Legacy of Stanislavski Laboratory

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−[カ]−

【K.S(カーエス)】

スタニスラフスキーの弟子達は、尊敬と親愛の念を込めてスタニスラフスキーをK.Sと呼んでいたそうです。(スタニスラフスキーは芸名。本名はコンスタンチン・セルゲービッチ・アレクセーエフ Konstantin  Sergeevich Alekseyev (Stanislavski)[1863〜1938] )
#実際にはロシア語なので、アルファベットの表記とは異なります。

【貫通行動線】

貫通線、とぎれぬ線などとも呼ばれます。
システムでは【行動】という言葉が深い意味を持ちますが、【身体的行動】の貫通行動線は【身体的行動の連続線】とか【人間身体の生活の線】とも呼ばれ、内的行動の貫通行動線は【ポドテキストのとぎれぬ線】などと呼ばれる事もあります。
いずれの場合も、「個々の役に於いて、若しくは芸術家として、戯曲全体を貫く(内的及び外的な)行動の線」という意味です。
俳優修業では、
俳優が【内的原動力】によって仕事を始めたとき、彼の思想や欲望や情緒の流れが現れたり消えたりすることは驚くには当たらない。もしも我々がそのコースを図で示すのだとすると、それはばらばらで、とぎれとぎれだろう。線が段々に連続した全体になってくるのは、彼が役のより深い理解と、その基本的な目標の自覚とに到達する時だけである。
と、【貫通行動線】が基本的な目標(=超目標)に向かうことを示唆し、創造過程に於ける三つの重要な眼目として【内的把握(大いなる内的能動性)】【貫通行動線】【超目標】をあげています。
尚、何故とぎれぬ線が必用かを音楽や舞踊といった他の芸術を例に説明すると共に、演技に於いては
舞台では、もしも内部の線がとぎれると、俳優はもう言われたりされたりしていることを理解しなくなり、何の欲望も情緒も持たなくなる。彼の演技は機械的なものにとって代わられる。生活は止まってしまい、それが復活すると生活は進行するのだ。しかし、そんな発作的な死滅と復活はノーマルなものではない。役は持続的な存在と、そのとぎれぬ線とを持たねばならないのである。
と解説しています。
更に、
とぎれぬ線とは、ある対象に対する執着ではない。それは、変化する対象へのとぎれぬ連鎖を意味するのである。もしも俳優が一幕全体なり戯曲全体なりの間中たった一つの対象に固執したりすれば、彼は精神的にバランスを失い、固定観念の犠牲になってしまうだろう。
と、【貫通行動線】を形成するものはあくまでも個々の誠実な行動であることを強調しています。


−[キ]−

【機械的演技】

この【機械的演技】の定義はかなり広いのですが、[役の本質や類似した感情を伴わず、月並みな説明で(若しくは、たとえそれが工夫されたものであったとしても、純然たる外的技巧だけで)表現しようとする方法]というのが、最大公約数でしょうか。
K.Sは【機械的演技】と【再現の芸術】との違いを、
再現派の俳優は、少なくとも一度は自分自身で役を感じているが機械的演技はその経験すらもない。
感情を再現するには、その外的表現方法を自分自身が経験した材料から選択し、使用しなければならないが、機械的な俳優は感情を経験していないのだから、その外的結果を再現する事など出来ないのである。
と述べると共に、機械的演技について、
機械的演技では、生きる過程への呼びかけというものはなくて、(もしそれが現れるならば)それはただ偶然生まれるだけだ。
その代わりそこには、外的手段を用いて、あらゆる種類の感情や情緒を描くみたいに見せかける為の、多種多様な技巧が工夫されている。
機械的な俳優は、既製の紋切型や才能ある俳優の演技の外的模倣をするのだ。
そういう紋切型の或るものは伝統になっていて、子々孫々継承されている。
例えば、愛情を表現するには手を拡げて心臓の上に当てるとか、死の観念を与える為に口を大きく開くとかだ。
また或るものは、その時代の才能の有るある俳優から、そっくり取ってこられる。
コミサルジェフスカヤが悲劇的な瞬間にするのが常であった、額を手の甲で擦るような仕草などである。
更に或るものは、俳優が自分で考案するのだ。

またそこには、役を暗誦する特別なやり方があり、言い回しや物言いの多くの方法がある。
例えば役の人物が危機を迎えるシーンでの、特別に芝居染みたトレモロや、特別に雄弁がかった声の修飾をつけた、ことさら高かったり低かったりする調子である。

そこにはまた、身体の運動やポーズ・身振りや仕草・美しく見せるための柔軟な動き等の、多くの方法もある。
機械的な俳優は歩かない。彼らは舞台上を、ただ移動するのである。

そこには人間の、あらゆる感情や情熱を表現するための多くの方法がある。
妬ましい時には歯を向いて、白目をクルクルさせるとか、泣く代わりに両手で眼や顔を覆うとか、絶望すると髪の毛を掻きむしるとかだ。

そこには、人間のあらゆる種類のタイプや、社会の雑多な階級の真似をする、多くのやり方がある。
農民は床に唾を吐き、上着の裾で鼻を擦るとか、軍人は拍車を鳴らすとか、貴族は柄付眼鏡をいじくり気取った口調でものを云うとかだ。

或るものはまた、時代を特徴づける。
オペラ風の身振りは中世、気取った小刻みの歩調は十八世紀、等である。

こういった出来合いの機械的な方法は、絶えず練習するとわけなく身に付くので、第二の天性となるのだ。
と、幾つもの例題をあげて解説しています。

(ただし『表現のための外的材料の探求』を、K.Sは決して否定してはいません。
むしろ、のちの芸術座の多くの俳優達の「形式・様式に対する関心の無さ」を嘆いているほどです。
また、この『探求』と、その『生活から取った、生きた材料』の活用に関しては、俳優修業第二部の【性格描写】について書かれた数章でも詳細に論じられています)



尚、上記の解説の中で『俳優が自分で考案する』と云う部分には、『探求の成果をそのまま模倣する』と云う意味以外にも、既成の紋切型や他人の演技の外的模倣などから、ある部分(パーツ)を拝借し、それらを組み合わせて手を加え、見栄えの良い一つの演技にまとめ上げると云う意味も含まれます。
例えば、愛情を表現するのに[手を拡げて心臓の上に当てる]というパーツと[何か言おうと口を開きかけるが、笑みを浮かべ小さくかぶりを振る]というパーツを組み合わせる。
さらに[上目使いに相手を見つめ、ため息をつく]というパーツを組み合わせ、全体の調子やタイミングを整える、という感じです。


いずれにしろ、機械的な俳優が、表情の変化や物言いの技術、身振りや仕草の助けを借りて観客に差し出すのは、存在しもしない感情や心理的状態の、模造品以外の何物でもありません。
それは[驚き]や[疑問]という感情や心理的状態を表現する為に[!]マークや[?]マークのゴム判を、色を付けたりデザインを替えて効果的になるように工夫して、押しているようなものなのです。

そして俳優修業では、
俳優は舞台のコンベンション(因習・約束事・演技の型)の選択にかけてはどんなに熟練していようとも、コンベンション固有の機械的な性質のために、コンベンションそのもので観客を感動させると云うことは出来ないのである。
そこで機械的俳優は、我々が『芝居染みた情緒』と呼ぶものを頼りとする。
これは身体的感情表現の、人為的模倣なのだ。
もしも諸君が、拳を握って五体の筋肉をこわばらせるとか、痙攣的な呼吸をするならば、諸君は異常な身体的激昂の様子になることが出来る。
これがしばしば、情熱にはやる勇猛な気性の表現と考えられるのである。
より神経質なタイプの俳優は、神経を人為的に締め付けることでもって、芝居じみた情緒を掻き立てることが出来るものだ。
これは芝居染みたヒステリー、不健全なエクスタシーを作り出すのであって、それは人為的な身体的興奮と同じように、内容を欠くのが普通である。
と、締めくくっています。
つまり【機械的演技】は、本来そこに存在するはずの内的経験や内的能動性等が無いままに、その外面的な表現形式だけが観客に差し出されるのです。


−[ク]−

【グロテスク】

「感情の真実が無ければ演劇的表現力もあり得ない。しかし『感情の真実』自体がそれに不可欠な表現形式を生みだしてくれるわけではない」
として、役に、戯曲に、場面に、塑像性・彫像性といった演劇的に鋭い表現形式を追求したワフターンゴフは、
グロテスクというのは、俳優や演出者が戯曲の生き生きとした濃密な内容を内面的に正当化出来るようにする方法なのだ。それは僕がいつも言うように、内容を演劇的に提示するための最高の形式であり、もっとも適切な形式なのだ。演出者にとってそれは形式と内容を求める創造的な探求の達成にほかならない。
と、彼の提唱する【空想的リアリズム】が究極にまで発展した場合にそれを具現化する最適な形式、場合によっては戯画的にまで強調される『通常の性格描写を超越した性格描写』、究極の表現形式として定義しています。

これに対してK.Sは基本的にワフターンゴフの考えを肯定しながらも、
グロテスクの本当の意味は、実に大きな内面的な課題に対して、生き生きとして大胆な外面的正当化を行うことであり、潜在意識からあふれ出た、巨大な創造的エネルギーの表現でなければならない。
内的に、その巨大な創造的エネルギーを正当化させていなければ、それは中身のないパイであり、ワインの入っていない瓶であり、魂のない肉体である。
グロテスクというのは熟練した、すぐれた能力のある俳優だけが到達できる希有なものであり、また無差別にどんな戯曲にも適応しうる様式ではない。
と、当時の演劇界で注目を浴びていたグロテスクという概念にある種の警鐘を鳴らしてもいます。


◆この項の引用文献
演劇の革新/ワフターンゴフ/堀江新二訳/群像社
ワフターンゴフの演出演技創造/ゴルチャコーフ著/高山図南雄訳編/青雲書房
スタニスラフスキー伝 1863−1938/ジーン・ベネディティ著/高山図南雄・高橋英子訳/晶文社


−[ケ]−

【芸術の利用】

便宜的に分類した演技の流派(演じ方・手法)の中で、最悪なものとして解説されているのがこの【芸術の利用】です。
K.Sは、俳優修業はもちろんのこと、あらゆる機会に
最悪のものは【芸術の利用】である。
これをする者は観客にいちゃつき、役を借りて自分自身の顔やプロポーション、優雅な身のこなし、あるいは美しい声や物言いの技術、感情表現の技術などを異性の崇拝者や彼の知人などに見せつけるのである。
そこには役の人物の主要目的や戯曲全体のテーマも思想もなく、集団的上演は彼の私物と化す。
彼は芝居全体をぶち壊し、共演者をはじめ全ての関係者を裏切るのである。
これは俳優から一掃しなければならぬものであり、もしそれが出来ぬなら、彼は劇場から追放されねばならない。
と、厳しく戒めています。
これは所謂スターシステムの弊害ばかりでなく、大なり小なりどんなところにでもあって、上演に禍根を残す、まさしく一掃しなければならぬものでしょう。



−[コ]−

【交感】

「相互作用」「相互影響」とも呼ばれる、俳優が演技をしている最中の、感情・心理・意志等の、他者との相互的な交わりを指す重要な要素。
これが上手くいかないと芝居は段取りとなり、生きた生活ではなく機械的に役の抜け殻をさらす事になってしまいます。
尚、一般的な上演では、俳優間での交感と観客との交感は異なる種類のものとされています。

◆07/09/28配信 112号 等

【ゴム判】

【ゴム判】は、多くの人が一般的に理解できるような記号を使って感情や心理を表そうとするもので、初心者が一番陥りやすい演技(及び演じ方)です。
(それで演じたつもりになってしまうと云う事が、上達を妨げる怖いところなのです)

それは、[?]マークを付けて疑問を表現しようとしたり、[!]マークを付けて驚きや感嘆を表現しようとする様なもので、文章ならそれは無いより有る方が分かりやすいでしょうが、それでは大まかな方向性は示せても、役の微妙な陰影は表現できません。
ネット上で使われる顔文字を例にすれば、いくつか種類の有る『笑う』と云う意味の顔文字だけでは、人間の様々な笑いの状態や感情を表現できないのと同じ事なのです。

俳優修業では、
舞台には更に悪いものがある。再現派や機械的演技も手間をかけなければ物にならない。
しかし、なかには全く技術の形跡がない、極めてアマチュア染みた『やりすぎのゴム判』で以て、ある性格の誇張した物真似をする俳優がいるものだ。
機械的演技でさえも技術なしにはやれないのだ。

彼は、ただ外面的にだけなら模写することもできるような、完全な生きたイメージさえも持ってはいない。
彼にはどうすることが残されているだろう?
たまたま彼の心に閃いた最初の特徴を捕まえる事だ。
人間の心は、生活でのどんな場合にも間に合うような、そういうものが一杯につまっている。
あらゆる印象が何かの形で我々の記憶に残っていて、何時でも出番を待っているのである。

そういった慌ただしい、漠然とした描写では、彼は彼の伝えるものが役の本質に一致するかどうかは余り注意しない。
彼はたまたま心にうかんだ特徴だのイリュージョンだので満足する。

イメージを表現する為に、日常の習慣が長い間の慣用の御陰で誰にでも分かるようになっている符号だの外的記号だのを作り出しているのである。
と、【ゴム判】とその成り立ちを説明し、
君は「黒人一般」の外観に誘惑されて、シェイクスピアの書いたことなどそっちのけにして急いでそれを表現しようとした。
君は、君にとって効果的で、生き生きとしていて、表現し易く思われるような外的性格描写をいきなり手にいれようとしたのだ。
それは、俳優が生活から取った生きた材料を正しく利用する事ができない場合には、何時でも起こる事なのである。
そしてそれは、原因や、由来や、人間が感情を経験した環境とは全く関係なく使われるのである。
と、或る生徒の『オセロウ』の演技の失敗を解説しています。
そして、
機械的演技が、本当の感情の代わりに工夫した記号を使うのに対し、ゴム判は手当たり次第の、漠然とした人間のコンベンションを取り上げて、それを舞台のために鋭くしたり整えたりもしないで使うのである。
と機械的演技とゴム判の差を端的に解説した上で、
そして注意すべきことは、アマチュア染みたやり過ぎというものは、それが度々繰り返されることによって最悪の機械的演技に成長してしまうということである。
と、ゴム判がこびりついてしまう事への戒めを教示しています。


【コントローラー】

この言葉も、内的・外的両方の意味で使われます。
外的には筋肉のよけいな運動や萎縮、あるいはスムーズでない動作の柔軟さを、内的には感情や心理に影響を与える障害を『自動的に見つけ出し修正する能力』のことを指します。
あるいはもう少し大きな意味で、【内部及び外部の創造的状態】を正しく保つ(まさしくコントロールする)能力として使われる場合もあります。

◆関連バックナンバー: 04/07/30配信 043号 等

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