スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 036〜040

04/05/18配信 036号

俳優の生活の多くは想像の環境の世界で行われるのだから、俳優にとっては内的注意が特に重要である。


これまで【注意の集中】という技術について【注意の圏】という概念を紹介してきましたが、今回の言葉は自分の内部にある【注意の圏】に関するものです。
(勿論これも、自分の外部にある対象を含んだ【注意の圏】と層を成し、共存していることは云うまでもありません)

俳優修業では、絵画や装飾品などを数十秒間観察させ、その後対象物を隠してその特徴や印象を云わせる訓練(外的注意の訓練)が最初に紹介され、その後この内的注意について触れています。

前々回の例で云いますと、各テーブルの客達・従業員の様子・トイレのドア等の、自分の外部にある物質的対象に対する注意が【外的注意】で、密告電話や相棒に対する印象、駐車場や小さな建物の様子の記憶等の、自分の内部にある記憶・印象に対する注意が【内的注意】と云うことになります。

俳優修業から少し引用すると、
諸君の内的注意の対象は、諸君の五感の全領域に遍在している。(中略)
それを使うについての難しさは、それが脆いものだという事実のうちにある。舞台で我々の周囲にある物質的な事物はよく訓練された注意を要求するものであるが、しかし想像の対象は、もっとずっと訓練された集中力を要求するのである。(中略)
教室での勉強以外に、この訓練は諸君の日常生活の中へも持ち越されなければならない。この目的のためには、我々が想像力のためにやった練習が、注意を集中するためにも同じように有効なので、諸君はそれを使えばいい。
として、夜寝る前に、一日のことを出来る限り詳しく思い出す事(もし食事のシーンを思い出したなら、その料理の事だけでなくそれを盛った皿やその配置を思い浮かべる事、食卓での会話の内容や、その時感じた情緒などを全て蘇らせるようにする事)をあげています。
また、
諸君の部屋だの、散歩をしたりお茶を飲んだりした事のあるいろいろの場所を詳しく思い返して、それに関連したひとつひとつの対象を、眼に思い浮かべてみたまえ。また出来るだけまざまざと、友だちや、通りすがりの他人を思い出そうとしてみたまえ。
こういった訓練が、内と外との注意の、強く鋭い、しっかりした力を養う唯一の方法である。
と教示し、
それを成し遂げるためには、長い間の、システマティックな勉強が必要だ。
良心的な毎日の勉強とは、諸君が強い意志と、決意と、忍耐を持たねばならないと云うことである。
と結んでいます。

少し補足しますと、内的注意の対象となる記憶や印象は外的な注意の活動によって得られるものなので、外的注意を働かせる習慣、つまり、04/01/27配信号の言葉にもあるように「観察し、何故そうなのかと自問する習慣」が重要になってきます。

尚、教室での訓練は内的ヴィジョンのための専門の訓練もありますが、一般的に「無対象演技」と云われているエクササイズが大変有効です。
これは本来「架空の対象を用いた演技」とか「想像の対象を用いた演技」と云う方が正しいのですが、小道具などを用いず、それらを「あるとみなして」演技するエクササイズです。
料理をする、手紙を書く等、実際には包丁もペンも無いのに、それらをあたかもあるとみなして正しい身体的行動を行うことは、注意力・想像力の大変良い訓練になるのです。
(但しこれは、多人数で行うには混乱や弊害の方が多く、あまり向いていませんが…)
04/05/28配信 037号

真の芸術家というものは、自分の周囲に起こっているあらゆるものから激励される。
生活は彼を刺激し、研究と情熱の対象となる。
どんなものでも、目についたものを熱心に観察し、それを統計学者のようにではなく、芸術家として心の中に刻み込もうとする。
一言で言うと、芸術においては冷淡なやり方で仕事をする訳にはいかないのだ。

我々は何らかの心の温かさを持っていなければならない。
すなわち、我々を情緒的に動かす性質を持った注意を持っていなければならないのだ。


今回の言葉は、04/03/19配信の031号の補足説明で少し触れた『演技に直接関係する性質の注意』についてのものとなります。

一例をあげると、例えばある家を描いた風景画があったとします。
この絵はどんな絵の具で描かれているか? どこにどんな色を使っているか? 屋根の形や建物のスタイルは? 構図はどうか? 等々の疑問とそれに対する観察や推量が本文中の統計学者的な注意だとすれば、この絵に描かれている家にはどんな人達が住み、どんな生活を送っているのだろうか? もし自分の部屋にこの絵を飾るとしたら、どんな雰囲気になるだろうか? 画家は、どんな気持ちでこの絵を描いたのだろうか? この絵は今までどんなところに飾られていて、どんな人達がこの絵を見ただろうか? あるいは逆に、この絵はどんな人達の生活を見てきたのだろうか? 等々が、俳優を情緒的に動かす性質を持った注意という事になります。

俳優修業では、この二つの種類の注意を『知性に基づく注意』と『感情に基づく注意』と呼んでその相違をシャンデリアの観察を例に説明し、
「この場合(=感情に基づく注意)にも、諸君の(注意の)対象はもとのままであるが、今度は想像した環境が対象(の性質・印象)そのものを変形させ、それに対する諸君の情緒の反応を高めることが出来る
と教示しています。

尚、【熱した方法(a chaud)】【冷淡な方法(a froid)】という言葉は、「創造的想像力とそうでない性質の想像力」や「情緒的記憶とそうでない種類の記憶」の対比において、また、役に対する仕事の中でもたびたび使われている言葉で、俳優と役の人物との有機的な結びつきを常に説いていたK.Sが好んで使った言い回しです。
04/06/08配信 038号

『知性に基づく注意』は必要なものではあるが、それはただ逸れた注意をまとめ、対象を固定させることを助けるだけで、諸君を長いこと掴まえておくわけには行かない。
対象をしっかり把握するためには、注意の対象に諸君自身が興味を持ち、諸君の創造器官全体が働き出すようなやり方(=熱した方法)でなければならない。
勿論全ての対象に想像の生活を与える必要はないが、しかし諸君は、それが諸君に及ぼす影響に対しては敏感であるべきだ。


俳優修業で解説している順序とは逆になりますが、今回の言葉は『知性に基づく注意』についての補足的なものになります。

俳優の創造過程においては、『感情に基づく注意』が他の創造的要素を活動させる重要なものとなりますが、『知性に基づく注意』は本文にもあるように「逸れた注意をまとめ、対象を固定させる」事を助け、また『感情に基づく注意』が眠っているときには、それを揺り動かすような創造的想像力を生む源ともなります。
つまり『知性に基づく注意』は、場合によっては『感情に基づく注意』に転化できるわけで、『感情に基づく注意』の前駆体にもなりうるわけです。

前回の家の絵で一例をあげれば、「どんな絵の具で描かれているか?」→「その絵の具がなかなか手に入らない貴重なものだとしたら、たいして裕福ではないはずのこの画家は、何故この絵にその絵の具を使ったのか?」→「そこまでして描きあげたこの絵のモデルとなった家とは、彼にとってどんなものだったのか? あるいはこの絵を描いた目的は何だったのか?」とか、「屋根の形や建物のスタイルは?」→「何故こういう造りになったのか?」→「もしこれが、その土地の気候や風土に適したように発生してきたものならば、そこに住む人々はどんな日々の生活を営んでいるのか?」→「そこには、我々の知らないどんな喜びや苦労があるのか?」等々という具合です。


そして、『勿論全ての対象に想像の生活を与える必要はないが〜(略)』の部分では、「技術のための技術」になったり、部分的に固執して全体のバランスを失わないようにしなければならないとした上で、俳優は「自分自身の情緒に影響を与えるもの」に対して敏感であるべきだ(別の云い方をすると、現在のやり方が冷淡な方法ではなく熱した方法であるかどうか、知性だけでなくそこに情緒が参加しているかどうか)と教示しています。

さて、「どこまでが必要な付け足しで、どこからが不要なものか」というのは、そのテキストと俳優自身の【真実の感覚(内的リアリティ)】によって変わってくるのですが、簡単に言ってしまえば「テキストが要求しているものをノーマルに感じられる程度」といったところでしょうか。
これも付け足しが多すぎると、本来表現しなければならないものがぼやけたりアンバランスになったりと、デッサンを汚くしてしまいます。
この辺りのことは【貫通行動線】や【超目標】、【パースペクティブ】といった項目でまた触れると思いますが、表現するべきものの最も重要なものを前景に描き、重要度の低いものは後景にもっていく作業というものが重要になってきます。
つまり全ての対象に完全な想像の生活は必要ないわけで、そうでないと家と人間とチューリップが同じ大きさで描かれた(=同じ重要度で描かれた)幼稚園児の絵と同じ事になってしまうという訳です。
04/06/18配信 039号

我々の創造的仕事のための材料を活かす根本は、我々の情緒である。
しかしそれは、我々の知性の果たす莫大な仕事の代わりをする訳にはいかないのだ。
諸君は、諸君の知性が加える付け足しが、諸君が生活からとった材料を台無しにしはしないかと恐れる必要はない。
諸君の、それに対する信頼と誠実さがあるならば、そういう独創的な付け足しは材料をおおいに強化するものなのだ。


今回の言葉も、『知性に基づく注意』と『感情に基づく注意』に関連した教示ですが、知性や情緒(感情)の関係や性質、役割については【内的原動力(知性・感情・意志)】の項で詳細に論じられています。
この【内的原動力】というのは、俳優の全ての創造器官を有機的に働かせる根源となる原動力と云う意味で、それは【注意の集中】という要素においても上記2種類の注意として触れられている訳です。

「『知性が加える付け足し』が、生活からとった材料を(情緒的に)強化する」という事に関しては、前回の補足説明で述べた『知性に基づく注意』の『感情に基づく注意』への転化という事なのですが、俳優修業の中には『カナリアの籠を入れた乳母車を押す老婆』についての素晴らしい具体例があります。

尚、後にK.Sは『知性・感情・意志』という分け方を改めています。
すなわち『知性を想念(想像)と判断に分け、感情と意志を合一させた』というものです。
これに関しては後日また触れたいと思いますが、日本語訳の精度や日本語としてのニュアンス・日本人的気質を考慮すると、『知性・感情・意志』という分類の方が分かりやすい気がします。
04/06/29配信 040号

情緒的材料は、大部分がしかとは分からない、はっきりしない、内面的にしか知覚し得ないものであるために、手に入れるのが難しい。
(たしかに、多くの眼に見えない、精神的な経験が、我々の顔の表情や、眼や、声や、物言いや、身振りなどに反映してはいるが、それにしても他人の心底を悟るという事は決してたやすいことではない。
なぜなら、人間はその魂の扉を開いて、他人にあるがままを覗かせるという事をあまりしないからである。)

もし諸君の観察している人間の内部世界が、その人の行為や思想や衝動を通じて諸君に明らかになるような場合にはその人の行動を綿密に追跡し、その人が置かれている状態を研究したまえ。
何故彼はこうしたか? ああしたか? 彼が念頭に置いていたのはなんであるか? 等である。
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今回の言葉は、対象を観察しそこから情緒的材料を引き出すにはどのように近づけばいいかを解説したもので、これは想像力の訓練(04/01/27配信 026号)とも共通するものです。

このような近づき方は、俳優に【行動の論理と一貫性】をもたらすので、対象の観察だけでなく、役の準備・テキストの研究の過程に於いても重要な精神技術の方法となるものです。
(勿論、それは情緒が参加する【熱した方法】でなければなりませんが)

ところで「俳優は観察力が大事・観察しなければならない」とはよく聞く言葉ですが、この言葉も正しい意味が伝わっていないことがままあるようなので、少し触れてみたいと思います。
この言葉はまさしくその通りなのですが、観察の結果として何を得るかと云うことが重要になります。
しかし残念ながら、対象の外的特徴(物言い、声質、仕草、風貌、職業的・年齢的・人種的特徴等々)だけに終始し、いわゆる「俳優のひきだし」を増やしたとして満足している場合が多いようです。
一例をあげれば、大きな悲しみの中にある人や大喜びしている人はどういうしゃべり方をするとか、どんな声になるとか、どういう仕草をするとか、どんな表情になるとか、あるいは、これこれの職業にある人やこれこれの年代の人、これこれの国の人にはどういう習慣や癖があるとか、どういう物腰・態度や印象の人が多いとかです。

勿論そういった外的特徴(外的性格描写)の研究も重要なのですが、それだけでは目的の半分しか達しておらず、何故そういう特徴や結果が生まれるのかという内的過程の研究や、情緒的材料の獲得というもう半分の重要な部分がぬけているのです。
つまり、ある人物が体験したであろう内的過程の疑似体験や、役の人物の経験と類似した俳優自身の経験が情緒的な材料になるわけですから、その内的なものが無いままに外的に顕在化された特徴だけを模倣してそれが操れるようになったとしても、それはただ手の込んだゴム判を集めているだけという事になってしまうのです。
『仏作って魂入れず』という諺がありますが、まさしくそういうことですね。

また、余談ですが、本来「ひきだし」と云う言葉は、「ひきだし演技」と呼ばれる「かわりばえのしない、使い回しのゴム判」のつまらなさを表すものでした。
それが、上記のような「俳優の仕事は外面的特徴を複写できればよし」とする人達によって、さも大事なもののように伝わってしまっているのが現状です。
ですから、もしそれを「いろいろな役や戯曲に適用できるように、様々な材料を集めておく」という意味として使うならば、是非とも情緒的材料(情緒的記憶や、ある心理状態や精神状態が訪れやすくなるような内的な行動の論理、真実の感覚や能動的目標につながる様々な刺激や仮定、等々)も、その「ひきだし」に入れるようにして下さい。
そして外的な材料にせよ内的な材料にせよ、それらをそのまま使うのではなく、それらはあくまでも創造のための材料に過ぎないということを忘れないで下さい。

俳優にとって観察するという事は大事ですが、そこで何を得るのか、得たものをどう使うのか(どうすればそれが、表現すべき形象に有機的に反映されるのか)と云うことにも注意していただきたいと思います。
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