スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 106〜

07/06/06配信 106号

「演出家が、素晴らしくはあっても戯曲の内的必要には適合しないような外的演出を創造したらどうなるでしょう?」
「不幸にして、それがむしろよく起こることなのだ。そして、結果はいつだって良くない。なぜなら、演出家の間違いは俳優を間違った方向へ導いて、俳優と役との間に障壁を設けるからだ」
「もしも外的演出があきらかに悪かったら、どうなるでしょう?」
「結果は更に悪いさ。舞台裏で演出家に協力する芸術家が、正しい効果とは正反対の効果を出すだろう。 俳優の注意を舞台の方へ惹きつける代わりに、彼らは俳優を反発させて、フットライトの向こうの観客の力に従わせるだろう。
だから戯曲の外的演出は、演出家の手中にある両刃の剣なのだ。それは益をなすことも出来れば、害をなすことも出来る」


前回は演出による外的刺激が、俳優にその場に相応しい情緒的記憶を呼び覚ますという実験の一齣でしたが、もしもそれが正しく使われなかったらどうなるのか? というのが今回の教えです。
演出家の間違いの例は今回の言葉で十分分かると思いますが、ちょっとシチュエーションの違う例もあげておきましょう。

K.Sの稽古の記録では
「背景の舞台装置は単独で見ると素晴らしい出来だが、実際に俳優を舞台に乗せるとちぐはぐなものになり、また何よりも俳優の内的創造活動の邪魔をするのでこれを諦めねばならなかった」
という記述があります。

『俳優(の、特に情緒的な部分)』というものは、演劇の構成要素の中でも一番デリケートな要素です。
先の記述は、俳優というものを髪の毛からつま先まで知り尽くしていると言われたK.Sならではの『全ての演出は、俳優の助けとなるべく使われるべきである』という主張であり、演劇が総合芸術といわれる所以で、装置・衣装・照明・効果音等、それぞれの構成要素はそれぞれ芸術であるべきだが、あくまでもそれらは演劇という纏まった一つの芸術の中でところを得るものでなければならないというわけです。

では、その俳優の場合はどうでしょう?
多かれ少なかれ、俳優は役の形成の過程でも表現の段階でも、自分自身の演出家(役や戯曲に向かって自分自身を指導していく、という意味で)であるという側面があります。
この自分自身への指導に間違った調子が導入されると、今回の言葉と同じように自分自身を間違った方向へ導き、役とどんどん離れていってしまうのです。

つまり、演出家が間違った演出をした場合も、演出の方向性は正しくても何らかの要素がそれに応えられなかった場合も、また俳優が自身に間違った指導をしたり【芸術の利用】に陥ったりした場合にも、結果はいずれも悪いものになるのです。
07/06/22配信 107号

俳優は、彼の気分や目標に合う、ぴったりしたミザンセーヌを求めるし、また、同じそういった要素が道具立てを作り出すのでもある。
おまけに、ミザンセーヌや道具立ては、情緒的記憶に対する刺激なのだ。


俳優修業では、装置の配置の変化やその中におけるミザンセーヌと俳優の情緒の関係についての、実験的なエクササイズの描写が続きます。

詳細は俳優修業を読んでいただくとして内容を簡単に紹介すると、まず人間の自然な生活状態での位置取りと情緒的な感覚の関係を意識的に確認した上で、次には位置取り(と、それに伴う外的刺激)を変化させて、それによって情緒的な感覚がどう変化するかを確認すること、そしてどういう情緒や心理やといった環境や条件の場合にそういう道具立てと配置を求めるか、という意識的確認をします。
続いて、他人が指定した道具立てと位置取りに従い、そこで要求される正しい情緒をおびき出すエクササイズに入ってゆきます。

ここで教師は「この最後の問題は俳優がよく解決を求められる問題だから、それをやることが出来るということが必要である」と語っていますが、まさしくその通りで、監督や演出家の指示も、或いは脚本のト書きによる指定等も、この「他人が指定した云々」なわけです。
つまり、自分が自然に出来るものは良いけれども、何か指定されたり規制されるとダメになるというのではなく、俳優が演じるときに考慮しなければならない全ての条件(=【(大きな意味での)与えられた環境】)の中で、形象を生きる事の出来る能力が必要である、という事です。

尚、これらのエクササイズは「ポーズの正当化」や「グループ分けされたミザンセーヌの正当化」等にも通じるもので、K.Sやワフターンゴフの稽古場の記録でも見ることが出来ます。
07/07/10配信 108号

舞台の上のものに眼をやって、見ることを、諸君の周囲で進行していることに反応し、没頭することを学ぶように努めたまえ。
一言にして言えば、諸君の感情を刺激するようなものをすべて利用するのだ。


今回の言葉は外的刺激が情緒的記憶に与える影響と、だからこそ俳優はどうすべきかという事を簡潔に纏めたものですが、この言葉の前には、前々回の教えにも関連した演出や演出家に関する事柄にも触れています。
少し引用してみましょう。
普通の印象では、演出家は、セットだとか照明だとか音響効果だとか、その他の附属物だとかのような、彼の物質的な手段の全てを、観客に印象を与えるということを第一の目的として使うようだけれども、それどころか我々はそういった手段を、むしろそれが俳優に及ぼす効果のために使うのである。
我々はあらゆる方法で、俳優が舞台に注意を集中することが容易なようにするのだ。
これは彼が、演出家のあり方について常に主張していた事に通ずるもので、それは、演出家は、上演を利用してただ自分の手腕や才能を見せびらかすのではなく(彼はこういうタイプを演出屋と呼んでいた)、俳優集団をはじめとする組織全体の教育者でもなければならない、というものです。
つまり、綜合芸術としてのしっかりした価値観を持ち、自ら実践し、また指導していかねばならないということです。

以前どこかで、脚本家がある言葉を使いたいが為だけに無理矢理それを台詞にすると、虚構世界全体をぶち壊すことになりかねないと書きましたが、演出家の無理な演出も同じ結果になるというわけですね。

さて、続いて良くない俳優の例があげられ、今回の言葉に続いてゆきますので、こちらももう一度その例から引用しましょう。
こういう俳優が、まだ大勢いる。
我々が、光線だの音響だの色彩だのでもって作り出す事が出来るどんなイリュージョンをも無視して、依然として自分の関心が舞台の上よりも客席に集中するのを感ずる俳優だ。
戯曲そのものや、その本質的意味でさえも、彼らの注意をフットライトのこちら側へつれ戻すことが出来ないのである。
そんなことが諸君に起こらないように、舞台の上のものに眼をやって、見ることを、諸君の周囲で進行していることに反応し、没頭することを学ぶように努めたまえ。
一言にして言えば、諸君の感情を刺激するようなものをすべて利用するのだ。
これもまた習慣となり、第二の天性となって無意識的に働くようになるのが理想なので、「没頭することを学ぶように努めたまえ」は「没頭できるようになりたまえ」の方が分かり易いかも知れません。

つまり大小両方の意味での【与えられた環境】の中で、【目標】と【信頼の感覚】をもって本当に【行動】しなさい、という事で、これもまた【身体的行動の方式】に基づいた教えなのです。
07/08/02配信 109号

枯れた花を生き返らせることが出来ないように、君が舞台で味わう、偶然の感じを繰り返すことは出来ないのだ。
死んだものに君の努力を空費するよりは、何か新しいものを作り出そうと努力する方がましである。
それにはどうやったらいいだろう? 何よりもまず、花のことは心配しないで、根に水をやるか、新しい種子を播きたまえ。
(大概の俳優は、反対のことをする。何か偶然の成功をかちうると、彼らはそれを繰り返したいと思って、いきなり感情に向かうのである。
しかしそれは、自然の協力を得ないで花を咲かせようとするみたいなもので、造花で満足するつもりでないかぎりは、そんなことは出来ないのだ。)

感情そのもののことは考えないで、感情を起こさせるものは何か、経験をもたらした条件はどんなものであったかということを研究するのに頭を使うのだ。
(結果から始めてはいけない。
結果は、それに先立つものの論理的帰結として、いずれ現れるだろう。)
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情緒的記憶の利用に関する次の局面に入ります。
今までは「ある刺激から感情をおびき出す」だったのに対して、「ひとたび経験した感情を繰り返せるようにする事は出来るのか?」というものです。

結論から言ってしまうと「出来ないことはないが、それは直接解決しようとするのではなく、間接的に、つまり我々の創造過程における精神技術を用いてその感情が生まれることとなった根源的な刺激を発見するようにし、そこから再び(内的にも外的にも)正しい行動線を辿ることによって、運が良ければ同じ感情が顕れるだろうし、そうでない場合でもそれと類似したものが生まれてくるだろう」ということになります。

俳優修業では、『芸術における我が生涯』でも詳しく触れられている、K.S自身が経験した『どん底』の公演中に起こったことを例として取り上げていて、今回の教えはその中で老俳優から受けたアドバイスの言葉で、これは下手な補足など必要ないくらい分かりやすいものでしょう。

ここでもシステムの教えの原則は【行動と感情の論理(ロジック)とその連続性】であり、【意識的技術を媒介とした潜在意識的創造】で一貫している事がお分かり頂けると思います。
07/08/25配信 110号

我々の情緒的記憶というものは、現実の精確な模写ではないのだ。
時々は最初以上にまざまざとしている事もあるけれども、しかし普通はそれほどまざまざとはしていない。
時としては、一度受けた印象が我々の内部で生き続けて、成長し、深化することもある。新しい過程を刺激することまでもして、未完成のディテイルをふくらませたり、まったく新しいディテイルを暗示したりするのだ。


続いては、情緒的記憶の様々な強さの度合いや特徴についての教示に入ります。
この辺りはK.Sのあげている幾つかの例を含めて、引用しようとすると全てを転載しなければならなくなりそうなので、詳細は俳優修業をご覧下さい。

今回の言葉はその中の特徴の一つとして示されているものです。
またこの後には『ある出来事に第三者の目撃者として立ち会い、最初に生まれた情緒的記憶は当事者に対する『同情』だったものが、やがてそれが当事者としての情緒に変形され、自分自身がその出来事の能動的な当事者へと変形される』事にも触れられていて、「リアルな人間の感情が彼の内部に生まれる。それがまさしく、我々がある役をやっているときに、我々に起こる事なのだ」と解説しています。
そして、
諸君はこのことから、我々は創造上の材料として、我々自身の過去の情緒を使うだけではなく、我々が他人の情緒に同情して味わった感情をも使うのだということを知ることが出来る。(中略)
我々は他人を研究し、彼らに対する同情が我々自身の情緒に変形されるまで、情緒的に彼らに近づかなければならないのである。
と纏めています。
以前、「映画や芝居を観るときは出来るだけ観客の目で観るように」と書いたのも、この『同情から自分自身のものへと変形された情緒的記憶』の蓄えを増やしておくことが目的に他ならないわけです。

尚、余談ですか、私は20年近く前から「俳優は一人でも出来る内的創造過程の要素の訓練としてコンピュータRPGをやるべし!」と強く主張していましたが、周りの連中は「遊ぶための言い訳だろ〜」と薄笑いを浮かべていましたっけ…(^^;;
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