スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 111〜115

07/09/13配信 111号

我々の理想は、いつでも、芸術における永遠なもの、けっして死なないもの、人間の心にとって、いつでも新しく、親しいものに向かって努力するということであるべきだ。


俳優修業の【情緒的記憶】の章は、このあと纏めのくだりに入ります。
それは、生徒達が過去のレッスンで学んだ【想像力】【単位と目標】【注意の集中】【信頼と真実の感覚】や、今後学ぶ【ポドテキスト(サブテキスト)】等の諸要素がこの【情緒的記憶】を働かせる刺激として大いに利用できるものであり、その使い道を学ばねばならないというものです。
そして、その際には『おとり』としてそれらを使わなければならないという事と、【情緒的記憶】の蓄えの量について触れています。

蓄えについての教師の言葉を構成して纏めると、「俳優は、世界中の多くの民族の戯曲を演ずることを、また彼の時代だけではなく過去の、そして空想上の未来の世界に生きる人間の魂の生活を表現する事を要求されている」わけだから、「彼は絶えず彼自身の蓄えの量を増やしてゆかなければならない」。
そのためには、「彼自身の直接の経験からもたらされた印象や感情と共に、現実と想像との、彼の周囲の生活から、思い出や、本や、芸術や、科学や、あらゆる種類の知識から、旅行や博物館から、とりわけ他人との交際からも材料を得る」ようにしなければならない、という事になります。
そして、「彼が、観察し、推測し、経験し、情緒に心を奪われなければならないのはそのためなのだ」として、今回の言葉に続いてゆきます。
この『蓄えを増やす』という件については、04/05/28配信 037号04/07/09配信 041号 も参照してください。

『様々な刺激をおとりとして使う』という件に関しては、
我々の芸術的情緒は大変臆病で、魂の奥の方に隠れている。もしもそれがひとりでに表面に出てこないようならば、君はそいつを追っかけて、見つけるという事は出来ないのである。君に出来る事は、それに対して一番有効なようなおとりに注意を集中するという事だけである。
という教示が、いつものように【意識的技術を媒介とする無意識的創造】の原理に適っていて分かりやすいものでしょう。
注意すべきは、おとりを使うべきところをついつい追っかけてしまう事で、この章の解説の最後にもう一度 05/06/17配信 064号 でもとりあげた言葉を記しておきましょう。
俳優がある状況を本能的に捉えられない場合には、感情に直接働きかけるべきではない。
情緒的記憶は、無意識のうちに演技に持ち込まれるべきものなのだ。
07/09/28配信 112号

いっこうに相手役に注意を払わない俳優と共演しなければならないのは、なんという苦痛だろう。
彼らは相手役を見ているようでいても、その眼にはベールが掛かっている。
台詞を情熱的に喋っているようでも、実は自分の言っていることを理解してもいないで、豆まきの豆のようにあたりにまき散らしているだけなのである。
交感とは、感情や意思や心理の、相互的な交わりである。
他から何かを吸収したり、自分の何かを他に与えたりするということがなくては、演劇における交感は有り得ないのだ。
(構成)


今回から新しい要素【交感】の章に入ります。
これは「(精神的)交流」とか「相互作用」「相互影響」とも呼ばれ、また『放射(放射線)』という言葉が使われる事もありますが、上記のように『感情や意思や心理の、相互的な交わり』を意味します。
この要素も細分化されて研究されている事と、この次にでてくる【適応】という要素と深く関係しているために複雑な部分もあるのですが、今回は初回ということもあるので感覚的にわかり易いたとえと一番単純な定義で構成してみました。

この【交感】が正しくできているか否かで、実際の演技の結果は大きく違ってきます。
システムの専門家の目には【交感】の良否として、またそれに伴う【適応】の良否として、更にはそれらがうまく働かない様々な要因(たとえば【貫通行動線】だとか【注意の圏】だとか【目標】だとか【創造的想像力】だとか…)の問題として理解されますが、そうでない一般の観客の目にも「何となくお芝居っぽい」という感覚をもって映り、すぐに見破られ、観客はついてゆくことができなくなります。

ほかの部分がどんなに精密に仕上げられていても『生命』を失ってしまうのです。
「家ではたっぷり稽古していたんだろうなぁ」という印象が限界です。
一言でいうと、『役の人物として本当に【行動】できていない』ということになるのですが、詳細は追々述べてゆきたいと思います。

この単純な定義の中で重要なのは『相互的な交わり』という部分で、放射という言葉を使うならば、放射している時だけではなく、放射されているものをしっかり(=能動的に)受け止める事も重要になるわけで、つまそれが『相互的な』という事になるわけです。
これは放射し、受け止める事を時間的に交互に繰り返すと言うだけではなく、「放射しつつ、同時にそれがきちんと相手に届いているかどうかを確認している」と言う意味もある事に注意してください。

尚、俳優修業のこの章にはわかりやすい様々な解説が載っているので、是非再読してみてください。
07/10/16配信 113号

俳優が、彼らの内部の貧困を蔽い隠すのに使う機械的トリックはあるが、しかしそういうものは、彼らの凝視の空虚さを強調するだけである。
それが有害無益な事は言うまでもない。眼は魂の鏡である。虚ろな目は、からっぽの魂を映しているのだ。
(俳優の眼が、彼の眼つきが、彼の魂の深い内容を反映するということは、重要なことなのである。)
そこで彼は、役における人間の魂の生活に対応すべき、大きな内的資力を築き上げねばならないのだ。
彼が舞台にいる時は、その間中、その精神的資力を劇中の他の俳優と分け合っているべきである。
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俳優修業の【交感】の章の冒頭部分は、教師が生徒達に日常生活を思い出させてその時々の【交感】の状態を検証させる事によって、様々な【交感】の有り様を理解させるというレッスンの一齣から始まります。

この辺りも実際に俳優修業を読む方が解りやすいので概略だけ述べますと、教師は、音楽会に行ってもその演奏に興味が持てず、その間は何の交感もなかったとする生徒に幾つかの質問をする事でその時々の行動を明らかにし、それらの交感の対象を解説していきます。

・演奏中にうっかり身動きをして、周りの人の反応が気になった。→ 周りの観客との交感。
・客席の知り合いの様子を窺う。→ その人物との交感。
・その場には居ない知り合いの事を思い出す。→ 自分の記憶との、若しくは、その場に居ない知人との交感。
・頭上のシャンデリアに対する興味。→ 無機物との交感(=その作者に対する間接的な交感、及び、そのもの自体に対する印象を代表とする、自分自身との交感)

このように自分の行動が正しく検証できればその時々の【交感】の対象も明らかにされるわけですが、戯曲の中でその登場人物を描かなければならない俳優は、同じように役の人物としての行動の中に正しい【交感】とその対象を持たねばならないという事になり、それが出来ない場合は今回配信の言葉のように『内部の貧困を蔽い隠すのに使う機械的トリック』に頼る事になってしまうのです。
そして『からっぽの魂』にならないためには、『大きな内的資力を築き上げねばならない』というわけです。

また、ここでは簡単に触れるにとどまっていますが、ずっと後に出てくる【抑制】【パースペクティブ】により深く関係する、『間引きの感覚(これは私の造語です)』とでも言うような注意点もあります。
この部分の教師の言葉を引用すると、君の傍を掠め去るあらゆるものから、君が吸収したり、或いはそいつにほんの少しでも君自身というものを放出したり、そんな余裕が君にあるとは思われないというもので、今の時点では、「あまりにも厳格に交感を追い求めるあまり、【交感】のための【交感】になってはならない」とでも考えていただければいいと思います。

この『何を間引き、何を採り上げるか』という感覚というか問題は、先ほど書いた【抑制】や【パースペクティブ】、あるいは【超目標】や【最高の超目標】の項で触れられると思いますが、05/10/07配信 071号の『仕事の実質』とか、06/04/28配信 083号の『詩的等価物に変形された真実』『本質的なものを吸収し、不必要なものはすべて棄てる』等にも通じるものです。
07/10/30配信 114号

君は、高価な首飾りが、金環の三つ目毎に錫の輪で、おまけに二つの金環が糸で結びつけられていたりするのを想像できるかね? そんな首飾りに誰が用があるだろう?
とすると、演技を不具にするか殺すかする、舞台における交感の、絶えず途切れる線に用がある者がいるだろうか?
実生活で人間同士の交感が重要だとすると、それは舞台ではその十倍も余計に重要なのだ。


俳優修業では、前回の教示の直後に、
とはいえ、俳優はただの人間なのだ。彼が舞台へ出てくる時、自分の日常の思想や、個人的感情や、(そういった様々なものの)反映や現実を、自分と一緒に持ち込むという事は全く自然な(=よくある)事なのである。
として、『大きな内的資力』を築き上げ、それを維持する事が容易ではない現実をもまた示しています。
もう少し引用してみましょう。
もしも彼がそれをやるならば、彼自身の個人的な、平凡な生活の線(=役とは無関係の、純粋に俳優個人にとっての生活)は中断されない。
役が彼に我を忘れさせない限りは、彼は役にすっかり身を捧げるという事はないだろう。
役が彼に我を忘れさせると、彼は完全に役と同化して、変形させられるのだ。
しかし彼の心がそらされて、彼自身の個人的な生活の力に支配される瞬間は、彼はフットライトを乗り越えて、観客の中か、劇場の外か、どこでも彼と関係の絆を結び続けている対象があるところへ運ばれるのである。
その間は、彼は役を、まったく機械的なやり方で演ずる。
こういった経緯が度々で、俳優の個人的な生活からの持ち込みをやられるようだと、そいつは役とはなんの関係もないのだから、役の持続性をめちゃめちゃにしてしまうのである。
このあとに今回配信の言葉が続くのですが、上記の部分の注意点を少しだけ補足しておきましょう。
これはシステムを学び始めた、特に真面目な人に多いのですが、『我を忘れさせる』『役にすっかり身を捧げる』『完全に役と同化する』という言葉を文字通りに実行しようとして、俳優としてのバランスを崩してしまう場合があるという事です。

この教示は演技の中のある要素をズームアップした上で議論している事と、K.S自身も熱中して論じているためにこういう表現になってしまうのですが、演技全体としてみた時に忘れてならないのは04/05/07配信 035号生活と演技のバランス・役の人物としての俳優と表現者としての俳優の二重性です。
この辺りの詳細は後日に譲るとして、このサルヴィニの言葉を借りるならば、『我を忘れさせたり完全に役と同化したりするのは俳優の魂の半分だけ』程度に考えておけば良いでしょう。
(大きな意味での)与えられた環境】の中における【(小さな意味での)与えられた環境】とか、ザハーヴァの言う役と俳優の完全なる一体化などと云うものは有りえないと云う事を前提とした上で、創造の瞬間における両者の融合を目指すという言葉も参考になると思います。(【再現の芸術】参照)

#確かにシステムの諸要素を手探りで模索していた頃のK.Sは『サルヴィニの言葉ではまだ足りない』としてより情緒的な方面に傾いた事もありましたが、遅くとも俳優修業を纏め上げた頃には『生活と演技のバランス・俳優の二重性』を旨とするようになっていました。

しかし、ともかくも、俳優としてのまったく個人的な、役とは無関係の生活が演技に持ち込まれるのが有害な事は明らかで、この金環の例えは【注意の圏】の連鎖だとか【身体的行動の連続線】などにも通じる教示です。
06/01/12配信 076号の『退場の際に役を演ずることを止めてしまった』のも、それが錫の輪に当たる部分だったと考えれば解りやすいでしょう。
尚、この金環がいかにあるべきかという教えは、後に出てくる『とぎれぬ線』という章でより詳細に述べられています。
07/11/15配信 115号

もしも俳優が、本当に大勢の観客の注意を繋ぐつもりだったら、彼らは彼ら自身の間に、感情や思想や行動の絶え間ない交流を維持するために、あらゆる努力をしなければならない。
そしてこの交流の内的材料が、観客を掴むに足るだけ興味深いものであるべきだ。
この過程が並外れて重要なので、私は諸君に、それに対して特別の注意を払い、そのいろいろな目立った局面を注意深く研究するように力説せざるをえないのである。


俳優修業のレッスンは、前回の「実生活で人間同士の交感が重要だとすると、それは舞台ではその十倍も余計に重要なのだ」という言葉を補足する教示に入ります。
少し引用してみましょう。
この真理は、劇中人物の相互交感に基づく、演劇の本質から来るものである。
主人公が無意識の状態にあるとか、眠っているとか、とにかく、その内生活が働いていないようなところを見せようなどという劇作家は、君は思いもよらないだろう。

また君は、劇作家が、お互いに知らないばかりでなく、知り合って、思想や感情を交換するのを拒んだり、セットの両端に黙って腰掛けていて、お互いに思想や感情を隠し合おうとさえもするような二人の人間を登場させようとする事も想像は出来ないだろう。

してみれば、観客にとって、彼がそのためにやってきた目的、すなわち劇に参加する人間の情緒を感じ、思想を発見するという事がかなわない以上は、劇場へやってくる理由はないことになるだろう。
上記引用部分を少しだけ補足しますと、一つ目と二つ目のブロックに関しては、例外として部分的にそういう描写を用いて或る効果を上げようとする場合はあるでしょう。
しかしそれは、その場面の前後との関係の中での、ストーリーとしては必然的展開であったり、物語の冒頭部分で観客の興味を惹きつけるためのような、ごく短時間の、特別な効果を狙ったような特殊な例外の場合です。
全編を通して上記のような状態が続き、幕が下りて終演というのは、さすがにどんな不条理劇にも無いでしょう。
というわけで、これは特殊で例外的な場合を除いた、まさしく『演劇の本質』という普遍性の中での教示と考えて下さい。

さて、続いては観客と俳優との交感の性質についての解説に入り、今回配信の言葉へと続いてゆきます。
この辺りも【交感】という要素の概括的な意味合いがあるので、今回配信分の直前までを引用しておきましょう。

(理想的な俳優間の交感の状況を示した上で)、
観客が、そういった情緒的及び知的交感の場に居合わせると、彼は会話の立会人みたいなものだ。
彼は、俳優達の感情の交感にだんまりの役を買っていて、俳優達の経験したものによって彼らの情緒や心理を感染させられるのだ。
しかし観客が舞台で起こっている事を理解し、それに間接的に参加出来るようになるのは、この交感が俳優達の間に続いている間だけである。

この『間接的に参加する』という事柄については、『多人数との交感』という部分でまた触れられています。
しかしこれは他の種類の交感とは若干性質が異なるため、システムで通常使われている【交感】という言葉とは分けて考えた方がよいでしょう。
今は「観客との交流は、基本的には間接的なもの」とだけ覚えておいてください。
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