スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・バックナンバー 228〜250

18/03/09配信 228号
一番大事なことは、君が何かやってやろう(=上手く演じてやろう、●●を表現してやろう等)などと考えないでエチュードをやったことだ。
エチュードにおいて、目標は常に行動であって感情であってはならない。
エチュードをやる唯一の目的は、行動から感情が呼び醒まされるようにすることなのだ。
(構成)


[*] 今回より、ワフターンゴフの教示を中心に配信していきます。
ワフターンゴフは、スタニスラフスキーをして「システムを教えることにかけては、彼は私以上だ」といわしめた程の弟子であり、演劇界でも高名な演出家・俳優・システム教師です。
残念ながら若くして亡くなってしまいましたが、彼のレッスンの記録や小論文などはシステム第三部の内容にまで及んでおり、これを併せて研究することでシステムの全貌が理解しやすくなるでしょう。
18/03/26配信 229号
【人前の孤独】は俳優の正しい準備(与えられた環境、目標、正当化等)の後に自然に続くもので、そのときには役としての具体的な行動や思考が観客の視線を二の次にしてくれるものだ。

この【人前の孤独】を「私は一人だ、観客などいない、客席には何も見えないし、聞こえない。なにかが見えたらそれは石ころだ」と信じ込もうとする者がいるものだ。

これは一種の自己暗示なのだろうが、やり方としては間違っている。
現に生きた観客が眼と鼻の先にいて君の方を見て笑ったり、咳をしたり、ため息をついたりしているのに、どうして彼等がいないなどと信じ込もうとするのか。
俳優が演じるのは自分自身のためではなく、彼等のためだというのに。

だからこうした無理な観客との離反は無意味だし、演技の本質とも矛盾している。

俳優が舞台に立つという事は、観客の目が自分に注がれているという個人的感情よりも、もっと大事な意味を持っている。
そしてそれこそが【人前の孤独】というものを造り出す核心なのだ。
(構成)



18/04/10配信 230号
「先生があるリズミックな形式、全場面を統一するリズムを探しておられたと思いました」
「リズムについては君の言うとおりだ。しかしリズミックな形式というのは間違っている。僕は真剣に内的リズムを探したのだ。チェーホフの人物達の生活のリズム、彼等の生活のあらゆる隙間に浸み渡っているリズムをね 。それじゃ停止したことについてはどう思うかね?」
「全員が停止したときはとても素晴らしく見えました。何か凍り付いたシンボルのようで、ゴーゴリの検察官の活人画のようでした。とてもグロテスクです」
「誰かそう口を滑らすんじゃないかと思っていたよ。僕は君たちのような幻惑されやすい人のために、本当の雰囲気を探していた。さっきの短い間のあいだに君たちが生き、考えることを要求しながら、どうしたらチェーホフの『結婚披露宴』の正しい理解を君たちが得られるか分からせようと努力していたのだ。それなのに、『凍り付いたシンボル』『グロテスク』だって!」
(中略)
「大事なことはこの間の中に生きることであって、、機械的に間を取ることではない。生きること、考えること、行動する事だ」(構成)


[*] ワフターンゴフが演技・演出を教えていた小さなスタジオでの稽古風景の一齣。
外面的なテンポ・リズムや間の取り方にばかり目が行ってしまう生徒達に対するダメ出しのシーンで、外的なリズムは内的なリズムの表れであることを、間というのは外面的に動かない(あるいは喋らない)だけで、俳優の内生活はずっと続いていることを教示しています。
中略部分はグロテスクについて説明していますが、チェーホフ劇には必要ない( そぐわない表現形式)と論じています。
18/05/14配信 231号
全ての役、全ての劇の中には『種子』というものがある。その役や劇を生み出すものが『種子』なのだ。
だから『種子』とは劇や役の一番基礎になるもので、もし君たちがこの『種子』を発見したらどんな芝居もやれるし、どんな役も演じられることになる。
君たちが役を与えられたとき、最初にすべきことは、考えることだ。
考えたまえ。但し、どういう言い回しをしようとか、どんな声色を使おうとか、どんなポーズを取ろうとかではない。
『種子』について考え、『種子』を探し出したまえ。
(構成)


18/06/04配信 232号
僕は、君たちがこんなときに歌うであろうような歌を聴きたい。
チェーホフは歌には触れていないが、君たちがチェーホフの登場人物たちの仲間として(俳優としてではなく)感じるようになるためには、作者の与えた環境に全く合致する何らかの行動を経験しておくことが君たちの役に立つのだ。(中略)

時と場合によっては芸術のために、例えば俗物主義の暴露のためには、民衆の魂のもっとも素晴らしいものさえも、あえて歪めて見せねばならないのだ。(中略)

僕が今君たちに言おうとしている事は、イメージを心理的にも身体的にも【正当化】する俳優の能力に関わる事で、それは戯曲における人物描写という俳優の能力と、ミザンセーヌを処理する演出者の能力にも関連することだ。
それらは全て【与えられた環境(=前提条件)】から導き出され、それと密接に関連していなければならないのだ。
(構成)


[*] チェーホフ作『結婚披露宴』の稽古の一齣から、【情緒的記憶】の(本来は日頃から習慣としておくべき)蓄えについて、表現のための切り口や形式などについて、【与えられた環境】の【消化】【正当化】について、といった三つの教示。
与えられた環境や情緒の素材が、戯曲には書かれていないけれど時代考証などによって確認出来る事実や、【創造的想像力】によって仮定可能な事柄まで含んでいる事が分かる。
18/07/03配信 233号
君たちは演技のコースの全課程を終えなければ、幾つかの役をやってみなければ、舞台で数年過ごさなければ、演出家になることは出来ない。(中略)

もし君たちの誰かが、相手役に立っている位置が悪いとか台詞を簡単に喋りすぎるとか、文句をつけたり他人に指図したら、僕は国中のあらゆる研究劇場からこの『天才』を閉め出すようにするだろう。
君たちは、ここに学びに来ているのだという事を忘れてはならない。

君たちの、舞台で仲間と『交流』するのを助けてくれる俳優としての眼が、一瞬たりとも演出者の眼、つまり相手役を監視し、催促し、批評する眼に変わることが断じてないように。
君の全ての考えを演技に、役の生活に集中したまえ。それが完全になればなるほど、君はよりよい演出者になれるのだ。
演出家は稽古に取りかかる前に、全ての役を自分の心の中で生きて(つまり演じて)みるべきだ。
だからもし彼に俳優の経験がなければ、どうしてそれをやれるだろう。
(構成)


18/07/24配信 234号
「あそこの窓は、僕らの劇場のそれよりずっと奇麗に見えるな」
「でもあれは保育学校ですよ。奇麗でなくっちゃ」
「では僕らの観客や君たち自身は、劇場でなにを呼吸しているんだ? 芸術だね。だから芸術の息吹というものは、子供の表情のように純粋でなければならない。汚れたままにしていてはならない、そうだろう」
(中略)


演出家の仕事の一つで有り、しかも実に重要な仕事は、最高の状態にある劇場をもつという事だ。
もし演出家が観客を愛し尊敬することを知らないならば、観客のためではなく自分の野心や自尊心のために仕事をしていることになる。
そういう人物は決して真の演劇をもつことは出来ない。
彼はなにかそのようなものをもつかも知れないが、それは決して大文字のTを持つ演劇(Theatre)ではない。[*]

俳優が劇場入りしてから芝居がはねるまで、俳優は自分が演じる役以外のことを考えるべきではないし、観客もまた劇場に到着してから帰途につくまでが観劇なのだ。
だから演出家は、その双方の大事な時間を護るべきなのだ。
(構成)


[*] K.Sやワフタンゴフがよく使っていた言葉で、大文字のTを持つ演劇(あるいは劇場・劇団)とはプロフェッショナリズム(芸術的、文化的といった鑑賞や啓蒙的要素などを持つ演劇)を指し、対比されるのはディレッタンティズム(好事家の道楽や趣味としての演劇を指し、自己満足で終わってしまう演劇)の事。

内容的にエンターテイメント色が強いからと言ってディレッタンティズムとは限らず、シリアスな悲劇だからと言ってプロフェッショナリズムとも限らない。
何のために上演するのか、観客に何を感染させるか、あるいはどんな問題提起をするかといった【究極の超目標】の質に関係する。
18/08/29配信 235号
どんな古い方法でも、それが役に立つ限り稽古出来るのだ。
大事なことは稽古の方法ではなく、特に一人だけの時はそうだが、稽古をするものが心に留めている目標なのだ。
(後略)


(幾つかの効果音やちょっとした付け足し芝居のアイデアに対して) よろしい、こうした提案は全て雰囲気を創り出す要素となる。そして雰囲気というものは、観客に劇を印象づけるための一番確かな方法の一つだ。
生き生きとした細部(ディテール)は、時には長いモノローグよりも有効だ。勿論それが適切に使われるならの話だが。
だから君たちは、どんなときにもディテールで内容を置き換えられると信じてはいけない。
(中略)

たぶんこんな風になるのかもしれないが、しかし、いかにも色合いがなさ過ぎる。
君たちはまだチェーホフを演じられるほど十分な経験を積んでいない。僕は君たちが役を演じる時に、『イメージ』から出発するようにとは誰にも言っていない。まだ『自分自身』から出発しなければならない段階にいるのだ。
僕は君たちが、自身と全く異なる役の人物、君たちがチェーホフと同じ眼で捉えることの出来ない人物、あるいは君たちがそうなることが出来ない他の人物を表現しようとして、あらゆる馬鹿げた態度を取って欲しくないのだ。

取りあえず今言えることは、家具類や銀行頭取室の雰囲気というものを、諸君自身も持っていないという事だ。
(構成)


18/09/27配信 236号
俳優は舞台の上で漠然と『何か』をしようとしたり、『何か』を考えようとしたりすることを自分に許してはいけない。
なぜなら、漠然とした『何か』こそ芸術の敵だからだ。



18/1/13配信 237号
上演を成功させるためには、俳優の誠実な演技を緻密に調和させることが必要だ。
そしてその『誠実な演技の調和』ということの中には、独創的で真摯に演じられる演出的仕掛けまで含まれているのである。
言い換えれば、真にリアリスティックな演技の持つ子供のような純真(ナイーヴ)さ、荒れ狂う激しさを持つ大胆な奇想天外(エキセントリック)さ、ドラマティックな感情、等々を調和させることが必要なのだ。



18/11/14配信 238号
前には何も出来なかったものが、なぜ今は出来たのかね? わからないか? 僕には分かる。
最初にこの即興を始めたとき、君たちは『それを考え出そう』としていた。
僕は思考や工夫や計画の重要性を否定はしない。しかしもし君たちがその場で即興をしなければならないとしたら、君たちは【行動】すべきだ。
俳優として『どう演じようか』と考えてはいけない。役の人物が『何を欲するか・何をしたいか』を速やかに見つけ出し、そのように【行動】するのだ。
どんな役でも、その欲求に誠実に行動するという事は容易ではないのだ。
(構成)


18/12/06配信 239号
君たちは何事によらず、自分と会話することを学ぶべきだ。
人々を観察したまえ。彼等の行為、彼等の心理を。君たちの周囲に起こっていることに注意を向けたまえ。
生活の中の美しいものを見ることを学びたまえ。しかし醜い側面もまた無視してはならない。
比較すること、心に生活の設計を描くこと、そしてそれに参加することを学びたまえ。
君たちはあらゆる世紀や時代、世界のあらゆる国々の思潮を掴み、かつ風習や伝統を理解出来る精神を養わねばならない。


18/12/18配信 240号
ある者はスタニスラフスキーとその仕事の方法は誤っていると主張している。
しかし事実は、彼はいつも『芸術というものはその形式において易しく美しく、その内容において深くなければならない』と言っているのだ。
そして僕らのやっていることといえば、彼の思想の前半を無視して、『底なし沼の底』に辿り着こうと様々なものを辺りにまき散らしながら、複雑怪奇な進路を掘り進んでいるのだ。
我々にとって形式は重要でもなければ必要でもないなどと、全世界に主張する必要がどこにあるのか? 馬鹿げている、ナンセンスだ! 
重要なことは、形式と内容との完全な結びつきを発見することであり、内的な思想や感情から切り離して形式を提示してはいけないという事だ。
(構成)


19/02/02配信 241号
俳優は役の【種子】が要求するところに従って、身繕いをし、演技をしなければならない。
これはどういう意味か? それはまず俳優というものは馬鹿でもなければ、演出者の意志の機械的な実行者でもなく、彼が舞台にいる間中一個の芸術家だという事だ。
次に彼は一人の俳優であり、そういうものとして衣装を身にまとい、観客の目の前で自分の役を引き受けるのだ。
これこそまさしく我々の『トゥーランドット』の種子なのだ。そしてゴッツィのお伽噺を上演する芸術的な創造方法なのだ。


[*] この『トゥーランドット姫』の上演は、昔のイタリアで旅芝居の一座が行ったような上演形式が一つのコンセプト(つまり上演の種子)になっていた。  (芝居が始まってから舞台上で衣装や小道具を身につけ、俳優が役になっていく外的変身過程を見せるというのも一つのコンセプト)

従ってこの教示は、芸術家としての自分自身であり、自分が演じる旅芸人の一座の座員であり、その座員が演じる役の人物、という三つの自我について語っている。
19/03/08配信 242号
俳優は、戯曲や役の内容を引き出すのにもっとも良い形式、上演の様式と調和し、作者の思想にあった形象や具象化の形式を絶えず追求しなければならない。
全てのことが、全体としての芝居を包み込む創造方法にふさわしいものでなければならない。
そのためには、俳優の想像や解釈や正当化と言った基本的ルールは役や戯曲の【種子】から生まれるべきであり、演技の各ディテールは原則として高い専門的な基準の上に組み立てられるべきなのだ。
(中略)
今回の上演の、この戯曲のこの場面では、一方ではその内容を十分に保ちながら、同時にそれをもっとグロテスクにする方法を探し、厳密でしかも少しばかり皮肉なこの場の上演形式を発見しなければならない。
それは内容を上回ってはいけないし、それ自体が目的であるべきではなく、舞台の統一を『保つ』ものでなければならない。
(構成)


19/04/11配信 243号
劇の主題は生活の中にある。俳優の仕事は人生を再現し、人物の生き生きとした形象を創り出す事である。
舞台では、俳優は虚構の中で仕事をする。俳優は仲間をお父さんと呼び、他人の言葉を自分自身のものとし、舞台装置を本当の背景だと見なして扱う。この『虚構』を『真実』に変える瞬間こそ、創造と芸術の瞬間なのだ。

存在していないものに対する俳優の信頼は観客に伝わる。観客は俳優が信じている限り俳優と共に生きるもので、俳優が彼に起こった事を信じなくなった時、観客もそれを感じ冷えてしまう。
観客は芝居を楽しむかも知れないが、俳優の苦悩や喜びを本当に共有しているときのそれとは違うのだ。
(構成)


19/05/13配信 244号
創造的個性というものは、普段は様々な偏見や因習によって閉じ込められているものだ。だから個性の解放とその発揮こそ演劇学校の主要な目的になるべきで、創造それ自体を押し付けるべきではない。
この意味において、一回一回の稽古が次の稽古のための素材を呼び覚ますのに役立つとき、もっとも効果的なのである。
何もないところからは何も作り出せない。それが「役はインスピレーションだけでは創造出来ない」という理由なのだ。
インスピレーションとは、潜在意識が意識の関与無しに、それに先行する全ての印象や経験や作業に形を与える瞬間なのだ。
(構成)


19/06/10配信 245号
俳優は芝居をやっている間、自己の感情にかかずらうべきではない。感情はひとりでに生まれるものなのだ。
だからスタニスラフスキーも「感情を体験しようとするな、感情を強制するな、そういったものは一切忘れろ」といっているのだ。
実生活では、私たちの感情は私たちの意志に反してひとりでにわき起こってくる。
意志を持つという事は、欲望を満足させるための行動を生み出すという事だ。
もし私たちが首尾良く欲望を満足させると、肯定的な感情がひとりでに生まれてくる。欲望充足の過程で障害が起こったり失敗に終わると、否定的な感情が生まれる。

このように全ての感情は、満足させられた、あるいは満足していない意思のあらわれだ。
まず欲望が起こって、それが意志となり、行動を生む。
このように感情は意志の産物で有り、意識的(時には無意識的)行動は、それを満足させる方向を目指すのだ。
(構成)


19/07/13配信 246号
(前号の続き)それ故、俳優はなによりもまず、ある特定の瞬間に彼が捉えようとしているもの、そしてしなければならないものについて考えなければらない。
だが、彼が感じようとしているものについて考えるべきではない。
感情は欲望を満足させる過程で無意識に、自発的に生まれるものだからだ。
だから俳優は感情を味わったり体験したりするために舞台にのぼるのではなく、行動するために上らなくてはならないのだ。

実生活では、泣く人は自分の涙を抑えようと気遣っている。だが、職業俳優はまさにその逆のことをしようとする。
「彼は泣く」というト書きを読んで、ありったけの力で涙を絞り出そうとし、そこから何も生まれてこないとなると、今度は致し方なく紋切型の芝居がかった泣き真似を、藁をも掴む思いで使うのだ。
我々が「犬の笑い」と呼ぶ、俳優の楽しくもない偽の笑いを知らぬものはいまい。他の感情についても同様なのだ。
(構成)


19/07/27配信 247号
劇の示唆する環境に対して、それがあたかも本当に存在するかのように俳優が誠実な態度を示す能力は、スタニスラフスキーが言うところの【舞台への信頼(信頼と真実の感覚)】である。
これは、劇作家が状況や台詞の真実性を通して描き出した様々な感情の真実性を言うばかりでなく、俳優が舞台上の自己の振る舞いを確信することによって確立された感情の真実性をも指すのである。
(中略)
舞台の虚構が多ければ多いほど俳優の創造的な可能性は一層豊かに幅広くなってゆく。
反対にこの虚構が少なければ少ないほどますます自然主義的な真実になってしまい、俳優の創造的可能性の限界は狭められるのである。
(構成)


19/08/21配信 248号
演劇的表現手段に関する全てのもの ―― [*1]言葉の音色、語句、[*2]身振りや仕草、ポーズ、リズム、等々は特殊な演劇的感覚で理解されねばならず、またそれ自身の性質から生まれた【内的正当化】を伴っていなければならない。
様々な舞台技能の要素はこのように有機的で、しかも機械的でない法則に従っている。
しかし外面的な表現手段について語るとき、私たちは自然から生まれる内的正当化のことを忘れがちだ。
外的な表現手段というものは、全体としての人間の有機的な生活との関係を掴むことによってのみ理解されねばならない。
物言いにせよプラスチカ(動作の造形)にせよ、心情描写にせよ形象化にせよ、リズムは内側から知覚されねばならないのだ。
(構成)

[*1] 言葉(台詞)の音色、語勢、弾み、ひとつぎに話す語群量など、間の量と長さ、物言いの様々な要素を含む。また言葉(台詞)の語句に関する解釈と実際のニュアンス、その向けられる対象の選択なども含む。
[*2] 同様に、身振り、仕草、舞台上の移動、それらの速度やアクセント、静止姿勢、その向きなど、身体的側面の様々な要素(場合によってはそれらの形式・様式も含む)。
19/10/09配信 249号
リズムというものは、自然の中の個々の、そしてあらゆる動きが持っている特性なのだ。
与えられたリズムの中で生きることを学ぶことが必要であって、決して単にリズムの中で動くだけであってはならない。
全ての民族、全ての人間、自然界の全ての現象――これらは全てそのもの固有の特徴的なリズムを持っている。従って全てのドラマ、全ての役、全ての台詞、全ての感情は、それ自身のリズムを持っている。
役の人物のリズムを掴むことは、役を理解したということだ。ドラマのリズムを見いだすことは、その上演の鍵を見いだすことだ。

リズムについて言われたことは、プラスチカ(動きの造形)についてもあてはまる。
俳優は、ダンスが出来たり美しい身振りや優雅な姿勢を取る為にではなく、自分の体で生き生きとした感情を伝えるためにプラスチカを身につけておくべきだ。
自然界にはプラスチカ、つまりリズムのある柔軟な動きでないものは何も存在しない。波のうねり、木枝の揺らぎ、馬の駆け足、昼夜の入れ替わり、一陣の風、鳥の飛び立ち、山のたたずまい――これら全てがプラスチカなのだ。
俳優は無意識のうちにその本質が表せるように、リズムのある柔軟な動きの習慣を意識的に深く養わなくてはならない。背広の着方にも、声の力にも、自分の体を役の人物に作りかえるときも、筋肉にエネルギーを素早く配分する能力においても、あるいはまた身振りにおいても、感情の論理においても――。
(構成)


19/11/26配信 250号
リズム体操に長けた俳優が、役を演じる段になるとリズムがなくなり柔軟性を欠いたやり方で動いているのはどういうわけだろう?
この原因は、彼が与えられた課題を全く機械的な感覚で行い、リズムやプラスチカはそれ自体別個の、役とは別のものという認識の中にあるのだ。
動作にせよ静止にせよ、それは内側から正当化され、有機的なものとならなければならないのである。

体の動きの外面的な停止が、内面的な動きの連続性を壊すものであってはならない。
内的な行動というものは、そのリズムや特徴を変える場合もあり得るのだが、内面生活の行動自体は少なくとも俳優の登場から退場まで停止させてはならないのだ。
(構成)


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