スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 101〜

07/03/05配信 101号

君は役を理解し、描かれた人間に共感し、君自身を彼の立場に置くことは出来る。
そうすれば君は、彼が行動するように行動するだろう。
俳優の内部には、役の人物の感情と似通った感情が喚起されるだろう。
その感情は、戯曲の作者によって創造された人間のものであるというだけではなくて、俳優自身のものでもあるだろう。


前回の解説の中で誤解されそうな部分があったので、少し補足しておきます。
潜在意識的なものなら何でも創造の材料になるというわけではない」の部分は、「潜在意識的なものがすべて、その時に要求されている形象の創造(や表現)の材料になるわけではない」とお考え下さい。

これはその少し前に出ている「来るのなら来させよう。我々はそれが役と合致して、食い違わないようにと願うだけである」とほぼ同じ意味であり、また「表現」というものを考えたときには、ワフターンゴフの
感情の真実が無ければ演劇的表現力もあり得ない。しかし『感情の真実』自体がそれに不可欠な表現形式を生みだしてくれるわけではない
という言葉(用語解説室【グロテスク】参照)がより分かり易いでしょう。

さて、今回の言葉は俳優修業の中で前回の内容の後、「じゃあ僕らはハムレットから『青い鳥』の砂糖の役に至るまで、どんな場合でも自分自身の感情(=情緒的記憶や潜在意識の閃き)を使うべきだというのですか?」という問いに答えたものです。
教師は「俳優は、彼が演じるすべての役のすべての瞬間を、彼の情緒的な材料無しに作り出せるわけもなく、また彼の魂を剥ぎ取って他人の魂を借りて来るというわけにも行かない。衣装や小道具は借りられても、感情は他人から借りられるものではないのだ」として、今回の言葉に続いてゆきます。

これは【魔法のもし】という近づき方そのもので、俳優の魂が戯曲の作者が創造した役の人物の魂と有機的な繋がりを得ていく過程、特にその中で『役の魂に共感する』という部分と、生まれた感情(自分の行っていることに対する信頼も、真実の感覚も、目標への意志も)は俳優と役との双方のもの、という部分は、経験のある方ならまさしくその通り、と感じることでしょう。

尚、ここでの「理解し」は役の消化・正当化を意味するのですが、今回の言葉すべてが「理解=肌で感じる=行動する」という、例の有名な言葉を表しています。
07/03/23配信 102号

舞台では、けっして君自身を失ってはならない。いつでも君自身として、一人の芸術家として行動したまえ。
(君はけっして、君自身から離れることは出来ないのだ。)
君が舞台で君自身を失う瞬間は、真に君の役を生きることを棄てて、誇張した嘘の演技をはじめるときだ。
だから、君がどんなに沢山の役を演じようとも、君は、君自身の感情を使うという規則に対して、けっして例外を許したりするべきではない。
その規則を破ることは、君が描いている人間を殺すのと同じ事だ。
なぜなら君は、役の生活の、本当の源である、脈打つ、生きた、人間の魂を奪うからである。
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今回の言葉とその後に続く部分も、やはりシステムの中でかなり誤解されやすいところなので次回と2回に分けて補足したいと思います。

今回の部分で誤解されやすいのはけっして君自身を失ってはならない。いつでも君自身として、一人の芸術家として行動したまえを他の部分と切り離して、(演技流派のカテゴリー分け的にいうと)【役を生きる芸術】より【再現の芸術】として捉えてしまうことです。

またこの部分だけを文字通りに解釈すると、「役と俳優との類似性を探し出し、その血の繋がりを得て、融合していく」という【熱した方法】ではなく、「演じやすいように役を自分に引き寄せる」という、【最少抵抗線】を辿り易くなるのです。

そうではなくて、まず忘れてならないのは、大元にあるのは 03/08/22配信 013号 で紹介した『生きる』ということがなくては、真の芸術は有り得ない。それは感情が物を言うところに始まるのだであり、04/05/07配信 035号私が演技をしている間は、私は二重生活を営んでいるのだ。(中略)芸術に必要なのはこの二重性、生活と演技との間の中庸の感覚であるということです。
また、前回の感情は他人から借りられるものではないということです。

従って、「君自身を失ってはならない」は「君自身の情緒的材料を用いない限り、生きた創造活動は行えない」であり、「一人の芸術家として行動する」ために「俳優の二重性を維持した上で『感情が物を言う』事が出来るように、我々の精神技術を鍛えなさい」ということになるのです。

「君が舞台で君自身を失う瞬間は、(中略)誇張した嘘の演技をはじめるときだ」や「なぜなら君は、(中略)人間の魂を奪うからである」は、紋切り型や機械的演技が真の創造に取って代わるという事で、逆に分かり易い部分でしょう。
07/04/13配信 103号

君が舞台に立っているときには、いつでも、永遠に、君は君自身を演じなければならない。
ただしそれは、無限に変化する【目標】のコンビネーションの中で、そして、君が役のために準備し、君の情緒的記憶の鎔鉱炉の中で鎔解された、【与えられた環境】の中でだ。
(情緒的記憶は、内的創造のための、最上の、唯一の、真の材料である)
それを使いたまえ。何か他の源から汲むことを当てにしてはいけない。
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俳優修業では、前回配信分のあとに、
グリーシャは、僕らが、いつでも僕ら自身を演じなければならないのだということを信ずる気にはなれなかった。
「それが、それこそ君のやらなければならないことなのだ」と演出家は断言した。
として、今回の言葉に続いてゆきます。

今回の言葉も内容的には前回・前々回のものと同じなのですが、グリーシャの言葉から続く『自分自身を演じなければならない』という部分が、このシンプルな教えを難解にし、また誤解も生んでいるようです。

この『自分自身を演じる』という表現は、人生を舞台に、人間を俳優に例えて、幾つかの作品でシェイクスピアが登場人物に与えている台詞にも通じる人生哲学的なカッコイイものかも知れませんが、俳優への教示としては却って困惑させられるだけでしょう。

結論を言ってしまうと、俳優が演じるべきもの(=創造し、表現するべきもの)は、役の人物なのです。 その中で、注意すべき点は、前回の補足解説でも触れた『自分自身の情緒的材料を使うこと』や『生活と演技との二重性』等というわけです。

つまり、『自分自身を演じる』は『自分自身の情緒的材料を使って演じる(03/10/03配信 017号も関連した事項として参照してください)』であり、『(役の魂と有機的な繋がりを持った)自分自身として行動する』と解釈しなければなりません。
それは、K.S自身もここで補足しているように、『ただしそれは、無限に変化する【目標】のコンビネーションの中で、そして、君が役のために準備し、君の情緒的記憶の鎔鉱炉の中で鎔解された、【与えられた環境】の中でだ』という事なのです。

尚、メルマガで中略した部分は情緒的記憶に対する過度の期待と直接的に接近したがる傾向を招く虞もあるので、あまり気にしない方がよいでしょう。
これについては、また後日触れたいと思います。
07/05/07配信 104号

彼は、彼自身の人格の中に、はっきりとか、ぼんやりとあらわれた、或る内的及び外的の個性を持っている。
彼は、彼の性質の中には、或る人物の極悪さや、また他の人物の高貴さはもっていないかも知れない。 しかし、そういった性質の種子はそこにあるだろう。
なぜなら、我々は我々の中に、よきにつけ悪しきにつけて、あらゆる人間的特徴の要素はもっているからだ。

俳優は、彼の芸術や技術を使って、自然な手段でもって、彼にとって役のために発達させることが必要なような要素を発見すべきである。
そんな風にすれば、彼が描く人間の魂は、彼自身の存在の、生きた要素のコンビネイションになるだろう。


「しかし、僕はありとあらゆる役のために、あらゆる感情を持っていることなんてとても出来ません」と、グリーシャの反論は続きます。
「君がそのために適当な感情を持っていない役は、君が上手くはやれない役だ。そういう役は、君のレパートリーからは除かれるだろう」というのが、それに対する教師の答えです。

まぁ「レパートリーから除かれる」というのはかなり厳しい宣告なのですが、実地でも俳優がある役を「わからない(=感じられない)」場合にはその役から降ろされる(若しくは最初からそういう役がつかない)ということがあるわけで、俳優側からすれば自分のレパートリーをどんどん狭めないようにするためには、何らかの対処が必要になってきます。

今回の言葉はその辺りを教示したもので、例えばイアーゴウとかシラノを演じるにはその役独自の性格・性質・感情等が必要なわけですが、或る俳優のそれらがイアーゴウそのものでもシラノそのものでもない事は当然でしょう。
しかし彼の中には、イアーゴウの狡猾さや悪どさ、シラノの精神的な気高さの種子となるようなものはあるかも知れません。
そういう役の本質と合致した種子があって、それを上手く育てることができたならば、彼のレパートリーにはイアーゴウとシラノという、かけ離れた2つの性格の役が加わるということになるのです。

また、自分の中の種子の種類を増やすためには、映画や小説等の登場人物を近しく感じられるような感受性をもつことも大事でしょう。
彼らに共感したり反発したりしているうちに、彼らの性質の種子が生まれてきます。
自分が演じる場合、共感するものについてはスムーズに成長するでしょうし、反発するもの(例えば自分は善人なのに悪人を演じる場合とか、本能的に素直に受け入れられないような役を演じなければならない場合等)は、「よし、一丁そういう人物として劇中で遊んでやろう♪」という程度の接し方をすれば、種子を生かすことができると思います。
こういう場合には、自分の中の【真実の感覚】よりも【虚偽の感覚】の方が活躍します。
俳優の創造過程では、何事も強制せず、上手く籠絡することが大事なのです。
07/05/22配信 105号

環境は、諸君の感情に大きな影響を及ぼすものだ。
そしてこれは、舞台でも実生活でのように起こるのである。

(才能のある演出家の手に掛かると、こういった手段や効果がみんな、創造的な、芸術的な手段になるのだ。)
戯曲の外的演出は、これが俳優の精神生活と内面的に結びつけられると、舞台では実生活以上の意味を持つことが珍しくない。
もしもそれが戯曲の要求に適合して的確な気分を醸成するならば、それは俳優が彼の内面を方式化するのを助けるし、それは彼の精神状態全体や感ずる能力に影響を与えるのである。
# 括弧内はメルマガでは省略しています


前回の教示のあと、教師は
「君の第一の関心は、君の情緒的材料を引き寄せる手段を見つけることであるべきだ。
第二には、君の役のために、人間の魂や、性格や、感情や、情熱の、無数のコンビネーションを作り出す方法を発見するのが君の関心事たるべきである」
と纏めます。
そして「それらはどこで、どうやって見つけるのですか?」という問いに、

「沢山の内的及び外的刺激を利用し、君の情緒的記憶を使うことを学びたまえ」

と答えます。
このあと俳優修業では、装置の配置を変えるとか、照明や効果音の変化などによって生徒達の気分(=情緒)が変化するという実験の描写があり、今回の言葉に続いてゆきます。
これは外的刺激を利用して、それに呼応する情緒的記憶をおびき出すというもので、実地でもかなり効果のある方法です。

例えば私事ですが、何度も脚本を読み、研究し、目標も貫通行動線も見えているのに、何かが足りないと感じるときがあります。
ところが「まさしくここだ!」というロケ現場に着いた瞬間に全てが解決したり、或いはそこまで強い反応ではないとしても、少し早めに現場に入って付近をウロウロしていると何かが目にとまり、それが想像力を刺激して足りなかったものが満たされてゆく場合があります。

舞台やセットでの撮影の際にも、何かしっくり来ないときはウロウロして新しい発見をすると、それが刺激になって【与えられた環境】が展開する事が多々ありますので、皆さんも是非試してみてください♪
情緒的記憶が我々の意識に従わない以上、やはりこの要素も上手く籠絡できるようにしたいものてす。

尚、ここでは情緒的記憶の訓練(同時に真実の感覚や内的適応の訓練でもあるのですが)として外的変化(=外的刺激)を利用していますが、晩年のK.Sは表現という見地からの外的適応や【役の衛生】等の訓練にも外的刺激を用いて成果を上げているのは興味深いところです。
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