06/01/12配信 076号もし諸君が役をなかなか上手く演じ、私が「今のを覚えておけ、定着させたまえ」と言っても、諸君はこれをする事は出来ないでしょう。 前回の教えの後、俳優修業では身体的行動と小さな真実と信頼の感覚についての幾つかのまとめと注意点を記し、それらの小さな断片が作る連続線を『人間身体の生活』と呼び、次の段階は『人間の魂の生活』を創造することだと説明します。 幾つかのまとめと注意点というのは、 1.紋切り型や機械的演技の最中でも、椅子が倒れるとか俳優がハンカチを落とすとかといった予期せぬ出来事により、それを処理するために真実の感覚が生まれることもあるが、俳優は偶然に頼るのではなく、意識的に信頼と真実の感覚を獲得できるようにしなければならない。 2.行為全体として扱うのが大きすぎる場合には、それを構成する断片に砕いて各々を吸収するようにする。(最終的にはそれらを結合・吸収・融合させて、より大きな断片として処理する方が俳優の負担はより少なくなる) 3.自分の行うべき行為(=行動)と対象に対して、あまりにも厳格に、真実に固執するべきではない。 4.これらは俳優の準備と創造過程で習慣となり、自動化されるべきである。 等ですが、最後に一つ、主人公コスチャの体験として具体的な教示をしています。 それは 『僕は退場の際に役を演ずることを止めてしまい、結果、僕の身体的行動の論理的な線が中断されてしまった。それは役の人物としての空白を生じさせ、空白は役や戯曲とは関係のない思想や感情で埋められることになった』というもので、それに対し演出家は 『もし君が一人で演ずる事に慣れていないならば、少なくとも君の考えることを、君の描いている人間が似たような環境におかれた場合に考えそうなことに限定したまえ。それは君を、役の中に閉じこめておくのを助けてくれるだろう』と答えています。 登退場の際に芝居が出来ないというのは初心者ではよく見かけることですが、少し慣れてきた人でも、例えば自分の台詞がないときには芝居が出来ない人や、機械的になってしまい、身体的行動の論理的な線が途切れてしまう人は沢山います。 コスチャの例も含めて、これらは【与えられた環境】の輪郭がぼやけている、【もし】の力と【目標】【注意の圏】の力が弱いか精密さが足りない(若しくは間違っている)、【交感】の対象やその内容が正しくない等々が原因となる事が多いようです。 さて、いよいよ『人間の魂の生活』について学ぶ生徒達ですが、K.Sが、 我々はレッテルについてはあまり深く考える必要はないし、あまりに簡明であろうとする必要もない。 どんな身体的行為にも心理的要素が含まれているし、どんな心理的行為にも身体的要素が含まれているのである。と言っているように、難しく考える必要はありませんし、本来は分けて考えるものでもありません。 実際には、身体的行動の線が正しく生まれていれば、感情の論理の線もまた自然と生まれているはずなのです。 俳優修業でも少し先の方で、偶然成功した感情の爆発を伴うシーンで、直接それを目指して失敗した生徒に、 君が、いきなり君の情緒へ行きたいのはわかる。もちろん、それは結構だ。もしも我々が、成功した情緒的経験を繰り返す、永続的な方法を獲得することが出来るものならば、それは素晴らしいことだろう。と教示していますが、その『もっと実質的な手段』について書かれたものが『芸術座の俳優・演出家達との講話』で語られた今回の言葉で、『身体的行動の方式』をもっとも的確に表している言葉でしょう。 |
06/01/27配信 077号最初は、君は君の想像の種子を不毛の土地に蒔いたのだ。 俳優修業の学生達は『人間の魂の生活』を創造するエクササイズ、つまり『複雑な、情緒的・心理的要素を伴った(若しくはそちらに重きが置かれる)身体的行動』のエクササイズに入っていきます。 このあたりの、実地での【与えられた環境】や【魔法のもし】の使われ方の例と、そこから生まれる【信頼と真実の感覚】と【誠実な身体的行動】の相互関係、そしてそれらすべてのものが引き起こす俳優の内部での変化は、俳優修業がセミフィクションの形で書かれているために、演技論にしてしまうと難解な部分を、実にわかりやすく生き生きとした描写で語っています。 今回配信の言葉の前後にも味わい深い表現がされているので、少し長くなりますが引用してみましょう。 こうして、僕にとってはむしろ煩わしいものとなっていた練習が、生き生きとした感じを呼び起こしたのである。役の、身体的生活と精神的生活の両方を創造する方法は、たいしたもののように思われた。最後の一行は三大原理の一つ【意識的技術を媒介とする無意識的創造】の顕れでもありますが、この引用の中で描かれている考え方こそが【身体的行動の方式】であり、俳優・演出家双方の意味での【熱した方法】によるレッスンの一例ということになりましょう。 尚、今回配信の言葉は『逆また真なり』で、正しくない内的準備・障害は【機械的演技】や【紋切り型】、果ては【芸術の利用】にまで行き着くことも忘れてはなりません。 |
06/02/15配信 078号どうしたら諸君は、自分が間違った方向へ逸れるのを防ぐことが出来るだろうか? 俳優修業では前回の言葉に続いて、旅行を例にして『演技の流れ(連続性)』についての説明に入ります。 この旅行についての例えは俳優修業ではほとんど省略されていますので、少し補足しましょう。 (『身体的行動(土方與志訳/未来社)』の「身体的行動について2」には詳細に書かれています) 列車で長い距離を移動していくと、線路自体は同じように続いていきますが、その土地土地によって風景が様々に変化します。 また、時刻や天候によっても変化が見られますし、それらの変化は窓外のものだけでなく、車内や列車自体にもあらわれます。 (乗客の乗り降りによる増減、乗客の会話の内容の変化、方言の変化、服装の変化、冷暖房による車内温度の変化や乗り心地等の変化(車内のすごしやすさの変化)、列車の屋根に積もった雪や、埃によって列車自体が汚れていくという変化等) (* 列車自体の変化とは、これを芝居に置き換えて考えたときに、表される形象の変化ということになります) そしてそれらの変化は、多かれ少なかれ乗客の情緒にも影響を与え、変化を促します。 (深山幽谷で厳粛な気持ちになるとか、一面の花畑で優しい気持ちになるとか、新しく乗ってきた乗客によって楽しくなるとか、沈む夕日を見てセンチメンタルになるとか等々) さて、線路を身体的行動の連続線、列車や乗客の変化を俳優自身が感じる情緒や表現される形象と置き換えると、演技(の流れ)でもこれと同じような変化が起こります。 それを俳優修業では、 身体的な線に沿って進んでゆくと、我々は自分が絶えず、新しい、違った状況や、気分や、想像上の環境や、演出の外部的なもの(大きな意味での【与えられた環境】)の中にいることがわかる。と説明しています。そして続けて、 彼の身体的行動の線が、戯曲の紆余曲折を貫いて彼を導いてゆく。彼の進路は立派に出来上がっているので、彼は傍道に逸れたりすることはないのである。と教示しています。 (これは前出「身体的行動について2」ではもっと簡潔に、 問題はレール(線路)にあるのではない。線路はその上にのって前進するもののためにだけ必要なのだ。と記されています。) 続いて俳優修業では、この線路を進む幾つかのやり方が示されます。 これは『演技が芸術である場合』の章で記されているものと重複するものがほとんどですが、少し引用してみましょう。 俳優は旅行者と同じように、目的地にゆく、沢山の違った道を発見する。 このような誤った進路に進まないための教示が今回配信の言葉で、要所要所に【真実の感覚】という信号手を置くということは、【真実の感覚】も(必要な中断のある)途切れぬ線として、本当に有機的な身体的行動の連続線と並走して存在する、若しくは【貫通行動線】のなかに融合されている、ということになるのです。 少しわかりにくい表現ですが、上記のことは俳優の内的生活がノーマルに流れていれば自然に起こっていることなので、あまり深く考えなくても良いと思います。 「役が脱線するのを防ぐのは、随所で自然に働いている【信頼と真実の感覚】である」という事だけわかっていれば、もし脱線しやすい場合には脱線そのものをどうにかするのではなく、脱線の原因となるもの、つまり個々の断片における【信頼と真実の感覚】をチェックするところから始めれば、脱線を回避することが出来るようになるのが普通だからです。 (余談です。引用部の『或るものは、役の文学的な、無味乾燥な講義をする』という部分は、「身体的行動について2」では『朗読調の演技』と記されているだけです。 しかし俳優修業に書かれているニュアンスの方が正しければ、これはある人物の指導法に対する否定の見解を、ここにも書いていたのかもしれません^^;) |
06/2/28配信 079号どこでも、諸君が真実と信頼とを持つところでは、諸君は感情と経験を持つのである。 俳優修業では、前回の列車と線路の例えを受けて次の教義に入ります。 今回配信の言葉の少し前から引用すると、 次の問題は、我々の軌道を敷設するために、我々はどんな材料を使うかということだ。となります。 この考え方はシステムの根本的なスタンスで、『俳優はその職業的性質のために感情を要求されるものだけれども、(要求されている感情が自然に生まれない限りは)感情に直接働きかけるべきではない。(なぜなら、そういう強制は感情を石化させ、俳優が望むものの反対に終わるだろう)』というわけです。 そこで、間接的に働きかける方法として身体的行動が採用されるのですが、この「単純で誠実な身体的行動を、感情をおびき出すおとりに使う」という方法(=身体的行動の方式)については、ここ何回かの解説にもたびたび出てきている通りです。 また、この考え方は過去に紹介した幾つもの名言にも通じるものなので、ここで付け加えることは特にないと思います。 一つだけ補足しておくと、今回の『列車と線路と信号手』の例えは、05/12/21配信 075号 で紹介した【信頼と真実の感覚】と【単位と目標】の研究過程における類似性、 04/08/26配信 045号 や 04/09/09配信 046号 の『水先案内人が進路を示すブイを頼りに進路を定める』という例えと照らし合わせて考えれば、より分かりやすくなるかと思います。 |
06/03/16配信 080号我々芸術家は、小さな身体的行動でさえも、【与えられた環境】の中に取り入れられた場合には、情緒に対するその影響によって、大きな意味を持つということを理解しなければならない。# 括弧内はメルマガでは省略しています 俳優修業の課業では、小さな真実(=信頼と真実の感覚)を頼りに身体的行動を遂行する一例として、マクベスの1シーンをあげます。 ここで生徒の一人から「シェイクスピアのような大作家が、彼の女主人公に手を洗わせるというような、そんな普通の行為をさせるために作品を書いたとは考えられない」というような異論が出るのですが、教師は、 まったくなんという幻滅だろう。悲劇のことを考えたのではなかったなんて!と解説して、今回の言葉に続いていきます。 (メルマガで省略した部分はマクベスについての補足で、二幕二場の最後で手に付いた血を洗い流すところ(戯曲では舞台の背後で進行)と、それに起因して、五幕一場の夢遊病のようになったマクベス夫人が幻覚の血に怯えるところについてのものです) そして少し飛ばして(飛ばした部分は次回で一緒に)、 こんなふうにして情緒に近づくことでもって諸君はすべての理不尽を避け、諸君の結果は無理非道が無く、直覚的で、完全になるのである。と、纏めています。 まぁ大詩人の作品に限ったことではないのですが、俳優側としてはこの「隠された餌」を見つけ出せるかどうかということが大変重要になってくるわけで、もしそれが出来たなら、部分的にでも潜在意識の領域へ行き着く可能性が高まるということになります。 「小さな身体的行為が、大きな内的意味を持つのだ」というのは、少し先の話しになりますが潜在意識閾の章で「我々が潜在意識の領域へ到達すると、魂の眼は開かれて、我々はあらゆることに、細かなディテールにまで気がつくようになり、それが全てまったく新しい意味を持つのである」と記されているのと同じ意味になるわけです。 |
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