スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 046〜050

04/09/09配信 046号

大きな断片を中位の大きさに、それから小さく、そしてさらに細かくするのはただ、終いにはその過程を逆にして、また全体を組み立てる為にすぎない。
(いつでも覚えていなければならないのは、分割は方便だということだ。)
役や戯曲はバラバラであってはならない。砕けた彫像や裂けた絵画はその部分がどんなに美しくても、決して芸術作品ではない。
我々が小さな単位を扱うのは、役を準備する時だけだ。それを本当に創造する時には、小さな単位は融合して大きな単位になる。段落が大きくて少ないほど諸君は世話が焼けないし、役全体をこなすのが易しくなるのだ。
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前回から【単位と目標】についての項目に入りましたが、今回の言葉は【単位と目標】を学ぶにあたってもっとも注意すべき点について述べているもので、【単位と目標】の誤った用い方を、レオニードフもこのように述べています。

本来、今回配信の言葉は単位の扱いに対するまとめのようなものなのですが、俳優修業でも注意点として【単位と目標】の項のかなりはじめの方で教示されているので、実際の単位分けの解説より先にとりあげてみました。
尚、この言葉の後は次のように続いています。
もしそれが精一杯に拡げてあれば、俳優はそういう大きな段落を征服するのは易しい。それは戯曲全体を通して数珠繋ぎになり、進路を示すブイの役目をするのである。この進路が創造の大道を指示し、浅瀬や暗礁を避ける事が出来るようになるのだ。

不幸にして、多くの俳優がこの進路無しに済ませている。彼等は戯曲を解剖し、それを分析するという事が出来ないのだ。そのために彼等は、沢山の、皮相な、脈略のないディテイルを捌かなければならない羽目に陥り、それがあまりに多いので混乱し、より大きな全体の意味をすっかり見失ってしまうのである。

そういう俳優を手本にしてはならない。戯曲を必要以上に砕いてはならないし、自分を導くのにディテイルを用いてはならない。徹底的に工夫され、隅々まで充実した、大きな段落で輪郭づけられた進路をつくり出したまえ。
04/09/24配信 047号

戯曲の構造を研究する為にこれを単位に分割するという事は、一つの目的を持っている。
それにはもう一つ、もっとずっと重要な内的理由があるのだ。すべての単位の核心には、創造上の目標が潜んでいるのである。
目標は単位の有機的な部分であるし、また逆に言うと、それはそれを取り囲んでいる単位をつくり出すのである。


前々回の補足説明で、俳優修業では単位という言葉を「身体的行動の単位」と「戯曲の構成要素の単位」という二つの意味で用いていると書きましたが、もう少し詳しい解説をと言うメールを頂きましたので、少し触れてみたいと思います。
「戯曲の構成要素の単位」とは、俳優修業で、
分割の技術は比較的簡単である。諸君はこう自問するのだ。「戯曲の核心 ── それがなくては戯曲が存在しえないものは何か?」それから諸君は、ディテイルへ立ち入ることはしないで、急所を押さえていくのだ。
と書かれ、『検察官』の研究で出てきた、『フレスタコーフ及び都会の素朴な住民』『たわけたロマンティシズムと田舎の蓮葉女』『郵便局長の好奇心とオシップの健全さ』等々を
諸君は戯曲を、その主要なエピソード ── その一番大きな単位に分割した。
と纏めているように、まさしく戯曲を構成している(成立させている)要素、プロット、もしくはそれが形となっているエピソードを指します。
戯曲の中に葛藤があるならば、そこにはぶつかり合ったり絡み合ったりする複数の構成要素が存在するというわけです。

(この「戯曲の構成要素の単位(と目標)」は【究極の超目標】によっても変わってきます。しかしこれはかなり先の話になるので、今は触れないことにします)


しかしそれは、俳優を導く【単位(構成要素という意味でも、そのエピソードが描かれている場面・断片という意味でも)】にしてはまだ大きすぎて漠然としています。
外の枠組みだけは正しく立派でも、そこに詰まっているべき内容がなければなんにもなりません。
そこで単位分けの基本的な目的というのは、まずそれらを扱いやすいような適当な大きさの単位にまで分割していくということで、例えば『郵便局長の好奇心』という単位にしても、彼の好奇心を生みだしているものは何か? また、彼をそのような人物にしたものは何か? 彼は自分を取り巻く様々な人々や出来事に対してどのように感じているのか? そして彼は何を望んでいるのか? 等々の研究から、「大きな単位を構成する、より小さな単位」を明らかにし、先ほどの枠組みの中に十分な内容を蓄えた後に、再び小さな単位を結合して大きな単位に戻していくということになります。 (この作業は文章にすると妙に難解になってしまいますが、正しい稽古の過程ではごく普通に行われることです)

ところで、こういう研究は無くてはならないものなのですが、それだけでは、そしてそのままでは役を演ずるには不向きです。
そういうものだけで役に近づくと、『考える俳優と行動する俳優の分離』を生みやすくなります。
つまり役を演じるのではなく、「私の役はこういうことです」と、役を説明しがちになってしまうのです。
あるいは、いわゆる頭でっかちというヤツで、いろいろ難しい事を言うけれども演らせてみると全然出来ないというタイプです。


そこでこれらの研究から得たものは、それをふまえたうえで、行動に転化することが必要になってきます。
その方法こそが身体的行動の方式であり、その具体的な技術が「身体的行動の単位」に分割するという事になるのです。

#スペースの関係もあるので、目標や身体的行動の単位分けに関しては次回以降で解説したいと思います
04/10/12配信 048号

戯曲にそれと関係ない単位を挿入する事が不可能なように、戯曲に無関係な目標を注入するという事も不可能だ。
なぜならば目標は、一つの論理的な、一貫した流れを形成しなければならないからである。
この直接的な、有機的な絆が与えられるならば、単位について言った事(=分割と再構築化)はすべて、目標にも当てはまるのだ。


今回は前回の続きで「身体的行動の単位」と【目標】について触れたいと思いますが、問題を単純化するために、とりあえず「戯曲の構成要素の単位」は脇に置いておいて下さい。

俳優修業では【単位と目標】を『検察官』や『ブランド』といった戯曲を例にして解説していますが、ここではわかりやすいように03/08/01配信 011号の「あまり馴染みのない部屋で停電になった」という簡単なエクササイズを使って解説したいと思います。

一例としてこのエクササイズを単位分けすると、以下のようになります。
まず、「急に停電になった」という事で「驚き」と「事態を理解しようとする」という1番目の単位があります。
次に、「明かりを確保しようとする」という2番目の単位が続きます。
3番目は、「(もっと情報を得るために、若しくはこの部屋から出るために)ドアに向かう」と言う単位です。
そして、もしドアが開かないならば、「携帯電話で外部との連絡を取ろうとする」という単位が4番目に来ます。
これ以降も展開によって様々な小さな単位に分割されるでしょうが、これらは役の人物の行動を扱いやすい形にしたもので、これが「ある局面をさらに小さく分割した単位」という事になり、役を演じる俳優の立場からすると、「身体的行動のそれぞれの単位」という言葉とほとんど同義語になります。

さて、「ほとんど同義語」というのは、最初の単位だけは他のものと多少趣が異なっているからで、これはある意味複雑で難解です。
というのも「驚き」というのは状態若しくは反応であって、随意的な行動ではないからです。
また「事態を理解しようとする」という行動は、この例の場合には無意識的行動、若しくは本能的な行動だからです。
この不随意的な反応と無意識的な内的行動は、「一瞬、動作が止まる」「真っ暗で何も見えないにも関わらず、天井に眼をやる」「わずかな音を聞き取ろうとしたり、何らかの気配を感じ取ろうとする」等といった形で身体的に反映され、それは結果として「驚き」を伴った、この場に則した芝居になるのです。
しかしそれ自体はほとんど潜在意識的な行動なので、元々それがないところに意識的にそれを取り入れようとするならば、多くの場合には無理が生じるということになります。
(その芝居が出来ない人に、監督や演出家が「そこで一瞬止まれ」とか「気配を探れ」等という指示を出しても、それに本人の潜在意識が呼応しなければ大抵上手くいかないということです)

そういう意味でこの最初の単位は他と違うのですが、しかし実はこれ、あまり難しく考える必要はありません。
「ある意味複雑で難解」といったのは、別の意味では単純明快でごく当たり前の事だからです。
つまり潜在意識的な活動を意識でコントロールしようとするから無理が生じるのであって、潜在意識的活動に身を任せることが出来れば、すべてはノーマルに働き出すのが普通なのです。
11号の解説でも書きましたが、【もし】と【与えられた環境】が、それを助けてくれるでしょう。


少し話が逸れましたが、二番目以降の単位についてはほとんどが意識的な身体的行動となるので、最初のものと比べるとかなり簡単です。
『事態を理解し、対処したい』という最初の目標が、具体的な形として『そのためにまず明かりを確保したい』という目標に変化し、それは「ライターや携帯電話を取り出す」という2つ目の単位となります。
それがかなった時点で『もっと情報を得たい(別の場合には、この部屋から脱出したい)』という次の目標が「わずかな明かりの中を、手探りでドアに向かう」という身体的行動として3つ目の単位を構成し、ドアが閉まっていて出られないことが分かると、『とにかく情報を得たい(若しくは助けを呼びたい)』という目標が「電話をかける」という次の単位を生み出すというわけです。

これらは今回配信の言葉のように『一つの論理的な、一貫した流れ』であり、また『すべての単位の核心には、創造上の目標が潜んでいるのである。目標は単位の有機的な部分であるし、また逆に言うと、それはそれを取り囲んでいる単位をつくり出すのである』という、【単位】と【目標】の関係を表す前回の言葉も理解しやすいと思います。
04/10/26配信 049号

君は君の目標の意味を、名詞で言い表そうとしてはならない。名詞は単位に対しては用いることが出来るけれども、目標にはいつでも動詞を用いなければならないのである。
名詞は、精神状態や、形態や、現象の知的な概念を呼び出しはするけれども、しかし単に形象によって表されるものを限定することが出来るだけで、行動を指示するという事はないからだ。
目標はすべて、行動の種子を含んでいなければならない
のである。


今回は【目標】についての言葉で、この【目標】(むしろ「目標を見つけだす過程」と言う方が正しいのかも知れませんが、これには後日触れたいと思います)というものは、システムで云う「精神技術を操る上での基本的作業」としては大変重要かつ有効なものとなります。
今回の言葉は目標について教示されているものの中でも後半で出て来るものなのですが、【目標】にとってはここが急所ということで、一番最初に取り上げてみたいと思います。
以前、「すべての単位の核心には、創造上の目標が潜んでいる」という言葉をとりあげ、また単位という言葉には「身体的行動の単位」と「戯曲の構成要素の単位」という二つの意味が有ると書きましたが、【目標】は両方の意味の単位を感覚的にも結びつけ、それを生き生きとした形で表現することに繋がっていくのです。

俳優修業では「ブランドとアグネス(ブランドの妻)の論争シーン」を題材にして、目標を名詞と動詞のそれぞれで表すくだりが出てきます。
この名詞で表す場合の失敗例が大変分かりやすいので、今回配信の言葉も含めてすこし引用してみましょう。
まず生徒達は戯曲『ブランド』を幾つかの断片に分割し、そこから【目標】を引き出す作業(目標に名前をつける作業)に入ります。
そして生徒のつけた『母性愛』『狂信家の義務』という2つの名前に対して、教師は
「君は目標ではなく、単位に名前をつけようとしている。この2つはまったく別物だ。第二に、君は目標の意味を名詞で言い表そうとしてはならない。名詞は単位に対しては用いることが出来るけれども、目標にはいつでも動詞を用いなければならない」
と注意を与え、次のように続きます。
「諸君が答えを見つけるのを助けてあげよう。しかしまず、いま名詞で言われた内容、『母性愛』と『狂信家の義務』とを実行してみたまえ」
ワーニャとソーニャとがそれをやってみた。ワーニャは両目を飛び出させ、背骨をかたく強張らせて、怒ったような表情をして見せた。彼は踵を踏みつけて、ずしりずしりと通り過ぎた。渋い声でものを云い、義務の表現として意力や決断の印象を与えるつもりで激昂したのである。ソーニャは、"漠然"と、優しさや愛情を表現するために、ワーニャとは反対の方向に力を入れた。

それらを見てから演出家は言った。「どうだね、諸君が目標の名前として用いた「名詞」は、諸君に、強い男の映像や、母性愛という一つの愛情のイメージを演じさせる傾向があるという事がわからないだろうか? 諸君は力や愛がどんなものであるか(どんな形をとることがあるか)という事は見せるけれども、自分が力や愛なのではない。(自分自身の中に、戯曲が要求するそれらがあるわけではない)
それというのも、名詞は、精神状態や、形態や、現象の知的な概念を呼び出しはするけれども、しかし単に形象によって表されるものを限定することが出来るだけで、行動を指示するという事はないからだ。目標はすべて、行動の種子を含んでいなければならないのである」
つまり名詞で表した目標は「イメージを説明する」事になりやすいのです。 そしてそれは、「アマチュアじみたゴム判の演技」と呼ばれる、混沌としたイメージの中からふと目立ったものだけが取ってこられたような、漠然とした、戯曲や役の人物の行動とは関係のない、ある種の印象だけを切り貼りしたようなものとなりやすいのです。
04/11/11配信 050号

多くの俳優が犯す過失は、彼等が、かくあるべく結果に導く行動の事を考える代わりに、結果の事を考えるという事だ。
行動を避けていきなり結果を狙うと、諸君は臭い芝居にしかならないような空々しいものをこしらえてしまう。
強いて結果を求めるという事は避けるようにしたまえ。
真実と、充実と、目標の完全さとを忘れずに行動することだ。諸君は生き生きとした目標を選ぶことによって、こういうタイプの行動を展開しうるのである。


いままでに述べてきた【身体的行動の単位】と【目標】について、もう少し分かりやすいように図にしてみましょう。

「あまり馴染みのない部屋で停電になった」というエクササイズを例に取ると、こんな感じになります。

各矢印は、
1.ライターを取り出し火をつける
2.ドアに向かう
3.携帯電話で外部と連絡を取る
という、小さな身体的行動の単位を示し、同時に
1.「明かりを確保したい」
2.「室外の情報を得たい」若しくは「この部屋から出たい」
3.「(上記2を達成するために)外部と連絡を取りたい」
という目標を表しています。

これらの単位は、更に細かく分割することもできます。例えば「ライターを取り出し火をつける」のに、ズボンのポケットを探り、上着のポケットを探り、シャツの胸ポケットを探り、やっと見つけだしたライターの蓋を開け、石をすり、ついた火が風で消えないように注意しながら動かして…等々ですが、これらのディテイルにどこまで踏み込むか(踏み込まねばならないか、若しくは踏み込むとやりすぎになるか)はエクササイズの目的やテキストの設定によって変わってきます。
例えばエクササイズの目的がスタンプ芝居の排除であったり漠然と行うことの矯正である場合、あるいはテキストの設定で、その人物が手錠をはめられたような状態で各々のポケットを探すのに格別の努力をしなければならないようなシチュエーションの場合等ではかなり細かいディテイルにまで入り込むことがあります。
しかしこれも必要以上に細部にこだわりすぎると「リアリズムのためのリアリズム(糞リアリズム)」となるので、訓練の段階から注意しなくてはなりません。



さて、これらがもう少し大きな単位に結合(若しくは吸収)されると、次のようなイメージになります。

先ほどより少し大きな単位「A」は「或る人間が、あまり馴染みのない部屋で停電になった時にとる行動」を表していて、その中には1〜3という具体的な行動の単位が含まれているという訳です。
先程も述べたように、単位というのは分けようと思えばいくらでも細かく分割されるものです。
しかしそれではきりがないし弊害も多いので、以降は上の図を基本図として進めていきたいと思います。
つまりこれは「具体的な幾つかの身体的行動から成り立っている、扱いやすい単位」という事になります。

さて、今回配信の言葉の解説は、この基本図を使うと分かりやすいでしょう。
「A」という芝居を演じなさいといった場合、多くの人は(中の小さな単位1〜3の事をないがしろにしたまま)いきなり「A」という単位全体を表現しようとしたり、矢印の行き着く先を表現しようとします。
しかし、それらはいずれも直接結果を表現しようとするものなので、生きた内容のない、上っ面だけの説明になってしまうのです。
そうではなく、1〜3という具体的な行動を遂行する事で「A」というより大きな行動(単位)を形成し、その帰結として矢印の行き着く先に到達しなければならないのです。
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