スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・バックナンバー 201〜219

15/11/04配信 201号
『芸術というものは、ほんの僅かなタッチでもって始まるものである』[*1]

役を生かすには、これをその完成した領域に到達させるには、我々は一つ二つ、ほんの僅かなタッチだけが必要なのだ。
ところが我々はなんとよく、その僅かなタッチの欠けた役を見ることだろう。
それはよく工夫されているのかもしれないが、それでいてその一番重要な要素のないのが物足りないのである。

このことは、有る楽隊の楽長を思わせる。彼ははじめは注意深く仕事に取りかかる。
しかし5分も経つと彼のバトンは機械的に指揮をとり始め、左手は几帳面に楽譜をめくるだけとなる。
と言って、彼は貧弱な音楽家ではなく、彼の楽隊もまた正確にスコアを音にしていたのだ。

しかし彼の音楽は『その内容が決して明かされず、聴き手には届かない』という、一番重要な要素が欠けていたために、聴き手を満足させないのであった。
各楽曲の構成部分はすべて正確で滑らかに演奏されていたが、聴き手がそれらを区別したり理解したりはできぬような、のっぺらぼうな形式で次から次へと提供された。
各部分には、その部分に、そして作品全体に、仕上げを施す事になったはずの願わしいタッチが欠けていたのである。

舞台には、それと同じように自分の役をのっぺらぼうにしてしまい、戯曲全体を同じ勢いで押しまくり、『仕上げ』をもたらす必要な『タッチ』には一向に注意を払わない、多くの俳優がいるものである。[*2]
(構成)

[*1] 俳優修業では、「有名な画家のブリューロフ」の言葉として紹介されていて、『ポンペイ最後の日』のカール・ブリューロフの事と思われる。
根底に持つリアリズム的手法がロマンティシズム的作風で名をはせたブリューロフの言葉を引用するあたり、K.Sの言うリアリズムが単純な写実的リアリズムでは無く、K.Sの言葉を使えば『人間の魂の生活を反映した、豊かなリアリズム』で有ることが現れている。

[*2] だからといって「変化のための変化」になってはならない。変化は無意識的な【適応】であったり、内容を最も効果的に表すための意識的な【適応】として生まれたものであり、ただ芝居や物言いのテンポを変えたり声色を使ったりといった俗に言う「メリハリ」をつけただけで、なにかを『表現』したと勘違いしてはならない。

また、『タッチ』には『作品の傾向に合った演技の傾向』という意味も有る。
作品のタッチ、作品の(場面の)トーンと言われるようなものに合った、あるいはそれを生かす、芝居のタッチ・トーンで演じる感覚・演じられる能力を持たねばならない。(わざとそれを外すことで生まれる笑いのジャンルも有るが、それは分かっているから「外せる」と言うことである)
15/12/09配信 202号
先の楽長の思い出と対照をなして、私はアルトゥール・ニキシュを思い出す。
彼は大概の人が言葉で語りうるより遙かに多くを、音で語ることができた。
ニキシュが演奏を始める前の様子は観客を集中させ、彼のバトンはまるでこう言っているようだった。
「注意して! よくお聴きなさい、始めますよ!」

この準備の瞬間でさえ、彼にはあらゆる動作を甚だ美しく完成させる、あのそこはかとない『タッチ』があった。
彼にとって全ての音符、あらゆる記号、和音はおろか不協和音にまでも、何かしら重要なものが含まれていた。
彼はこう語るように思われた。
「急いではいけない。音楽の中に隠されているものを、全て表現するのだ」

ニキシュにその偉業が成し遂げられたのは、彼の作品が素晴らしい【抑制】だけではなく、めざましく鋭い【仕上げ】をも加えられて演奏されたからである。
(構成)


16/01/14配信 203号
時には正反対の人々の仕事が目を引くものだが、我々の芸術の抑制や仕上げの意味と価値を教えるために、一つそういう例を挙げよう。

ファース、ヴォードビル等で我々は、速射砲タイプの俳優というものをよく見かける。
彼等は永久に陽気で、人を笑わせ、はしゃぎ廻っていなければならない。しかし内心では悲しんでいたり不安があったりというのに陽気でいることは難しいことである。
そこで彼等は、或る外面的な常套手段に訴える。

一番易しい方法は、外的なテンポやリズムである。このタイプの俳優は台詞を急ぎ、戯曲の行動を誇張したスピードでもって駆け抜ける。
幾つかの瞬間は光を放つとしても、戯曲全体はこんがらがってしまって、観客がほぐすことが出来ないような、混沌としたものに成り果てるのである。
そこには、持続的なもの[*1]や、抑制や、仕上げはてんで見られないだろう。

彫刻家はブロンズに自分の夢を鋳る。画家はカンバスに、作曲家は楽譜にだ。
俳優は、彼の潜在意識を、内部の創造的状態を媒介として、役のポド・テキストと超目標とを媒介として実感された、或る性格や生活についての自分の夢をとり上げて、それを彼の声、行動、知性によって導かれる情緒の力を手段とし、形象として生かすのである。

急いではいけない。戯曲の中に隠されているものを、全て表現するのだ。
(構成)


[*1] 小さな真実の流れや正しい交感と適応等を繋ぐ途切れぬ線、そしてそういう貫通線を生かすパースペクティブ。
16/02/06配信 204号
私が家で朗読の練習をしたとき、私はまず嘘のペーソスや不誠実な調子の効果や誇張した韻文の強調などはなしに、出来るだけ誠実に物言うようにした。
私は詩の核心を捕まえて離さないようにしたのだ。
それが惹き起こした素晴らしい印象というものは、フレイズ中の単語がバイブレートし、歌い、それが私の物言いに、気品とある種の音楽性を与えたという事実に基づくものであった。

俳優は自分の物言いの響きに、自分が満足するというだけではいけない。
彼はまた劇場に来ている観客が、何事によらず注意する値打ちのあることを聞き、理解できるようにもしなければならない。

言葉とそのイントネーションとは、その言葉の意味と価値と共に、砂にしみこむ水のように觀客の耳と心に届くべきなのだ。

物言いはある種の音楽であり、舞台での物言いは声楽と同じ程度に難しい一つの芸術である。
理想的な物言いの技術を持つ俳優が役の台詞の魂にまで到達しているならば、彼は彼自身の魂の秘められた場所は言うに及ばず、その作品を生んだ劇作家のそういう場所にまでも、彼と共に観客を連れて行くのだ。
(構成)


16/03/05配信 205号
諸君が文字の脱落やミスプリントが多い印刷物を読んだことがあるならば、そこに書かれている内容を推量したり判断したりするのに多くの手間が掛かるという事が分かるだろう。 また紙の表面の傷みや汚れが多い書物も同様である。
それでも相手が書物ならば、諸君は前後の文脈を含めて何度も読み返し、時間を掛けて解読することも出来る。

しかし劇場で、物言いが鍛えられていないために、観客に届かぬ発声、不明瞭なため何を言っているのかわからない活舌・口跡、間違ったアクセントといった、先の不良な印刷物のような俳優の物言いが行われると、事情は違ってくるのだ。

観客に、立ち止まってわからぬ事を判ずる暇も与えぬまま、芝居はどんどん進行してしまう。
まずい物言いは次から次へと誤解を生みだし、それは戯曲の思想や本質や、果てはプロットそのものをさえごったがえしにし、ぼかし、隠しさえもする。
觀客は、初めのうちは舞台で進行していることを聞き漏らすまいと耳を澄まし、注意深さを最大限にまで広げて理解しようと努力するだろう。
しかし彼等の努力が限界を越え、ついて行けなくなると、彼等は舞台上の進行を理解することを諦めてしまうのである。

そうなった観客は、時計を気にしてゴソゴソはじめ、互いに囁き、咳をしだす。
そういうさざめきは俳優を、戯曲を、芝居全体を、劇場から追い出してしまうことが出来るのである。
そういう、戯曲や芝居全体を台無しにしてしまう禍根を防ぐ手段の一つは、ハッキリとした、美しい、生き生きとした物言いをすることである。
日常生活における会話の歪みというものが多くは大目に見られているのに対し、舞台に持ち込まれて自由・理想・純愛等の、崇高な話題について用いられるそういったきめの粗い物言いというものはすべて、気に障る、滑稽なものなのである。

文字・シラブル・言葉などは、人間の本能、衝動によって、自然そのものや、時代や、場所によって、人間に示唆されたものである。
文字は、その内容の本質を顕現させる、音声のシンボルにすぎないのである。
(構成)

[*] 前回配信分辺りから物言いに関する詳細な教示が多くなり、ロシア語と日本語の差異も含めて引用・解説が膨大・複雑になりすぎるため、多くの部分を割愛しています。
詳細は『俳優修業』を御参照ください。
16/03/23配信 206号
『母音は川の流れであり、子音はその堤防である』[*1]

『正しい物言いは絶えず使用され、習慣となり、第二の天性とならねばならない。俳優がいざ演じるというときに、自分の物言いに注意を逸らされないために。
劇のクライマックスを迎える俳優が自分の欠点を心配しなければならないとしたら、彼に「役の生活の遂行」という創造上の大事業が達成できるとは、とても思えないからである』

『俳優という物は自国語を知り尽くしているべきである。若しも情緒の微妙さが貧弱な物言いで曇らされるならば、それにどんな価値があるだろう』

『日常生活では言葉は我々の内部の要求によって必然的に生まれてくるが、芝居ではそれが違っていて、我々は作者の書いたテキストを話さなければならず、そこには元来、俳優個人にとって必然的なものはないのだ。
しかし俳優は「役」を演じなければならないので、熱意を持って喋ったり耳を傾けたりする『振り』をする。そういった強制は、やり過ぎ、紋切型、機械的な常套に終わるのである』[*2]

『自分の美声や様々な物言いの技巧をみせびらかそうと、役や戯曲にとっては正しくない言い回しをする俳優もいる。彼等は作曲家が書いた曲の内容を明るみに出すという目的のための演奏ではなく、楽器のセールスマンがただ商品を売らんがためにのみ華々しく耳触りの良い演奏をするような関係しか、芸術に対して持っていないのである』[*3]


[*] 前回も書いたように、俳優修業の第二部では長文を引用しなければわからないような、難易度の高い教示が多くなるため、多くの部分を割愛せざるをえなくなっています。
今回配信分は、物言いについてのわりと短い引用でも分かり易い教示をオムニバス的に集めました。

[*1] ロシアの言語学者S・M・ヴォルコンスキィの言葉。もともとはロシア語の物言いに対する教示だが、もちろん日本語にもあてはまる含蓄のある言葉。堤防に不備があったり決壊したりすると、アーティキュレーション・エロキューションが悪くなる。

[*2][*3] 『演技の幾つかのタイプ』のなかで【アマチュアじみたやり過ぎ】【紋切型】【芸術の利用】等に分類されるタイプが、物言いという形で現れた例。
16/04/11配信 207号
【ポド・テキスト】とは、役における人間の、はっきりとした内面的に感じられる表現であって、テキストの言葉の下を途切れぬ事なく流れ、それに生命と存在の根拠とを与えるものである。
ポド・テキストは【魔術的なもし】【与えられた環境】【創造的想像力によるあらゆる種類の作り事】【内的目標】【注意の対象】【大小の真実とそれらに対する信頼】【交感】【適応】等の要素から織り上げられた、戯曲及び役の内部の、無数の雑多な内的様式の織物である。
テキストに書かれた台詞を我々に言わせるものはポド・テキストである。

それらの故意により合わされた要素は、全て太綱一本一本のより糸のような物で、それらは戯曲を貫通し、究極の【超目標】へと向かうのである。
戯曲なり、役なりの【とぎれぬ線】が存在するようになるのは、我々の感情がポド・テキストの流れの中まで入っていった場合に限る。
我々が身体的行動に関係させて行動の貫通線と呼ぶところのものは、物言いに関係させればポド・テキストの中に、それに相当するものを持つのである。
(構成)


[*] この【ポド・テキスト】という要素(のコンポーネント)も、システムにおける重要な教義の一つであり、俳優修業ではサブテキストとして解説されている。
日本語でサブというと主副の「副」とか主従の「従」という印象が強く、システムで説かれているテキストとサブテキストの関係とはむしろ逆のニュアンスになってしまうため、当サイトでは他の文献の翻訳でも使われている、原文の音をカタカナ外来語としてポド・テキストと記す方法を採っている。

ちなみに「ポド」というロシア語はここに書かれている「〜の下を流れるもの」といった意味だけだそうで、特に「核心的な」とか「真理的な」と言った強い意味ではないらしい。
16/05/19配信 208号
「愛する」という言葉は、外国人にとってはただの奇妙な文字の組み合わせに過ぎない。
それは、心をときめかす内的含蓄は持っていないので空っぽな音である。
しかし、感情や思想や想像力がその空っぽな音に生命を与えるようにしてみたまえ。
そうするとまったく違った態度が生まれ、その言葉は意味のあるものになる。
その場合には「愛する」という音は人間を情熱で燃え立たせ、その人の人生全体のコースを変えうる力を持つのである。

同じように「進め」という言葉は愛国心で内面的に彩られるならば、何連隊にも死を決せしめる事だってできる。
至って簡単な言葉が複雑な思想を伝えれば、我々の全世界観をも動かすものだ。
言葉が、人間の思想の一番具体的な表現だということは、いわれのないことではないのである。
(構成)


[*] 前回に続いてポド・テキストについての解説で、俳優修業ではこれがしばらく続く。
このあたりはかなり重要な教示なのでできるだけ取り上げるが、レッスン風景が入って長くなりすぎるなどの理由で割愛せざるを得ない部分があるため、俳優修業の再読をおすすめする。
16/05/30配信 209号
舞台では、魂のない、すなわち意志や感情の伴わない言葉は一つとして使われるべきではない。
そこでは言葉は内的行動と絶縁していないのに劣らず、思想と絶縁しているべきではないのだ。
舞台では俳優のうちに、その相手役のうちに、そして彼等全てを通じて(間接的に)観客のうちに、あらゆる種類の感情、欲望、思想、内的イメージ、視覚的、聴覚的、その他の感覚や情緒を喚起するのが言葉の役目なのである。

この事は、言われる言葉が、戯曲のテキストが、それ自体単独で価値があるのではなく、ポド・テキストの内容やその中に含まれるものによって価値有らしめられるのだということを思わせる。
これは、我々が舞台へ上がると、とかく忘れがちなことである。
(構成)


16/06/27配信 210号
また我々は、印刷された戯曲というものが俳優によって演じられ、本物の人間の情緒でもって生かされぬうちは、完成した芸術作品ではないという事をも忘れる傾向にある。
それは音楽についても言える事で、曲の総譜はオーケストラによって演奏されないうちは、本当のシンフォニーではない。

劇芸術家の仕事の生命は、戯曲の中に潜み息づいているポド・テキストのうちにあるのだ。
言葉自体は劇作家から生み出されたものだが、ポド・テキストは俳優によって生きた心情として再創造されるべきものである。
もしもこれがそうでないならば、観客は劇場へ足を運ぶ努力をするには及ばない。
彼等は家にいて、印刷された戯曲を読めばいいのである。
(構成)


16/08/29配信 211号
我々が日常生活で他人と言葉を交わす場合には、(会話中の全てでは無いとしても、多くの重要な箇所や分岐点において)我々はまず言わんとすることやそれに関連したもののヴィジョンを心の目で見て、それからその内的ヴィジョンについて話すのである。
逆に我々が他人の言うことを聴こうとする場合、耳を通じて受け入れた言葉を心のスクリーンに投影し、内的ヴィジョンを作る。
つまり聴くとは言われたことを見ることであり、話すとは眼に見えるようなヴィジョンを作る事から始まる。
俳優にとって、言葉とは単なる音なのではない。それは心的映像(内的ヴィジョン)を喚起し伝えることである。
だから舞台で言葉を交わす場合には、耳に向かって話すよりは眼に向かって話すべきである。

日常生活では、話すべき内的ヴィジョンの素材集めとそのポド・テキストは全て生活がやってくれるが、演技では、俳優が全ての環境を改めて準備しなくてはならない。
これは取り立ててリアリズムやナチュラリズムのためというわけでは無く、我々自身の創造的自然、我々の潜在意識の活動の為にそれが必要だからである。
そういうもののために、我々は真実を持たなければならない。例えそれが、創造的想像のためだけに有用な『想像の真実』に過ぎないとしても…。

そしてその準備が出来たなら、君は自分の創造的自然の邪魔をしないようにしたまえ。君はただ、創造的自然から要求されたことをしさえすれば良いのだ。
結果は重要では無い。重要なのは、君がそっちの方に向かって動き、有る目標を遂行しようと試みること、相手役の内的ヴィジョンに対して君が如何に働きかけるか、もっと正確に言えば如何に働きかけようと試みるかということだ。
重要なファクターは、君自身の内的能動性なのである。
(構成)


16/09/21配信 212号
「僕は自分の言わんとすることの本質的意味を探り、僕の再現すべき事実や与えられた環境を思い出さなければならなかったんです。僕がそれらに成功し、身体的表現を持った言葉に移すところまで来ると、あらゆるものが沸騰し、動く状態になったような気がしました。僕の知性、感情、想像力、適応、表情、身振り、仕草など何もかもが、決められた目標への正しい近づき方を見つけることに取りかかりました。僕は、僕自身を注意深く観察し始めたんです」

「相手役では無く、君自身を?」演出家が遮った。「明らかに、君にとっては相手役が君のことを理解するかどうか、君の言葉の下にあるものを感じるかどうかはどうでもよかったのだ。これは、君は君の内的ヴィジョンを相手役に見せようという本能的な衝動が欠けていたと言うことを意味しないだろうか。それはつまり、君に【目標を持った正しい行動】が欠けていたという証拠である。

もし君が本当に、君の言葉を相手役に理解させようと努めているのなら、君が今やったように相手役を見ることもせず、相手役に適応することもせずに言葉を独白のように暗誦したりはしなかっただろうし、言葉の効果を見届けるために待つ瞬間がそこにあっただろう。他人の内的ヴィジョンをみんな一息にぐいと呑み込むなどと言うことは出来ない相談である。その過程は、ちびちびとなのだ。

例えスタート地点が正しかったとしても、途中このような様々な間違いが積み重なって、別の生きた存在との会話ではなくて、我々がよく劇場で耳にするような種類のモノローグが出来上がってしまったのである」
(構成)


[*] 物言いにおけるポド・テキストと内的ヴィジョンの伝達のレッスンでの一齣。
ここで書かれていることは04/07/20配信 042号の教示と関連したものである。
文中、「別の生きた存在との会話」とは「相手役との正しい交感」の、「我々がよく劇場で耳にするような種類のモノローグ」とは【紋切型】や【芸術の利用】等の、ダイアローグ(会話)がモノローグ(独白)に堕してしまった演技の意。
16/10/07配信 213号
・僕がポド・テキストの流れを肌で感じられるようになったとき、テキストのありふれた言葉が、いつの間にか僕自身の目的のために必要な言葉となっていた。
言葉が僕のものになるなるが早いか、僕は舞台ですっかりくつろいだ気がした。自分を支配出来るという事、慌てず、落ち着き払って人を待たせる権利を手に入れる事が、どんなに素晴らしい事だったか。
全くのところ、間は間ではなかった。何故なら僕が黙っていたって、身じろぎ一つしなくたって、僕は【行動】する事を止めなかったからだ。

・そうだ、相手役に感染させるんだ。君の思想を、情緒を、心理状態を、欲望(目標)を、つまり君の全自我を、それこそ君の相手役に感染させるんだ。そうする事で、君自身もより感染するだろう。
【行動】、目的を持った本当の生産的な行動は創造の一番重要なファクターで、従ってそれは物言いでも同様なのだ。

・以前は、我々が貫通行動線の形成に従っているとき、我々の感情をおびきだすおとりを勤めたのは身体的行動であったが、今度我々が言葉や物言いを取り扱うときに我々の感情に対するおとりの役目をするのは内的イメージなのである。
この内部のフィルムを、心の眼の前にたびたび繰り広げたまえ。それを見ている限り諸君には、自分が舞台へ出て言わなければならない事の本質がいつでも分かるだろう。

諸君がそれを見る事を繰り返し、それについて語る度毎に、諸君のすることに少しずつ違いが生じるということは十分起きることだ。それならなおよろしい。思いがけぬものや即興的なものは、いつだって創造活動に対するこの上ない刺激なのである。
想像力というものはじっとしていないものだ。これは絶えず新しいタッチやディテールを加えていって、内的イメージを充実させたり活気づけたりするのである。
(構成)


今回配信分は俳優修業の中での、最初が演劇学校の学友の、二つ目はその学友の叔父で高名な老優の、最後は演出家トルツォフの口を借りて語られた、ポド・テキストに関する教示。
16/10/28配信 214号
・君はあんまり急ぐために、自分の言っていることの中に入るだけの時間を自身に与えない。
君は言葉の背後にあるものを調べたり、感じたりすることが出来ないのだ。
君が真っ先に止めなければならないのは、君の急ぐことなのである。

・俳優が舞台に立っているとよく起こることは、気後れからにせよ他の理由からにせよ声域がいつの間にか狭くなって、音声上の様式がその線を失ってしまうと言うことだ。

・もしもイントネーションが諸君を手こずらせるようならば、まずは外面的な音の形式から出発して、次いでその根拠を発見し、その上で更に自然とぴったりくる感情の方へと進みたまえ。
正しい形式から正しい内容へと進むこともまた、可能なのである。

・論理的休止がテキストの小節や纏まったフレーズを機械的に形づけ、それによってそれらの分かり易さを助けるのに対して、心理的休止は思想や、フレーズや小節に生命を与えるのだ。それは言葉のポド・テキストの内容を伝えるのを助ける。
論理的休止が無い物言いは分けが分からないとすれば、心理的休止無しの物言いには生命が無い。
論理的休止は我々の頭脳に役立つが、心理的休止は我々の感情に役立つのである。

・心理的休止が死んで、ただの待つ間になってしまうと、不幸なことになる。なぜならそうなると、休止のための休止という災厄が起こらざるを得ないからである。それは芸術的創造という織物に穴を開けるのだ。

(構成)


俳優修業の「イントネイションと休止」「アクセントの付け方め表現的な単語」の各章辺りで述べられている教示はロシア語での例が多い等の理由により、言語にとらわれない教示をオムニバス的に紹介していきます。
16/12/02配信 215号
・ヴォリュームは力にあらず、力はイントネーションのうちにあり。

・声が大きいか、大きくないかと言うことは、フォルテかピアノかと言うことだ。しかし諸君も知っているように、フォルテとはそれ自体がフォルテだというのではない。フォルテとはただ、ピアノではないということに過ぎないのだ。
つまり、フォルテにせよピアノにせよ、それらには絶対的な尺度といったようなものはないと言うことだ。それらは、相対的な概念なのである。

・強音と弱音との、突如としたコントラストをこしらえることが気の利いたことであるように思っている人があるものだ。しかし正しい裏付けの無い天変地異染みたコントラスト以上にくだらない、趣味の悪いものがあるだろうか。

[*1]アクセントは、差す指である。それはフレイズや小節の肝心な単語を指摘するのだ。そうやってアンダーラインが引かれた単語のうちに、我々はポド・テキストの魂を、内的本質を、頂点を見いだすだろう。

・休止(=間)やイントネーションを愛するように、アクセントを愛するということを学びたまえ。それは物言いの、第三の重要な要素だからだ。

[*2]自分の声に、そんなに一生懸命耳を傾けるというのは無益である。そんなことをするのは自己賛美、これ見よがしと大して違いが無いのだ。
肝心な点は自分が単語をどう言うかと言うことよりもむしろ、他人がそれをどう聞いて、吸収するかと言うことの方にある。『自分の言葉に自分で耳を傾ける』ということは、俳優にとって適当な【目標】ではないのだ。彼が自分の頭や心にあるものを他人に伝えることでもって、他人の心を動かそうとすることの方がずっと重要だ。
だから、諸君の相手役の、耳にではなく眼にものを言いたまえ。それが自分自身に耳を傾けるという、俳優をその真の道からそらす有害な習慣から逃れる最上の手段なのである。
(構成)


[*1] ここで言うアクセントとは、訛りの矯正等で使われるアクセントの意味では無く、物言いの技術で言う『粒立て』の意味。
なお、『粒立て』という用語自体をアーティキュレーション(物言いの明瞭さ・歯切れの良さ)と混同して使っている人がいるが、これも間違い。
『粒立て』とはここで教示されているように、その台詞の中で何を一番伝えたいかという目標から生まれる物言いの修飾法であり、実際には高低・強弱・緩急・明暗・重軽・間など、あらゆる要素が融合されて生まれる『差す指』である。

[*2] この教示は16/09/21配信 212号と同じ事。
勿論、自分の物言いがきちんと相手役に、そして観客に届いているか否かに責任を持ち、注意を払うと言うことは当然で有る。
この言葉は、そんなことは当然出来ていると仮定した俳優に対する、『俳優の自分自身に対する仕事』『役に対する仕事』における創造過程上の教示である。
17/02/09配信 216号
・一つのフレイズは、そこにあるアクセントの数が少なければ少ないほど明瞭になるものだ。つまり少数のアクセントが、肝心の単語に置かれる場合である。

・アクセントを加える事を学ぶより先に、それを減ずる方法を発見したまえ。
初心者というものは、上手くものを言ってやろうという事に熱心なあまり、やたらにアクセントを付けたがるものだ。
釣り合いが取れるように、必要の無いところでは強勢を除く方法を学ぶべきなのである。

これが正しく出来てくると、適当なアクセントを決定するのが易しくなる。更にこの切り取りの芸術は、諸君が込み入った思想や複雑な事実を物語るといったような場合に、実地の大きな助けになるだろう。
俳優というものはしばしば、戯曲に関係のあるバラバラのエピソードや複雑なディテールを物語るという事をしなければならないが、それは聴き手の注意が物語の大筋から逸れないようにでなければならない。
注釈は全て、明瞭で、輪郭もくっきりした、しかしあまり仰々しすぎぬ形式で提供されなければならないのである。


・誇張するのはいけない。言葉に含まれている思想というものは、アクセントを付けすぎても付けなさすぎても犠牲にされるものなのだ。
ソーニャが気前よくアクセントを付けすぎた理由と、君がそんなにアクセントをしみったれる理由とは同じ事だ。
君たちは二人とも、君たちが口にする言葉の背後にあるもの、ポド・テキストについて十分にはっきりした観念を持っていないのである。
(構成)


17/03/16配信 217号
俳優が実際に演じている時、彼の魂の半分は『超目標』『貫通行動線』『内的能動性』『ポド・テキスト』等の内部の創造的状態を構成する要素にとられる。
しかし後の半分は、多かれ少なかれ、その精神技術を操ることと、『身体的行動』『表現的な動作』『物言いの技術』などの外的技術を操ることを続けるのである。

俳優は、演じているときには二つの部分に分裂しているのだ。それをトマソ・サルヴィニがなんと言ったか思い出すといい。
『俳優は、舞台で、生き、泣き、笑い、しかもその間中彼は彼自身の涙や笑いを監視している。この二重の機能、この生活と演技との間のバランス、彼の芸術を作るものはそれである』

この分裂はインスピレーションに対して何ら害をなすものではない。それどころか、一方はもう一方を助けるのである。

我々が身体的行動や目標の連続した流れを勉強していたとき、パースペクティブの平行した二本の線について話したことを覚えているだろうか?
一本は役のパースペクティブ、もう一本は俳優のパースペクティブであり、舞台における俳優の生活、演じている間の彼の精神技術の線である。

『パースペクティブ』と言う言葉は、こういう事を意味するものとしよう。それは『ある戯曲なり役なりの、全体における部分の、計算された調和のある相互関係と配分』である。
つまり、俳優のあらゆる意味での演技プラン(我々が『内的及び外的な役のスコア(総譜)』と呼ぶもの)を芸術的に形象化する際の監視人なのである。
逆の言い方をすれば、適正なパースペクティブがなければ、いかなる演技も、いかなる動作も、いかなる身振り、物言い、思想、感情等も、完成された芸術ではないということである。
(構成)


17/04/13配信 218号
物言いに関していわゆる論理的パースペクティブを念頭に置くという事は、普通の事である。
しかし我々のやり方では、もっと豊かで広い言葉の使い方へと導く、こういった言い方をする。
一、伝える思想のパースペクティブ。これは論理的パースペクティブと同じ事である。
二、複雑な感情を伝えるためのパースペクティブ。
三、物語なり台詞なりに、色彩や陰影や、生き生きとした眼に見えるものを加えるのに使う、芸術的なパースペクティブ。

第一の、思想や論理や一貫性を伝えるのに使うパースペクティブは、思想を展開する事と、様々な部分の表現全体に対する関係を確立するのに重要な役割を演ずる。
このパースペクティブは、重要な単語やフレイズに意味を与えるアクセントやポーズ=(間)等と言った物言いの技術群の長い繋がりの助けを借りて実現されるのだ。

我々は一つの単語の中のあれこれの音節、一つのフレーズの中のあれこれの単語にアンダーラインを引くのと同じように、一つの纏まった思想を含んでいる最も重要なフレーズを浮き彫りにしなければならないし、長い物語、対話、独白でも同じ事をやらなければならない。

一つの大きな場、一つの完全な幕の重要な構成部分、重要なエピソードを選択するのも、同じ原理に従うわけだ。
我々はこのすべてにおいて、相互の間では大きさや豊かさの違う、目立った要点の一つの連鎖を展開させるのである。
(構成)


17/05/12配信 219号
複雑な感情を伝えるのに使われるパースペクティブは、役の内的生活、ポド・テキストの流れの中を走る。
これはグループに纏められたり分離されたり、挿入されたり結合されたり、またアクセントを付けられたり調子の変化を加えられたりするところの、内的な目標、適応、行動の線である。
あるものは主要行動を代表して前景に現れ、他のものは戯曲を貫く情緒の補助的なファクターとして背景の役割を果たす。
内的パースペクティブの線を作り上げる事となるそれらの目標は、大部分が大事なところまでは言葉で表現されているのだ。

我々が芸術的なパースペクティブの線に沿って色彩を与える段になると、我々はまたしても一貫性、調子、調和と言ったような性質にすがらないわけにはいかない。
絵画の場合のように、芸術的色彩は物言いの多くの面の区別を付ける事を可能にする上で、はなはだ多くの事をする。
一番膨らませなければならない部分は一番強く色彩されるし、背景に追いやられる部分は必要十分な陰影はあるけれども、前景の邪魔をしないような工夫を要求されるのである。
(構成)


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