に
いかにして創造するかということは、誰にも教えることは出来ない。なぜなら創造の過程は潜在意識によるものだからだ。
一方、あらゆる教授法というものは、俳優が創造的仕事を準備できるだけの意識的行為の一形式なのだ。
という部分があり、そして中略部分には、
この意味において、芝居の1回1回の稽古が、次の稽古のための素材を呼び覚ますのに役立つとき、最も効果的である。
新たにつかんだ素材を作り直す創造的な仕事は、稽古と稽古の間に起こるのだ。
何もないところからは何も創り出せない。
それが「役をインスピレーション頼みだけで演じてはならない」という理由だ。
という言葉が入ります。
また、後略部分は、
この瞬間に伴う情熱が自然の状態である。
意識的につくられたものはどんなものであれ、この特質を持っていない。
無意識に創造されたものはすべて、感染力を持ったエネルギーの放射を伴うものだ。
この能力、つまり潜在意識が観客の潜在意識をゆり動かし感動させるような能力、これこそ才能というものの一つの特質だ。
と続きます。
「自然の状態である」は「創造的自然の本性である」とすると分かりやすいかと思いますが、まあインスピレーションそのものについてはK.Sの言うように心理学者に任せておいて、あまり難しく考えないほうがいいでしょう。
正しい過程を辿っていれば、やがて実感できるときが来るかと思います。

尚、この後には少々複雑な心境にされてしまう言葉が続きます。
一応それも紹介しておきましょう。
潜在意識に意識的に養分を与え、潜在意識の作業の結果を無意識に発揮するもの、それが才人である。

潜在意識に無意識に養分を与え、無意識にその結果を発揮できるもの、それが天才である。

意識的にそれを発揮するもの、それは巨匠だ。

意識的であれ無意識にであれ感受する能力に欠け、しかもあえてその能力を発揮しようとするものは、無能である。なぜならそういう人には自分自身の顔が無く、創造の領域である潜在意識に何ももたらさず、何ものも発揮できないからである。
この項の引用文献
ワフターンゴフの演出演技創造/ゴルチャコーフ著/高山図南雄訳編/青雲書房
演劇の革新/ワフターンゴフ/堀江新二訳/群像社

07/02/01配信 099号

思いがけない、無意識的な感情が注入されるのは非常に誘惑的だ。
それは我々が夢想することだし、我々の芸術における創造の大好物だ。
だが君は、だからといって情緒的記憶から引き出される『繰り返しの感情』の意義をちょっとでもみくびる権利があると結論してはならないのである。
(それどころか、君は完全にそいつに身を捧げなければならないのである。)
なぜならば、君がどの程度かにインスピレイションに影響を与える事が出来る唯一の手段は、それだからである。
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ここ何回かはインスピレイションや潜在意識的創造についての言葉を紹介してきましたが、そろそろ情緒的記憶の解説に戻りましょう。

今回の言葉は俳優修業のレッスンの中で、インスピレイションの効果や性質について一通り説明した後、情緒的記憶やそれを創造の素材として生まれる『繰り返しの感情』とインスピレイションの関係について教示したものです。

「俳優の創造過程ではインスピレイションに恵まれた瞬間を持つということは大変素晴らしいことだが、それもまた一つの結果であり、それを直接欲するのではなくて、そういう良い結果が現れやすくなるような環境を作り出す事に努めなさい。そんな場合には、情緒的記憶という要素(エレメンツ)はインスピレイションにとって肥沃な土壌となりうるのです」というのが今回の教えで、特に難しいところはないと思いますが、一つだけ忘れてならないことは、情緒的記憶が有効に使われたり『繰り返しの感情』が現れるのも、ほとんどが潜在意識的創造の領域で起こるものだということです。

どの程度かにインスピレイションに影響を与える事が出来る唯一の手段は、それだからである』という部分は、実際には『唯一』というわけではないと思いますが、『繰り返しの感情』が新たな刺激によって変型(バリアント)を生んだり、インスピレイションの誘爆を生じさせ易いという性質を持つので、今回の言葉のようにその意義は大きなものでしょう。

『繰り返しの感情』については 06/11/02配信 094号 の補則解説で最後に引用している部分に分かり易いK.Sの言葉があるので参照してください。

尚、今回の言葉の後には次の言葉が続き、K.S派の三大原理を再確認させています。
諸君に、もう一度我々の根本原理を思い出してもらおう。
我々は、意識的な手段を媒介として、潜在意識に到達するのである。
07/02/16配信 100号

芸術家は、彼の内部にある一番いいものを選んで、それを舞台へ持ってくるのである。
その形は戯曲の必要に従って変わるだろうが、しかし芸術家の人間的な情緒は生き続けるだろう。


今回も『繰り返しの感情』について教示したもので、少し前から引用すると、
もう一つ、諸君がそういった『繰り返しの感情』を大事にする理由は、芸術家たる俳優は、役を手当たり次第のもので形成するのではないということだ。
彼は自分の記憶の貯蔵庫から非常に注意深く選択をして、生きた経験の中から一番心をそそるものを選り抜くのである。
描くべき人間の魂を、彼自身の日常的な感覚よりも親密な、より近しいものとして感じるのである。

インスピレーションに対して、これ以上肥沃な畑を想像することが出来るだろうか?
として、今回の言葉に続きます。

少し注釈を加えますと、「一番いいものを選んで、それを舞台へ持ってくる」という部分は、情緒的記憶や『繰り返しの感情』の現れも潜在意識的領域で起こるものなので、実際には「完全に意識的な形でそれを選びだす」ということは不可能で、その「一番いいもの」が選ばれやすくなるような状況を作る、ということになります。

また、俳優修業の他の箇所での「しかし、自然(=無意識的なもの)はよくヘマをやる」「(インスピレーションが)来るのなら来させよう。我々はそれが役と合致して、食い違わないようにと願うだけである」という言葉と照らし合わせると理解しやすいでしょう。

インスピレーションや潜在意識的なものについては【潜在意識閾】という章で詳細に論じられていますのでその時にまた触れると思いますが、少しだけ先に解説をしておきますと、「潜在意識的なものなら何でも創造の材料になるというわけではない」ということです。

「その形は戯曲の必要に従って変わるだろうが〜」以下の部分は、俳優の個人的な経験から生じた情緒的記憶やそれを素材とする『繰り返しの感情』は役の要求と完全に一致するわけではないので、役の要求によって様々な変化をするもの(=変化すべきもの)だが、そんな場合でも、俳優の体験の有用な本質は、有機的に役の人物に受け継がれるだろう、という意味になります。
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