スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・バックナンバー 220〜227

17/06/14配信 220号
戯曲の様々な面を正しく合わせて構成部分の美しい取り合わせをつくり、それらを形づけて調和が取れ仕上げの行き届いた形式にする事ができるのは、戯曲を一つの全体として捉えてその一切を含むパースペクティブを見極める事が出来る場合だけだ。

俳優が自分の役をよく考え、自身をその内部に生きる人間であると感ずるようになって初めて、彼には長い、美しい、さし招くようなパースペクティブが開けてくるのである。
そうなれば彼の物言いはいわば遠目がきくようになり、もはや最初のように近視眼的では無くなる。限られた目標や個々のフレイズや単語にかじりつくよりは、纏まった行動を演じ、纏まった思想を話す事が出来るのである。

よく知らない本をはじめて声に出して読む場合、我々は瞬間毎に当面の行動、単語、フレイズを念頭に置くだけだ。それはパースペクティブを持っていない。そんな朗読が芸術的で、真実を語れるだろうか? 勿論あり得ない。

大きな身体的行動、大きな思想を伝える事、大きな情熱や情緒を経験する事は、多数の構成部分から成り立っている。結局のところ一つの場、一つの幕、一つの戯曲は、パースペクティブと超目標との必要を免れる事は出来ないのである。
(構成)


17/07/15配信 221号
十分な研究も徹底的な分析もしていない役を演ずる俳優というものは、先ほどのよく知らないテキストを朗読する人のようなものだ。
そういう俳優は戯曲についてただぼんやりとした概念しか持っていないのである。彼等は自分の描く人物をどこへ連れて行かねばならないか理解していない。

彼等が自分のよく知っている場面を演じる場合には、それ以外の漠然とした残りの部分にまだ正体を見極めていない何が隠されているかについて、理解しきれていなかったり全く知らなかったりするという事はよくあることなのだ。
それは彼等を、戯曲全体のパースペクティブには全然お構いなしに自分の心を絶えず一番手近な行動、目前の思想にのみ固定させ続ける事を余儀なくさせる。

役が動いていく時には、言ってみれば二つの次元のパースペクティブを念頭に置かねばならない。
一つは描かれる役に関係し、もう一つは俳優に関係している。
劇中の人物は未来を知るわけも無くパースペクティブの概念など持ってはいないが、その役を演ずる俳優は絶えずそれを念頭に置いて役を創らなければならない。

役を演ずる際にこれから起こる事を忘れる必要など勿論ないが、現在の瞬間を十分に味わい、それに身を任せ、彼の芸術をより効果的に活かすためにパースペクティブが必要なのである。
(構成)


17/08/07配信 222号
ある役の未来は、その役の【超目標】だ。人物をそれに向かって動き続けるようにさせたまえ。

ストーリーは知っていても戯曲全体の注意深い研究をせずに『オセロウ』を演じる役者は、殺人という結末とオセロウがムーア人だという根拠だけで、序幕から眼を剥いたり歯ぎしりをしたりし始める。
しかし、サルヴィニのような芸術家は、自分の役のスコアを作り上げるのに、そんなのよりはずっと計算をしていたのだ。
彼の最初の登場の場では、彼の魂はオセロウというよりも恋するロミオに思えた。彼は初めて登場する際の若々しい情熱的な恋の激しい迸りの瞬間から、悲劇の結末に於ける嫉妬に駆られた殺人者のこのうえない憎しみに至るまで、戯曲のパースペクティブ全体を常に弁えていた。
数学的な精密さと仮借ない一貫性とで以て急所から急所へと、情緒の展開をそれが彼の魂の中で熟するがままに計画し抜いたのである。
未来と現在、あるいは過去との間には、力強いコントラストが有ったのである。

役を演じている人間としての彼自身のパースペクティブが必要なのは、彼が舞台に立っているあらゆる瞬間に、自分の内部の創造的な力とそれを外的な表現として外に出す能力とを評価できる立場、それらを配分し、自分が役のために集めた材料を合理的に、一番効果的に使用することができる立場に立つために、なのである。

オセロウとイアーゴウとの有名な誘惑のシーンを例にとろう。オセロウを演じる俳優は、疑いが嫉妬に駆られた魂に忍び込んで段々に大きくなる箇所と、戯曲の結末との間に、高まり行く情熱の幾場面かを演じなければならないということを忘れてはならないのだ。
最初から感情の手綱を外し、自分のテンペラメントを抑えず、それを皆出し切ってしまうというのは危険なことだ。それは役全体を釣合いの取れぬものか、平板なものにしてしまう。彼は慎重で抜け目なく、常に眼を戯曲の最後の絶頂点に向けていなければならないのだ。

正しいパースペクティブを持つということは、正しい大局観を持つということである。
芸術上の情緒は絶対値ではなく相対値で、しかも何ポンドではなく何オンスと計るものなのである。[*]
(構成)

[*] ともにヤードポンド法の単位で1オンスは16分の1ポンド(宝石や貴金属の計量に用いられる。1トロイオンスは12分の1トロイポンド)。
推測だが、芸術上の微妙な情緒の話に関しては、宝石や貴金属を扱うのと同じくらいデリケートにという意図で、トロイオンスを念頭に置いていたのかもしれない。(昔のロシアもヤードポンド法(フント・プード)が使われていた)
それはともかく、おおざっぱにではなく精密に計るべし、緻密なニュアンスまで考慮すべし、という意味と思われる。 例えれば「約5kgではなく正確に4998g」というような感じか。
17/09/08配信 223号
ある感情なり心理的描写なりを、我々が要求されたとしよう。俳優はどうやってこの仕事に取り掛かるだろう? 私は先ず、様々な情緒がそこに自発的に現れるような行動のリストを作る。

例えば恋愛をとってみよう。どんな出来事が、この人間的情熱を作り上げることになるだろうか? 第一に、そこには『彼』と『彼女』の出会いがある。いきなりか段々にか、彼等は出会いの瞬間の記憶を糧として生きる。彼等は再度の出会いの口実を求める。やがて、最初の秘密が生まれる。彼等を一つに結び付けるべき、より大きな絆である。

彼等は様々なものごとについて忠告しあい、これが絶えず会ったり、電話をしたりというような事になり発展する。やがて最初のケンカ、非難、疑惑。不和を解消せんが為の釈明。和解、いっそう親しい関係。やがて、お互いに対する態度の、親しみに溢れた気兼ねのなさ。お互いに対して段々と大きくなる要求。嫉妬。決裂。別離。彼等は再び会う。お互いに許しあう‥‥。そんなふうにしてこれが続く、といった具合である。

こういった瞬間や行動は、全て内的正当性を持っている。全体としてみると、それらは我々が『恋愛』という一語を用いて言い表す感情、情熱、もしくは状態を反映するのだ。
もしも俳優が想像裡に、詳細な環境、適正な思考、感情の誠実さという正しい基礎を得て、この行動の系列の一歩一歩を遂行するならば、彼は自分が恋する人の状態に到達することを知るだろう。
そういう準備があれば、彼にとってはこの情熱が現れる役や戯曲を引き受けるのが易しくなる事が分かるだろう。

多くの俳優は、自分が描くべき感情の本質を見抜けない。彼等にとって「恋愛」とは、一つの概括された状態なのである。
彼等はいきなり「抱擁すべからざるものを抱擁する」事を試みる。彼等は、大きな経験というものが多くの別々な插話や瞬間から出来上がっていることを忘れるのだ。
そういうものを知り、研究し、吸収し、ことごとく実行しなければならない。
俳優がそれをやらぬ限り、彼は紋切型や機械的演技の犠牲となるに決まっているのである。
(構成)


[*] 俳優修業では、パースペクティブを解説した章の後は、物言い・運動という二つの面からテンポ・リズムの解説に移ります。
これらの章にも含蓄のある教示は多々有るのですが、引用したい箇所が分断されていてその部分だけでは内容を推し量れない事、それを解決するには引用部分があまりにも長くなりすぎてしまう事から、テンポ・リズムに関する教示は割愛させていただきます。
17/10/04配信 224号
諸君が身体的具現化を要求するある目標なりある内的衝動なりを持つ場合、諸君はその遂行に自分の身体的オルガニズム全体と情熱的エネルギーの全てを投入して、それを実行出来るものとしよう。[*]
それが舞台に出る俳優が準備すべき『身体的身構え』であり、我々が【外部の創造的状態】と呼ぶところのものである。

諸君の身体的器官と技術は、諸君の意志の内的命令に完全に服従させられねばならないのである。
諸君の創造的自然の、内面と外面のこの繋がりと相互作用とは、諸君の内に即座の、無意識的な、本能的な反射作用の域にまで発達させられなければならない。

我々の【知性・意志・感情】という三人の名人が、内面器官・外面器官という二つの楽器を演奏し始めるならば、内部及び外部の創造的状態は共鳴板として作用し始め、個々の要素の全ての音を捉えるだろう。
そこで成すべき事は、それら全てをオーケストラのように一つにまとめ上げる事だ。
これが成し遂げられれば、我々はそれを、内的精神技術の側面と外的身体技術の側面の両方が事実上結びつけられたところの【全体の創造的状態】と名付けるのである。
(構成)


[*] これは所謂、熱演するとか、エネルギッシュに舞台を駆け回るとかというものではない。
勿論、その芝居の形式や、与えられた環境とパースペクティブにおけるその場面の単位(断片・ピース)によってはそういう形をとる場合もあるだろうが、単に激しい情緒的状態の外的形式を取っていれば良いというものではなく、その現れ方の種類と性質の問題であり、それはつまり【熱した方法(a chaud)】に則った、若しくはそれと同様の性質を持つ【舞台的行動(役の人物としての行動)】という意味である。
17/10/28配信 225号
諸君が、内的形式から外的形式へと、より直線的で、自発的で、生き生きとした、正確な反射を作り出せば作り出すほど、諸君が描いている人物の内生活についての観客の印象は、ますます十分な、明白な、充実したものとなるだろう。
書かれた戯曲が俳優によって上演される価値は、そこにあるのだ。

俳優が創造過程において何をしていようと、彼は常に内的及び外的に整え合わされた、この全体的な状態に身を置くべきである。
台詞を初めて口にするときも、百回目の時もあろう。家で役を研究し工夫しているときも、稽古場で演じているときもあろう。役の材料探しが、有形的なものの時も無形的なものの場合もあろう。
考えているのが役の内面だったり外面だったり、身体的行動であったり情緒的な印象であったり、断片であったり全体であったり、等々と言った様々な役との接触の全ての瞬間において、俳優は彼の技術の二つの側面を合体させる【全体の創造的状態】にしっかりと身を置くべきなのだ。
こういったことは、我々の第二の天性の当たり前な、自然な属性として、永久的に確立されるべきなのである。
(構成)


17/11/17配信 226号
甚だ奇妙なことに、我々が一歩舞台へ足を踏み入れると、我々は自分の自然な天賦を失ってしまい、創造的に演じる代わりに見かけ倒しのこじつけを演じる事になってしまう。
何が我々にそんな真似をさせるのだろうか?
それは「人の見ている所で、何物かを創造しなければならない」という事情である。
そんな環境の中では、我々にとっては自分の自然な状態を歪める事の方が、自然な人間として生きる事よりもずっと易しいのである。

舞台に掛けるという事には、作者によって指定された行為や言葉を自分に押し付けること、画家がデザインした道具類や演出家の工夫した演出に対する不完全な消化・正当化、観客に対する気後れや物怖じ、憐れな趣味や偽りの伝統にはどことなく空々しい月並みな不真実がつきまとう。
それらは全て俳優を、これ見よがしに、不誠実な表現に駆り立てるのである。

我々の【役を生きる芸術】は、そういった別の演技の『原理』に反逆する。
我々が主張するのは、どんな形式の創造にもせよ、創造の大事なファクターは人間精神の生活、俳優及び彼の役の両者一体の感情及び潜在意識の創造だという、反対の『原理』なのである。
(構成)


18/01/31配信 227号
我々が俳優に求めるものは、人間が本来持っている自然な(創造の)法則に従って生きるという事につきる。
ところが俳優が仕事をせねばならぬ環境と様々な条件のせいで、彼にとっては自分の自然を歪めることの方が、自然な人間として生きることよりもずっと易しいのだ。

そこで我々は、この歪曲へと向かう傾向に対して闘うべき手段を見出ださねばならなかった。これが我々の、いわゆる『システム』の根本なのである。
その目的は、避け難い歪曲を取り除くことに、そして我々の内部の自然の活動を、執拗な努力と適当な練習や習慣とによって切り開かれる正しい道へと向かわせることにある。

『システム』は、俳優の人前で仕事をしなければならないという環境によって狂わされた、自然の法則を元どおりにするべきものであり、それは彼を正常な人間の創造的状態へと立ち戻らせるべきものである。

ところで『システム』は、ページをめくりさえすれば、そこに望みの料理の作り方(=役の演じ方)が出ているような料理の本ではない。それは完全な、一つの生き方なのである。
我々は何年かの間、それにしたがって成長し、それにしたがって自分自身を教育しなければならない。『システム』は我々が着込んで、出歩くことのできる出来合いの衣服ではないのだ。
我々が成すべきことは、それが第二の天性となり、俳優としての自分が、それによって舞台のために絶えず変形させられるほど、それが有機的に自分の存在の一部分となるまで、それを同化し、自分の血肉と化すことである。

『システム』の濫用、それにしたがってはいるが、しかし持続的集中無しにバランスを欠いて行われる仕事というものは、「行き過ぎ」になるのである。我々の精神技術を用いようという、余りにも勢い込んだ、大袈裟な心がけは、過度に批評的態度を招いたり、技術それ自身のために用いられる技術に終わったりしかねないのだが、不幸にしてしばしばそれが実状なのである。

『システム』は、芸術的創造に向かう途上の伴侶ではあるが、しかしこれは、それ自体がゴールなのではない。俳優は、『システム』を演ずるということは出来ないのである。
諸君は、家で役を準備する時にはそれに基づいて仕事をして差し支えないが、舞台へ一歩足を踏み入れたら(=実際に演ずる時には)それは傍へどけたまえ。
そこではただ、創造的自然のみが諸君の導き手なのである。(構成)


[*] 今回配信分は、俳優修業第二部の最後の方に書かれている、所謂『スタニスラフスキー・システム』の発生から注意点といったものの概括。
この前後にも趣のあるK.Sの持論が幾つか述べられていますが、論旨の範囲が多少広くなりすぎてしまうので割愛し、 今回で俳優修業第一部・第二部からの引用はひとまず終わりとします。
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