スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 071〜075

05/10/07配信 071号

嘘を探すのは、それが真実を見つけるのを助ける限りの事にしたまえ。
揚げ足取りの批評家というものは、批評の的にされた俳優が知らず知らずのうちに正しいコースから外れ、真実自体をそれが虚偽になるところまで誇張するために、誰よりも舞台の嘘を作り出すものだという事を忘れてはならない。
(諸君が養うべきものは、芸術家の無二の親友である、健全で、冷静で、賢明な、物わかりのよい批評家なのだ。そういう批評家は些細なことをこやかましくは言わないで、諸君の仕事の実質に目を光らせるだろう。
他人の創造活動を監視するについて、もう一つ忠告がある。真実の感覚を働かせるのは、何よりもまず美点を探すことから始めるべきである)

他人の仕事を研究するには自分を鏡の役割に止め、自分の見たり聞いたりしたことを信ずるかどうかを正直に語り、とりわけ自分にとって一番納得がいった瞬間を指摘すべきなのだ。
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少し背景を書きましょう。
俳優修業の中で、学生達は真実の感覚の訓練のために、日常生活でも演技でも、互いの行動の嘘をチェックする事を始めました。
しかし彼らは【真実の感覚】の正しい意味と使い方が分からないので、たちまち混乱してしまいます。
そこに現れた教師は彼らをただ歩かせ、そこに「そんな風に歩く人があると思うかね?」「もっとかかとを内に入れて、つま先を外へ向けて!」「なぜ膝を折らない? なぜもっと尻を振らないのだ?」「注意を払って、重心をとって!」「君たちは歩き方を知らないのか? なぜよろよろするのだ? 行く手に目をやって!」等と指示を出し、彼らが何も出来ず立ち往生してしまう状況を作り出します。

こうして生徒達に、彼らが行っていたことをあらためて体験させた後、
もう君たちには納得出来たかね。こやかましい批評家というものは俳優を発狂させ、収拾のつかない状態に陥れることが出来るものだということが?
と、この状況を説明し、今回配信の言葉に続きます。

外面的で写実主義的な『リアルさ』は目に見える分だけ誰にでもわかりやすいのですが、そこに落とし穴もあります。
もちろんそういったものを求められる場合はありますが、もっと大事なのは『俳優が創造の瞬間に利用するリアリティ』であり、それは個々の行動における【真実の感覚】の本質です。
つまり、本文では「些細なことをこやかましくは言わないで、諸君の仕事の実質に目を光らせるだろう」と書かれているように、本質的なものと本質的でないものを見分けることの出来る能力が必要な訳です。

アマチュアの演劇サークルや小劇団などでは、上手くいかない俳優に四方八方からお節介としか思えない余計な『アドバイス』が飛び交い、その俳優は混乱してさらに結果が悪くなるという事がよくあります。
多くの場合、これは『アドバイス』する側の能力不足なのですが、そういう組織を率いる立場の人は、この有害なアドバイスの嵐に十分注意してください。
05/10/27配信 072号

そんな事をみんな一遍にやろうとしてはいけない。
少しずつ、小さな真実を頼りにして進むのだ。
君たちの行動を、出来るだけ単純な身体的基礎の上にうち立てたまえ。


俳優修業では前回のエピソードの後、次のエクササイズが始まるのですが、ここにはシステムの根本の幾つかがさりげなく記されていますので、今回配信分も含めて少し引用してみましょう。
「理論はもう沢山だ」、今日、課業を始めると演出家は言った。「少しそれを実行に移してみよう」そう言うと彼は、僕とワーニャとに舞台に上がって、あの紙幣を燃やす練習をやるように言った。
「君たちは、第一に、私がプロットに入れた恐ろしいことをみんな信じようと気をもんでいるために、この練習が掴めないのである。そんな事をみんな一遍にやろうとしてはいけない。少しずつ、小さな真実を頼りにして進むのだ。君たちの行動を、出来るだけ単純な身体的基礎の上にうち立てたまえ。(後略)」
K.Sは俳優座の指導者的俳優や演出家達との対談の際にも、
もしあなた方がめいめい私の言葉を書きとめるなら、ただ理論だけが後に残るでしょう。理論 ―― これではまだ不十分です。そうではなく、実際に取りかかって、具体的にエチュードで「ほら、いいかね、これは重要だ、これは重要でない、これは役に立たない」ということが出来なければならないのです。
演出家自身が俳優の仕事(=俳優の創造過程)をやってみることが必要です。(中略)
実際の稽古においてのみ、我々の仕事について論じることも可能なのです。
と念押ししているように、【システム】を演技の理論として獲得しようという行為を危惧していました。
【システム】は『創造的自然の本性の法則』を体系化したものであって、本来誰しもが多かれ少なかれ持っている『創造的自然』が狂わされた場合に、若しくは狂わされないようにするためにのみ有効なのです。
つまり、理論として何を知っているかではなく実地でどう働くか、何を言うかではなく何が出来るかが重要なわけで、ここではくだけた言い方で「理論はもう沢山だ、少しそれを実行に移してみよう」と言っていますが、俳優修業の終わりの方に出てくる、
【システム】は参考書であって、哲学ではない。哲学の始まるところで【システム】は終わるのである。
と同じ意味の、当たり前ですが重要な教示です。


次に『小さな真実』ですが、これもシステムの中で重要な単語です。
しかしスペースの関係と、これは次回以降にも関係する事柄なので、次回以降の解説に譲って今回は割愛させていただきます。

さて、最後の行ですが、
「君たちの行動を、出来るだけ単純な身体的基礎の上にうち立てたまえ。」

「君たちの演技を、出来るだけ単純な身体的行動の上にうち立てたまえ。」
と読み替えれば分かりやすいかと思います。

これは、K.Sが「あなたのシステムとはどういうものか?」との問いに「私のシステムは『身体的行動の方式』です」と答えている、まさしくそのものでありましょう。

俳優が感情に直接近づいたりコントロールすることが難しいならば、間接的な方法でもって解決しようという観点から様々な内的準備の方法が検証され、単純で誠実な身体的行動を『感情をおびき出す餌』として使う方法が、間違いも少なく取っつきやすいやり方として確立してきました。

これはもう少し詳細を言えば、「【与えられた環境】と【魔法のもし】による鮮やかな前提状況、能動的かつ魅力的な【目標】、力強い【貫通行動線】等々で満たされた『正しい【創造的状態】』の中で、【行動の論理(ロジック)】に従いましょう。そうすれば【感情の論理(ロジック)】もそれに続くでしょう」というものです。

以前、システムでは行動という言葉が重要な意味を持つと、また、紋切り型や機械的演技のような「フリ」をするのではなく、役の人物として本当に行動することが大事だと書きました。
ここでそれをもう一歩進めると、行動はそれ自体が重要なのではなく、それが感情をおびき出す餌(囮)として機能することが重要なのだということになります。
そして、『身体的行動の方式』の意味というのは、そういう事なのです。
05/11/11配信 073号

「ペンを握るときには、指と指の間にそれだけの空間が無くてはならないのですか?」
それはきわめて取るに足らない事です。従って、それは役を演ずる事ではありません。
あなたが自分自身の体で感ずるなら、この空間が無くても真実の感覚はより正しいものとなるでしょう。
このエチュードを極限まで誠実に、一刻一刻の自分の行動と感覚を信じられるように、繰り返しやってごらんなさい。一つの瞬間(モメント)から次の瞬間(モメント)へ、信じ、信じ、また信ずるのです」


俳優修業では前回の教示の後、一般的に無対象芝居と呼ばれているエクササイズに入ります。
これは実際の小道具を用いず、それらを想像力で補って演技をするもので、もう少し専門的には『想像の対象を用いた演技』とか『身体的行動の記憶についての実習』と呼ばれます。

実生活において、我々は様々な行動の細部をほとんど意識していないでしょう。
それは日常生活の多くの部分が習慣的に行われているためで、対象を無くし、それを想像力で補うことによってそれらの行動の細部を思い出し、結果としてその小さな真実を感じられるようにする、というのがこの訓練の主眼です。
(想像の対象で上手くいかない場合は実物を用いてやってみて、また想像の対象に戻して訓練するということもあります)
またこの訓練は、注意の集中の訓練、観察力の訓練、実在しない対象・経験したことのない要素を含む対象や前提条件の場合には想像力の訓練にもなります。

今回配信の言葉は『K.Sと俳優座の俳優・演出家達との談話』の一齣で、『想像のペンと想像の紙で手紙を書く』というエチュードの中で、「ペンを握るときには、指と指の間にそれだけの空間が無くてはならないのですか?」という質問と、それに対するK.Sの答えです。

『元々無いものをいかにも有るように見せる』事は、ある種のパントマイムや、芝居でもある特別な上演形式の場合に要求される事はありますが、この訓練の場合には重要ではありません。
(もちろん結果としてそう見えたならば、それはそれで良いことではあるのでしょうが)
この訓練で重要なのは、形態模写的な手紙を書く人間の状態の描写ではなく、ある前提状況の中で手紙を書く人間の様々な小さな真実を俳優が感じられるかということなのです。

前々回の「些細なことをこやかましくは言わないで、諸君の仕事の実質に目を光らせるだろう」というのもそういうことで、この場合には「ペンを握るときの指と指の間の空間」が「些細なこと」であり、「役を演ずる事(=ある前提状況の中で、役の人物としてのある目的を持って手紙を書くという、誠実な行動)」が「諸君の仕事の実質」ということになります。

尚、最後の「信じ、信じ、また信ずるのです」ですが、これはK.S独特の強調した言い回しですので、よほど劇的で特殊な前提条件の場合以外はもう少し気楽に、「一連の行動が、内的にも外的にも違和感なくノーマル(自然)に流れるように」程度に捉えて下さい。
05/11/28配信 074号

「それで、君は小さな行為をみんな細かにやって、その全てを隣室に行くという、一つの大きな行動に纏め上げられたわけだ」と演出家は言った。
次には居間に戻る僕の演技が無数の訂正を受けたが、これは僕に単純さが無く、小さな事を残らず並び立てる傾向があったためだ。そういう過度の強調もまた虚偽なのだ。


前回も少し触れましたが、俳優修業では戯曲『ブランド』から抜粋された、古びた紙幣を数えるという無対象芝居のエクササイズに入ります。

教師は先ず、「もし実生活でそういう行為をするならば、我々はどのようにそれを扱うだろうか」という『身体的行動の記憶』を思い起こさせ、個々の一番小さい『正しい身体的行動』を導き出して、
それで、我々の身体的自然に、君が舞台でしている事の真実を納得させるためには、どの程度のリアリスティックなディテイルにまで行かなければならないかという事が判るだろう?
と、『小さな真実』とそこから生まれる『正しい身体的行動』の関係を指導します。
次いでそれらを結合させ、纏め上げて、『(正しい)身体的行動の連続線』を作り出す事に成功します。
このエクササイズで体験した事を学生は、
僕は、あるつもりの紙幣を数えているうちに、それを実生活でやるときの、正確な方法と順序とを思い出した。すると演出家が僕に暗示してくれた論理的なディテイルの全てが、紙幣のつもりで扱っている虚空に対する、全く違った態度を僕にとらせるのであった。空に指を動かすのと、はっきりと心の眼に映じた、汚らしい皺だらけの紙幣を取り扱うのとは全く別物である。
僕が自分の身体的行動の真実を納得した瞬間、僕は舞台で完全に楽な気がした。
すると今度は、僕はちょっとした付け足しの即興が起こるのに気づいたのである。僕は紐を注意深く巻いて、それをテーブルの上の紙幣の山の傍に置いた。そんなちょっとした事が僕を力づけて、それからそれへと、いろんな事をやるようにさせたのである。(後略)
と述べ、教師は
それが我々の、完全に、十分に正当化された身体的行動というところのものである。それが芸術家の、完全に有機的信頼をおきうるものなのだ。
と教示します。
(このあと、架空の対象と身体的・有機的という言葉に対して一悶着あるのですが、あまり重要ではない事と、K.Sの見解は俳優修業に書かれているので、ここでは省略します)


続いて学生達は、もう少し難しいエクササイズに入ります。
難しいというのは、一つめに『身体的行動の連続線』が量的に多い(長い)という事、二つめは、前提状況(与えられた環境)の輪郭がより詳細に求められる事、三つ目が、ストーリー展開が徐々に劇的になり、それに伴って身体的行動や感情にも変化が現れる事(質的な難易度が高くなる事)、等なのですが、とりあえず学生達はそれにチャレンジし、いくつものダメ出しと指導を受けながら、ある程度のところまでは成功を収めます。

それに対する演出家の評価が「それで、君は小さな行為をみんな細かにやって、その全てを隣室に行くという、一つの大きな行動に纏め上げられたわけだ」という今回配信の言葉です。
ここで大事なのは、小さな行為(=行動)というのはそれを含むもう少し大きな行動の中に吸収され、そのもう少し大きな行動に統合されてその一部としてノーマルに(=無意識的に・自然に)働くときに初めて効果を発揮するのであって、小さな行為全てを完全に再現する事自体が目的ではないという事です。
そうでないと、
「これは僕に単純さが無く、小さな事を残らず並び立てる傾向があったためだ。そういう過度の強調(=ディテイルに対する拘りすぎ)もまた虚偽なのだ」
の様に脱線してしまう事になるのです。

これはここ何回かで度々出てくる『仕事の実質を見極める』という事でもあるのですが、多くの場合に正しい道を示すのは【与えられた環境】の輪郭の鮮やかさと【目標】の性質と強さ、ということになりましょう。
05/12/21配信 075号

全部を一遍に支配するということが不可能ならば、我々はそれを砕いて、個々の断片を別々に吸収しなければならない。
個々の断片の本質的真実を突き止め、それを信ずることが出来るようにするためには、我々は【単位と目標】で用いたのと同じ手続きに従わなければならない。
大きな行動を信ずることが出来ない場合には、諸君がそれを信ずることが出来るようになるまで、段々と小さな行動に分割していかなければならないのだ。


小さな真実に裏付けられた小さな身体的行動の連続線を作り上げることにより、それらをより大きな身体的行動にまとめ上げるということ、そしてその場合には小さな事柄を残らず並び立てるのではなく、そこで本質的に重要なもの・必要なものだけを取捨選択することが大事で、それには【与えられた環境】と【目標】が大きな力になる、ということを前回書きました。

今回の言葉には
個々の断片の本質的真実を突き止め、それを信ずることが出来るようにするためには、我々は【単位と目標】で用いたのと同じ手続きに従わなければならない。
とありますが、実際には単位分けとそれぞれの目標の選定、行動の分割、小さな真実の発見というのはほとんど同時に展開されていくものなので、今回は簡単な例をあげてそれら幾つかの要素の関係を調べてみましょう。

例題は、03/08/01配信 011号(関連記事:04/10/12配信 048号〜)で用いた、「あまり馴染みのない部屋で停電になった」というエクササイズです。

このエクササイズが一遍に把握できない場合には、それを幾つかの単位に分けて吸収していきます。
一番最初は『急に明かりが消えて何も見えなくなった』という断片で、そこにはまず『驚き』があり、それに続いて「なぜ明かりが消えたんだ?」という『疑惑』が生まれるとします。
これが最初の小さな真実(の感覚)であり、それに続く二つめの小さな真実(の感覚)です。
そして『今起こっていることを理解したい』『問題を解決するか、今後起こるべき事に対処して安全を確保したい』という本能的な目標(欲求)も生じてきます。(これらは文章にするとぎこちなくなりますが、ほんの数秒の間に起こる、人間の典型的な反応でしょう)
身体的行動としては一瞬身を強張らせるとか、あたりの気配を探るとかといった、本能的な反応が現れます。

続いて次の断片です。『もっと現状を把握したい』という目標(欲求)が、『ライターで明かりを確保する』という身体的行動となり、そこには「これで少しは助かった」という『安心』とか、「こんな明かりじゃ心許ないなぁ」という『不安』とか、「これからどうなってしまうのだろう」という『より強い不安』や『恐怖』といった情緒的なものも存在していると仮定しましょう。
それらは展開とともに生まれてきた(若しくは変形した)、新しい【小さな真実(の感覚)】です。

このようにして、ドアを調べる、携帯電話で連絡を取ろうとする、等と進めていったとき、それぞれの単位の中にはそこで感じられる小さな真実があり、それぞれの当面の目標(欲求)があり、それぞれを実行する単純な身体的行動があります。
そしてそれらはひとまとまりとなって『あまり馴染みのない部屋で停電になった時の人間の行動』という、少し大きな単位としての身体的行動となるのですが、それは同時に、少し大きな真実の感覚を作り出し、少し大きな目標をもっている、ということになるのです。(真実の感覚なり目標なりが、連結したり融合されたりして、より大きなものになるという意味)

つまりは、[一番小さな身体的行動・一番小さな目標・一番小さな真実の感覚]というのは、それを吸収した後に再構築する事によって、それぞれ[より大きな身体的行動・より大きな目標・より大きな真実の感覚]に纏められ、更には[さらに大きな身体的行動・さらに大きな目標・さらに大きな真実の感覚]に成長する、ということになるのです。

尚、【注意の圏】という要素も幾つかの対象に対する注意の連鎖を作り出していて、これも少し大きな注意の連鎖ということが出来ますし、より大きな圏と多層化して存在している、ということが出来ます。

最後に、今回示したのはあくまで一例で、【小さな真実】や【目標】、そしてそこから導かれる【身体的行動】がどのようなものになるかは【与えられた環境】によって様々に変化することを、そしてそれらの中で何が本質的に重要か、何を切り捨てるべきなのかということも【(大小両方の意味での)与えられた環境】やエクササイズの目的、あるいは表現形式等によって異なることを記しておきます。
また、この例ではかなり小さな単位にまで分割していますが、そんなことをしなくても俳優がそれを『肌で感じる』事が出来る場合には、あまりに細かすぎる分割や分析は却って邪魔になることも併せて記しておきます。
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