スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 041〜045

04/07/09配信 041号

情緒に基づく注意を育てるには、美しいものに眼をやり、耳を傾ける事を学ばねばならない。そういう習慣は心を高め、情緒的記憶に深い痕跡を残すような感情を喚び起こすのだ。
自然は最高の芸術家なので、まずは自然に対する観察から始めるとよい。野に咲く小さな花だとか、蜘蛛の巣だとか、風が砂に刻んだ文様だとかである。
そして、それらのどこに何を感じるのかを言葉で表現してみるのだ。こういう作業はそれを吟味し、その性質を明確にさせようとする為に、対象に対するより集中した、よりデリケートな注意を要求するのである。


俳優修業では、生まれながらにして『最高度の【情緒に基づく注意】』を持った人間が居る一方で、残念ながら多くの人間はそうでない事に触れています。
そして、俳優にとってはこの要素を伸ばす重要性を説き、その第一歩としてまず自然に対する観察をあげて、続いて絵画・彫刻・文学・詩・音楽等の、人間の創造物に向かうことを奨めています。

この言葉の後には、
それから、自然の暗黒面を避けてはいけない。湿地や、海泥や、害虫の中に、自然の暗黒面を求めたまえ。そしてあたかも好ましさの中に嫌らしさがあるように、こういう現象の陰に隠れて美があることを思い出すのだ。本当に美しいものは、汚れを恐れるいわれはちっとも無いのである。汚れは美を引き立て、ひとしお際立たせることが珍しくない。
美と醜と、両方を探し出し、それをはっきりさせ、それを知り、見ることを学びたまえ。そうでなければ諸君の美の観念は、不完全で、甘ったるく、綺麗事で、センチメンタルだろう。
と続きますが、これは
「劇芸術は常に均衡のとれた力を提示して観客にその意味をさとらせるべきであって、決して押しつけるべきではない」
というK.Sの基本的信条のあらわれであり、また『耽美主義』に反対する彼の主張でもありましょう。


尚、K.Sをして「システムを教えることにかけては、彼は私以上だ」といわしめた彼の愛弟子ワフターンゴフが、
俳優は造形的身体表現(プラースチカ)を学ぶべきだが、それは踊りが出来るようになるとか、美しい所作・美しい姿勢を持てるようになるとかのためではなく、自分の身体に造形感覚を与える(育てる)ためである。
としたうえで、
自然には造形的表現力を持たないものはない。岸に打ち寄せる波、揺れる枝、駆ける馬(どんな駄馬だって)、昼から夜への移り変わり、竜巻、飛んでいる鳥、深閑とした山々、怒濤のごとく落ちる滝、重々しい足取りの象、不格好な河馬 ── みんな造形的表現力を持っている。(中略)
俳優は常に造形的である習慣を、長いことかけて倦まず身につけなくてはならない。
それは後になって、衣装の付け方、声の張り、役の形象に変身する能力(目に見える外面的形式を通して)、筋肉に相応の力を配分する能力、体を自由自在に造形する能力、身振り、声、言い回しの音楽性、感情の論理において無意識的に造形的に自分を表現できるようにするためである。
と、注意以外の要素の観点からも、自然から学ぶべしと述べている事を付け加えておきます。
(引用文献:演劇の革新/ワフターンゴフ/堀江新二訳/群像社)
04/07/20配信 042号

もし俳優が芝居の後で、自分がどのように演じたかだけを思い出すようならば、それは彼が悪しく演じた証拠である。
そうではなく、自分の相手役がどう演じたかを思い出すようならば、彼は良く演じたと云えるだろう。


これもK.Sの教えの中では有名な言葉で、【注意の集中】や【交感】という、俳優の内的装備の個々の要素の見地から、「俳優が芝居の最中に、対象に対して正しい関係を持っていたか否か」を表す教示です。

自分がどのように演じたか、つまり、自分の演技はあれこれのシーンで台詞や仕草が明瞭で表現的だったとか、情緒的なものを感じたとか、あるいはいつもとどう違っていたとかだけしか思い出せないという事は、実は芝居の間中、彼の注意は自分自身にしか向いていなかったという事になります。
それに対して、相手役がどういう表情をしたとか、相手役の台詞にどんな情緒を読みとったとか、相手役の芝居がいつもとどう違っていたとかを思い出せるなら、彼は本当に見ていたし本当に聴いていた、つまり彼の注意は対象にしっかりと向けられていた、と云うわけです。

さてこの言葉、システムについて書かれた本の中ではよく引用されているのですが、中には誤解を受けそうな記述をされているものもあるので、一応それについて触れておきたいと思います。
例えば引用文が、
「俳優が退場の際に、ただ自分が上手く演じたことだけを思い出すようならば、これは彼が悪しく演じた証拠である。これに反して、もし彼が自分はどう演じたか一向に思い出さず、ただ相手役の美しく演じたことだけを思い起こすようであれば、その場合には彼はよく演じたのだ」
というものです。

これは、「上手く」とか「美しく」と云う部分はご愛嬌としても、「自分はどう演じたか一向に思い出さず」と「相手役の美しく演じたことだけを思い起こす」と云う表現が、「自分がどう演じたかを少しでも思い出してしまうのは良くない事」といった強迫観念にまで発展してしまう場合があるのです。
こういった極端な考えは「集中のための集中」や「自己の完全な忘却」への志向といった罠に陥ってしまう事が少なくありません。

04/05/07配信の035号にもあるように、本当に大事なのは生活と演技のバランス・役の人物としての俳優と表現者としての俳優の二重性です。
今回の言葉は先にも触れたように「【注意の集中】や【交感】という個々の要素の見地」からのものなのですが、【パースペクティブ】という要素や俳優の二重性をも考慮した深意は、「自分がどう演じたか」だけではなく「相手役はどう演じたか」という両方を思い出せるということ、つまり注意の圏が正しく機能すると共に本当に多層性を持つこと(大小両方の意味での与えられた環境で多層性を持つこと)が重要だという事になります。
勿論それらが【熱した方法】に従っているべきなのは、云うまでもありません。
04/07/30配信 043号

俳優というものは、観客の前でもくつろぐことが出来なければならない。


K.Sが「演技者の文法」の探求を始めたそもそものきっかけは、俳優が、その職業の持つ特殊な条件性の為に狂わされた「創造的自然の法則(創造活動に於ける有機的自然の本性)」を取り戻すためであることは、以前にも書いた通りです。

自然の本性を狂わせる一番の原因は、いわゆる『緊張』と言うもので、今回の言葉は【緊張の緩和】の重要性を端的に表したものなのですが、ここでいう「くつろぐ」とは「俳優は舞台の上で大勢の観客の目に晒されている時でも、あたかも自分の部屋で一人きりの時のように余計な緊張が無く振る舞える」と言う意味であって、決して(肉体的にも精神的にも)弛緩せよという意味ではありません。

俳優修業では【注意の集中】に続く【筋肉の緩和】という章で、主人公コスチャの訓練中の事故による怪我のエピソードを設けて、肉体的な過度の緊張がもたらす、肉体・情緒の両面に対する悪影響について解説しています。

尚、ここでは
我々のプログラムを、厳密に、システマティックに進行させることを中断して、普通の順序よりは少し先に、我々が『筋肉の解放』と呼んでいるところの、重要な一歩を諸君に説明することが重要である。本来ならば、我々が我々の訓練の外的方面に移ってからこれについて話すべきなのだ。ところがコスチャがああいうことになってしまったので、いま、この問題を論ずることになってしまったのである。
と、訓練の順序を変更した様に記されていますが、実際の稽古場の記録や、その後のK.S派の訓練でも、【筋肉の緩和】はやはりこの初期の段階における重要な訓練の一つとして位置づけられています。

それは、『肉体的緊張』が情緒や心理といった内的技術に対して与える弊害に対処するためで、【筋肉の緩和】から一歩進んだ外面的な肉体訓練に関しては、俳優修業第二部の【動作の柔軟さ】や【表現的な肉体】の項目で論じられています。
04/08/12配信 044号

興奮するところで、余計な緊張をすべて除くという事が不可能であるにしても、絶えず緩和するということを学びたまえ。
それが避けられなかったら、緊張するがいい。だがすぐにコントロールを利かせて、それを取り除くのだ。


『内的緊張』と『外的緊張』の相互関係とそれらを取り除く過程は複雑になるのですが、『肉体的緊張が情緒や心理といった内的技術に対して与える弊害』の問題からも、K.Sはまず訓練の初期段階に於いて、扱いやすい【筋肉の緩和】の習慣化を教示しています。
また『外面的に現れる弊害』についてはリヴォーヴァとシフマトフの、
俳優が観客の注意の矢面に立つと、筋肉の緊張ないし衰弱(別な形での落ち着きや平静さの喪失)が、いろいろな形をとってあらわれる。それは軽薄さとなったり、萎縮となったり、全くの主体性喪失となったりする。経験をつんでいない俳優は、こうした動揺や萎縮を必要もない行動や矢鱈に動き回る事で誤魔化そうとする。
横隔膜と咽頭の緊張のために声は出なくなり、活舌も廻らなくなる。眼は舞台上の出来事をあたかも霧の中でのようにしか見えなくなり、耳は相手役の言う台詞の意味を捉えてはくれない。そしてついには、舞台の上で考えたり感じたり行動したりする能力を失ってしまうのである。(一部構成)
という一文が大変分かりやすいと思います。

尚、本文にはコントロールという言葉が出てきますが、これはシステム用語で【コントローラー(制御)】と呼ばれるもので、俳優修業では

現代の神経質な人間では、この筋肉の緊張は免れがたいものである。それを完全に無くすことは不可能であろうが、しかし我々は絶えずそれと戦わねばならない。
そこで我々の方法は、ある種のコントロールを発達させる、ということになる。それは、いってみれば一人の監視者なのである。
この監視者は、どんなときでも、どこにも余分な緊張が無いように監視していなければならない。この自己監視と、不必要な緊張の除去との過程は、それが潜在意識的な、自動的な習慣となるところまで発達させるべきである。いや、それでもまだ十分とは云えない。それは役の静かな部分だけでなく、殊に、役の感情が高まる劇的な部分・身体的な昂揚の極点で普通の習慣となり、自然な必要とならねばならない。
我々の【コントローラー】は我々の身体組織の一部となり、第二の天性とならなければならないのである。
と解説し、その訓練として「単純な身体的行動における筋肉(エネルギー)の知覚」や「ポーズの正当化」といったエチュードをあげています。
04/08/26配信 045号

或る水先案内人に、長い航海の間、湾曲や浅瀬や暗礁のある海岸の微細なディテイルをどうしたら覚えていたり出来るのかと訊いたところ、彼はこう答えた。
「私はそんなものにかまってはいません。進路を固執するのです」
それと同じように、俳優は沢山のディテイルではなく、標識みたいに自分の進路を示して自分を正しい創造の線から外れないようにしてくれる、重要な単位(目標)を頼りに進まなければならない。


今回の言葉は俳優修業の中の【単位と目標】という項目で教示されているものなのですが、この「単位」の概念、若しくは実際的な使用方法が様々な側面を持つため、局面・場(場面)・断片などとも呼ばれ、システムの中でもかなり議論されてきたものです。
しかしこの【単位と目標】は、【魔法のもし】と並んで実地では大変有力な技術的手段なので、是非とも正しく習得していただきたいと思います。

俳優修業に於いて、【単位】という言葉は二つの意味で使われています。
一つはコスチャが「自分の家に帰る」という行動を分割した例で示されている、「身体的行動の単位」とでも呼ぶようなもので、もう一つはクラスの生徒達がゴーゴリの「検察官」を用いて戯曲の主要な有機的エピソードを探し出した、「戯曲の構成要素の単位」です。


一つ目の方が俳優の基礎技術的な意味合いが強いのに対して、二つ目の方は演出家的意味合いや、役や戯曲の解釈、役作りにおける色合い的な要素が強くなってきたり、そこから取り出される【目標】に関わってくるのですが、実際にはそれらは相互に影響されるので(或る身体的行動の正しい単位分けをする際には、戯曲の構成要素を考慮しないわけにはいかないと言う意味で)、【単位】と言う用語には両方の意味があるとだけ覚えておき、とりあえずわかりやすい「身体的行動の単位」にそって進み、「戯曲の構成要素の単位」については【目標】や【パースペクティブ】とともに考えた方がスムーズにいくかと思います。
実際、「身体的行動の方式」と呼ばれた後期システムの教授法では、この身体的行動の単位分けとその実践、そしてそれらを連続させたり、もっと大きな単位にまとめ上げたりといったことで一貫性を生みだしたり、形象を成長させ、超目標の意味を高めたりしていました。

少し難しい話になってしまいましたが、【単位と目標】の基本的な目的は、役の準備の段階で全体や比較的大きな単位が一度に把握できない場合にはそれを構成する小さな単位に分け、その一つ一つを確実にものにすることによって、やがては全体を把握出来るようにしようと云うことで、これが出来上がった役の再創造の場合には、幾つかの単位が、役が間違った方向に逸れるのを防いでくれる事になる、ということなのです。
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