スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 116〜120

07/11/30配信 116号

俳優が舞台上で行動する時、彼は単に言葉や運動といった外見だけではなく、彼自身の全存在、彼の自我でもって行動する。
この自我の、或る対象に対する働きかけを交感(=放射及び吸収)と呼ぶのである。
お詫びと訂正。
今回メルマガで配信した言葉では【交感】が一方通行的なニュアンスになってしまうので、上記のように訂正してください。



前回までにも述べてきたように、【交感】という要素は自分と他者との情緒的・精神的な相互作用が基本となります。
しかし俳優は、場合によっては一人きりで演じたり、複数人が登場していても【注意の圏】を極端に狭めて自己の内面に向き合うようなシーンを演じねばならない事があります。

俳優修業のレッスンは、最初にこの自己交感の解説から始まります。
少し引用してみましょう。
我々はどんなときに自分自身に話しかけるだろうか?
非常に激昂していて自分自身を抑えきれない時だとか、消化するのが難しい思想と格闘している時だとか、何かを記憶しようと努力するか、それを声に出して言う事でもって自分の意識に印象づけようとしている時だとか、或いは、陽気な感情にせよ陰気な感情にせよ、それを緩和しようとする時だとかである。
そういった機会は、日常生活では稀かも知れないが舞台ではしばしばなのだ。
教師はこのように自己交感が要求される場面を示します。
これらの具体例は「To be or not to be」で有名なハムレットの独白シーンだとか、オセロウが自らに死を与える直前、ロドヴィーコー等を前に「最後に一言…」と話すシーン、随所に現れるイアーゴウの独白などを思い浮かべていただければより解りやすいでしょう。

そして教師は自分がそれを要求される場合には、自分の中に一つの主体と一つの客体を選び、その二つを交感させる事で解決のヒントを得たと語っています。
これは実際にK.Sがヨガの研究から学んだもので、プラナと呼ばれるある種のエネルギーの流れと、その棲み家である太陽神経叢と呼ばれるものの存在、そして頭脳とその太陽神経叢を主体と客体にする事で自己交感を行うというものです。

このプラナを放射する(或いは吸収する)エクササイズというものも、幾つかのスタジオでは行われた事があるようですが、別項にも書きましたようにどうも好ましい結果にはならなかったようです。
私自身の経験から言いますと、プラナに関してはほとんど考えなくても良いと思います。
それは、【交感】という要素を正しく身につけられれば、自己交感におけるプラナや太陽神経叢なるものについても、各人なりのニュアンスとして実感できるからです。
俳優修業のこの辺りの描写で、ピンと来るなぁと思われる一節だけを紹介しておきましょう。
(頭脳(大脳中枢)と太陽神経叢との自己交感に成功して)
大脳中枢は意識のありかで、太陽神経叢の精神中枢は情緒のありかのように思われた。
さて、今回配信の言葉はワフターンゴフが交感について述べたものです。
他者との交感にしろ自己交感にしろ、プラナや太陽神経叢を考えるよりも、俳優の自我、彼自身の全存在でもって行動する(=働きかける)とする方が解りやすいのではないでしょうか。
07/12/22配信 117号
君は、俳優と役の人物が融合した、或る新しい存在と接触していたのだ。
(それはファームソフ=トルツォフと呼んでもいいし、トルツォフ=ファームソフと呼んでもいい。)
いずれ君は創造的芸術家の、そういった奇跡的な変形を理解するようになるだろう。
今は君が、『人間は常に、対象となる人間の生きた精神と接触しようとするものだ』という事、ある種の俳優達が舞台でするように鼻や眼やボタンを相手にするのではないという事を理解すれば、それでいい事にしよう。
# 括弧内はメルマガでは省略しています

俳優修業のレッスンは、次の局面『相手役との交感』の解説に入ります。
教師トルツォフは最初に素の彼自身として、続いて『知恵の悲しみ』の登場人物『ファームソフ』として生徒と相互交流を行った後、生徒が感じた印象を訊きます。

生徒の印象は、外的特徴・内的精神状態とも、それぞれトルツォフとファームソフの性格に典型的なものでしたが、教師は、
私は(役を演じる時に)自分の魂を肉体から追い出して、代わりに他人の魂を借りてくる事など出来やしない。
として、生徒がファームソフを感じていた時、彼が誰と交感していたのかを明らかにしてゆきます。
それが今回配信の言葉で、『ちらっと対象を眺める』のではなく(これもK.Sのよく使う言い回しです)、本当に相手役と精神的交流を持つ事が必要である、という教示になります。

特に、強い意志で相手を説得しようとしていたり、相手の意図を酌み取ろうとしている場合などは、この目に見えない交感のエネルギーの流れがものを言う事になります。
違う言い方をすると、場合によっては言葉や身振り・仕草といった外的な形を取らない内的能動性が、交感という要素を通してのみ伝えられるというわけです。

尚、『或る新しい存在』とは【我在り】とか【役の化身】と呼ばれる『俳優と役の人物が融合した状態』の事で、これはまたずっと後の方で出てくると思いますが、とりあえずは 03/04/28配信 002号 を参考にしてください。
08/01/16配信 118号
不幸にして、俳優間の精神的交流の流れがあまりにも稀なのである。
多くの俳優は、例えその事を心得ていたとしても、自分の台詞を言っているときだけしかそれを使わないのだ。他の俳優が台詞を言い始めてみたまえ。初めの俳優は、相手役の言っている言葉に耳を傾けもしなければ、それを吸収しようともしない。次の自分の台詞のキッカケを聞くまでは、演ずる事を止めてしまうのだ。(中略)
そういう途切れ途切れの接触はまったく間違っている。諸君が相手役に話しかける時には、諸君の思想が彼の意識に滲透したと確信するまで、ずっとついて行く事を学びたまえ。
諸君がそれを確信して、言葉では伝えきれない事を眼で付け加えてから初めて、諸君は台詞の残りを言い続けるべきである。


前回の教示の後、或る生徒から
「さっき先生が話していたとき、話していた先生は僕らに伝えるべきものがあったけれども、聞いている僕らはただそれを受け取るだけだった。それが相互的といえるのですか?」
という質問が出ます。
それに対し教師は
「その時でも私は君の疑問に気付いていた。君の焦燥だの、驚きだの、興奮だのはみんな私に伝わっていた。何故私は君のそんな感情を吸収したのだろう? 君がそれを抑えきれなかったからだ。勿論それは、今君が言葉で表したような明確な内容までは伝えきれるものではないが、君が黙っていた時でさえ、我々の間には相互的な感情の出会いがあったのだ」
と解説し、
「それは、人間同士の思想や感情や心理の交流の流れがどんなに絶え間ないものかという証拠になる。舞台では、その流れが途切れないようにすると言う事がとりわけ必要なのである。なぜならば、台詞はほとんどみんな対話だからだ」
として、今回の言葉に続いてゆきます。

「次の自分の台詞のキッカケを聞くまでは、演ずる事(=役の人物として生活し、行動する事)を止めてしまう」というのは本当によくある事です。
彼らはその間、家で工夫してきた薄っぺらな技巧(=K.S流に言うと見せかけのトリック。そして多くの場合、彼らはそれを演技プランと呼んでいる)の陰に隠れながら、次の自分の芝居のキッカケを待っているのです。
こういうものは『自分勝手な芝居』を生みだし、俳優個人としても場面全体としても様々な生彩を欠く事になるので、そうならぬように最大限の注意と警戒が必要です。

以前、弓道について書かれた新聞のコラムで『残心』という言葉を知り、「なるほど、極めた人の言う事は共通するなぁ」と感心した記憶があります。
弓道では矢を射った瞬間の後も暫くは的を狙い続ける気持ち、矢が的に届いたのを見届ける意識を残心と言うそうで、頭では分かっていてもなかなかその境地には達せないそうです。
俳優の場合もこれと同じで、「諸君の思想が彼の意識に滲透したと確信するまで、ずっとついて行く07/09/28配信 112号の「放射しつつ、同時にそれがきちんと相手に届いているかどうかを確認している」も同じ意味)」、「言葉では伝えきれない事を眼で付け加える」という教えはまさしく【交感】の本質を端的に表したものでしょう。

但し、全ての台詞でこれを全力でやろうとすると失敗しますから注意してください。
それは『交感のための交感』、つまり『技術のための技術』になってしまうからです。
その台詞の、という事はそこにある【目標】が要求する分だけの、『残心』が必要なのです。

また、「台詞は言葉のキャッチボールである」とはよく聞く言葉ですが、この言葉の真意も俳優間の精神的相互交流であり、感情やら心理やら思想やら能動性やらを全てひっくるめて心という一語で表すなら、「台詞は(言葉を用いた)心のキャッチボールである」という事を忘れないでください。
08/01/31配信 119号
なかには、(殊に初心者には、)家で勉強するとき生きた対象が無いものだから、想像の対象を使う俳優がある。
彼らの注意は、自分の内的目標たるべきものに集中するよりは、自分自身に存在しもしないものの存在を確信させる事に向けられるのである。
この悪い習慣をつけると、その方法を無意識的に舞台へまで持ち込んで、しまいには生きた対象では勝手が違うという事になってしまう。
自分自身と相手役との間に、生きていない虚構の対象をこしらえるのである。
この危険な習慣は、ときとすると深く染みこんでしまって、一生諸君に付きまとうという事にもなりかねないのである。
# 括弧内はメルマガでは省略しています

#今回配信した言葉は、次号で配信するはずのものを手違いで先に配信してしまいました。
 前回配信の言葉に続く、本来今回配信する予定だったものは次号で配信します。


さて、俳優というものは常に相手役がいて役の研究や練習ができるわけではないので『家で勉強するとき生きた対象が無いものだから、想像の対象を使う』というのは、多かれ少なかれ皆に起こる事だと思います。
これは『想像の対象すら無いままに、台詞の言い回しや身体表現の外見だけを工夫する』のに比べれば遙かに正しく良い方法なのですが、問題は、交感の対象が想像上の対象に慣れきってしまい、それが固定されて、実在する対象が現れてもそれに対する交感が行われなくなってしまうということにあるのです。

これも一つの【最少抵抗線】の罠で、本人にそういう意識が無くても陥りやすい事なので、注意しなければなりません。
特に真面目で練習熱心な人はこの罠にはまりやすいので十分注意してください。
そうなってしまうと、07/09/28配信 112号 でも触れた『役の人物としての生命を失い、「家ではたっぷり稽古していたんだろうなぁ」という印象』しか残らないからです。

また、『自分自身に存在しもしないものの存在を確信させる事に向けられる』とは『信頼のための信頼』『交感のための交感』に他なりません。
K.Sが常に懸念していた
【システム】は、芸術的創造に向かう途上の伴侶ではあるが、しかしこれは、それ自体がゴールなのではない。俳優は、【システム】を演ずるということは出来ないのである。

【システム】の濫用、それにしたがってはいるが、しかし持続的集中無しにバランスを欠いて行われる仕事というものは、「行き過ぎ」になるのである。
我々の精神技術を用いようという、余りにも勢い込んだ、大袈裟な心がけは、過度に批評的態度を招いたり、技術それ自身のために用いられる技術に終わったりしかねないのだが、不幸にしてしばしばそれが実状なのである。
という事にならぬよう、注意が必要なのです。

尚、『自分自身と相手役との間に、生きていない虚構の対象をこしらえる』というのはナレーターや声優志望の人達にもよく見かける現象です。
言葉が、台詞が、台本を越える事が出来ず、相手役(=劇中の他の登場人物)や観客・聴衆に届かないのです。
それは『自分の中だけで納得して終わってしまい、生命を失った形骸だけを展示している』という印象です。
K.S流に言えば「観客は、自分でテキストを読む方がどれだけ良いだろうか」という事になってしまうのです。

従って『想像の対象を使って練習する』事が不可避だとしても、演ずる度毎に正しい対象を見つけ出し、それと正しく交感すること、つまりは【与えられた環境】の中で(内的にも外的にも)役の人物として正しく【行動】する事を習慣としてください。
08/02/18配信 120号
人によると、自分を欺いて、そういうもの(=幽霊のような、存在しない対象)を本当に見ているみたいに思いこもうとする者がある。
彼らはそういった努力に、自分のエネルギーや注意の全てを使い尽くすのだ。
しかし老練な俳優は、要点は幽霊そのものにあるのではなく、自分のそれに対する内的関係にあるのだという事を知っている。
だから彼は『もしも幽霊が自分の前に現れたとしたら自分はどうするだろうか?』という彼自身の問いに、正直な答えを与えようとするのである。


もし交感を放射と吸収に分けるとすると、俳優修業では前々回の教示の後に吸収側への注意と、幽霊のような存在しない対象との交感について触れています。
諸君は、相手役の言葉や思想を、その度毎に新しく受け取る事を学ばなければならない。
諸君は相手役の台詞を、稽古や公演で繰り返して聞いた事があったとしても、今日それを知るのでなければならない。
この接触は、諸君らが演ずる度毎に作られなければならず、それには莫大な、集中した注意や、技術や、芸術的規律が必要なのである。
吸収側への注意とは上記のようなものですが、実際はこれは吸収側だけではなく放射側にも言える事です。
また、台詞に関してだけではなく、仕草や身振りとして顕在化された外的行動も、相手役のそれらに対するリアクションも同様です。
これをワフタンゴフの弟子であったリヴォーヴァは、
エチュードの内容を前もって知っているために、往々にして生徒は舞台に出るや、そこで起きた事件や相互関係をいっぺんに理解するという事になる。(中略)
はじめに評価が生じ、推測、仮定、そして事の本質、動機が明らかになってはじめて、結論が下されるのである。
この過程は実生活では普通に行われている最も単純な人間的行動であるが、その行動を舞台でする段になると、そのディテールと一貫性が忘れられてしまう。
として、ワフタンゴフの
俳優は舞台で起こる事をあらかじめ全て知っているが、それらに対して、恰もその時初めて経験する事象のごとくに接しなければならない。
という教えで結んでいます。


そして『幽霊のような存在しない対象との交感』についての教示が今回の言葉になります。
『幽霊のような、存在しない対象を本当に見ているみたいに思いこもうとし、そういった努力に自分のエネルギーや注意の全てを使い尽くす』というのは、往時のソ連の俳優にとっては踏み絵的な問題を孕んでいたのかも知れませんが、現代の日本人の俳優にとってはさほど問題にはならない事柄でしょう。
ただ『(自分にとっての)リアリティのためのリアリティ』にならないように気をつければいいというだけの事で、それは、『幽霊はいる、いない』、『見える、見えない』が問題なのではなく、例えば『ハムレットとしての自分がもし亡き父王の亡霊に出会って事の真相を知らされたとしたら、自分は今は亡き父は勿論の事、クローディアスや母ガートルードに対して何を思うか? 何を感じ、これからどうしたいのか?』等々という、劇中の虚構世界とその様々な対象に対する『内的関係』こそが重要だという事です。

ここでも【魔法のもし】と【与えられた環境】、【創造的想像力】【信頼と真実の感覚(若しくは真実でないものの感覚)】などの要素が活躍して【交感】を容易なものにし、さらにはそれらが相互的に働きあって創造的状態を形成するというわけです。

尚、今回の教示は、前回の『彼らの注意は、自分の内的目標たるべきものに集中するよりは、自分自身に存在しもしないものの存在を確信させる事に向けられるのである』にも通じるものです。
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