スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 121〜

08/03/03配信 121号
もっと難しいのは、観客との相互交流だ。
勿論、これは直接的にやるわけにはいかない。難しさは、我々が自分の相手役と関係(=交感)していて、同時に観客とも関係(=交感)するという事にあるのだ。
相手役との我々の接触は直接的で意識的であるが、観客とは間接的で半意識的なのである。
注目すべき事は、どちらも、我々の関係は相互的だという事だ。


俳優修業では、続いて集団的対象との交感についての解説に移ります。
尚、そこでは集団的対象という言葉が、群衆シーンに於ける複数の相手役との交感という意味と、観客との交感という二つの意味で使われています。

『複数の相手役との交感』については、【注意の圏】を補足解説したとき(04/03/30配信 032号〜)の、『それなりに広い圏の中での、様々に変化する対象』に対する交感という事なので、『変化する対象へのとぎれぬ連鎖』と『対象を含む注意の圏の、その時々の【目標】や重要度による圏の拡大・縮小』が理解できていて、通常の交感過程が出来ていればさほど難しくはないと思います。
場合によっては一対一の交感よりも刺激を与えてくれる要素もあるのですが、俳優修業ではそれを以下のように解説しています。
時には、我々は群衆全体を一種の拡張された相互交感の中に包み込まねばならない場面がある。
群衆場面を構成している人々の大多数が自然に、お互いに全く違っていて、彼らがこの相互交流に対して、実にいろいろな情緒や思想を出してくれるという事は、はなはだその過程を強化する。
また集団性というものは、群衆の一人一人や彼ら全体の気質を刺激するのである。これが群衆と向かい合う人物を刺激し、そういうものによって観客に大きな印象を与えるのだ。
さて、今回配信の言葉は『観客との交感』に対するもので、これは原則として間接的であるべきというのがシステムの教えです。
「原則として」と書いたのは、演劇の形態の中では例外的に観客と直接交感する場合もあるからですが、それはひとまずおいておき、例外でないものから話を進めてゆきましょう。
当サイトをご覧の方にはごくごく当たり前の、何を今更と思われる事かも知れませんが、ご勘弁を。

一般的な演劇の形態で観客と直接交感しようとすると、所謂わざとらしさに陥ります。
これは演劇(若しくは戯曲)というものの『劇中の虚構世界の中で、登場人物の行動によってその生活を描き、それによって観客にテーマなり思想なりといった何かを伝える』という構造から来るもので、登場人物として行動せず、したがって生活を描けずに観客に何かを伝えようとしても無理が生じ、紋切り型や機械的演技、あるいは芸術の利用に成り果てるのです。
俳優修業に分かり易い例が出ているので引用しておきましょう。
コンベンショナルな、わざとらしいタイプの演技では、この観客に対する関係の問題は至って簡単に解決されている。昔のフランスのファースを例に取ろう。そこでは、俳優は絶えず観客に向かって話しかけるのだ。彼らはずっと(舞台の)前の方に出てきて、短い個々の言葉だの、劇の進行を説明する長広舌だのを(観客に)話しかけるのである。
これを、印象的な自信と、安心と、落ち着きとでもってやるのだ。まったく、もしも観客と直接に関係しようと思うのだったら、観客を威圧する方がましなのである。

機械的俳優は相手役を勤めている俳優を素通りして、観客と直接接触する。それは最少抵抗線である。実際それは、これみよがし以外の何物でもないのだ。

(構成)

では、例外的なものとはどんな場合でしょうか?
TVドラマではしばしばナレーションという手法が用いられ、これは直接視聴者に向かって語られます。
(映像の世界での)ナレーションの本来の定義は「画面外からの、プロットや登場人物の心理状態等の補足説明」と言う事ですが、『画面外からの』というのは『劇中の虚構世界の外からの』という意味です。

舞台でもこの「ナレーション」は録音されて暗転中などによく使われていますが、「語り」とか「男」とか「作者」とかという名称で、或いは古代ギリシャ演劇の「コロス」の役名そのままに舞台上に登場し、観客に向かって語りかける場合があります。
この場合には、虚構世界の役の人物とは一線を画した特別な登場人物として、例外的に観客と直接的に交感するわけです。

最後の、「どちらも、我々の関係は相互的だという事だ」という部分は、俳優修業に書かれている『青い鳥』を観ていた子供の反応の例が端的でわかり易いと思います。
08/03/19配信 122号
もしも諸君が、諸君の思想や感情を誰かと交換したいと思うならば、諸君は何か、諸君自身が経験したものを提供しなければならない。
普通の生活では、そういうものは経験から自然に発生するものだが、演劇ではそれが違っていて、これが新しい困難となる。
我々は劇作家が創造した感情や思想を(我々の創造活動の精神的材料として)使い、またそれらを(役の人物の中に)表現するものとされている。
この『精神的材料を吸収する』ということは、古くさい芝居染みたやり方で存在しもしない情熱の外的形式を弄ぶのよりは難しい。
本当に相手役と交感するという事は、相手役とそういった関係にあるみたいに見せるよりはずっと難しいのである。
俳優は最少抵抗線を辿るのが好きなので、すぐに本当の交感を、よくあるその真似と取り替えてしまうのだ。


前回の教示の後、教師は眼に見える形(=身体的行動)となってあらわれる交感と見えない形での交感過程について触れています。 それは、
我々の外的な、眼に見える運動は能動性のあらわれであるけれども、精神的交感という、内的な、眼に見えない行為はそうではないと考える者がある。 この間違った考えは、内的能動性の全てのあらわれが、重要で、貴重であるだけに、より残念だ。 だから、それ(=交感、及び、交感したいという欲求)が、行動の一番重要な要素の一つなればこそ、この内的交感を尊重するのだという事を学びたまえ。
というもので、これも、03/07/01配信 008号「(前略)そしてその内部の活動は、俳優を行動へと駆り立てるのである03/11/14配信 021号 の解説で触れているまず内的な行動がきて、そのあとから外的な行動がくる06/03/16配信 080号「(前略)大きな内的葛藤が、そういった外的行為にはけ口を求めるのであるといった教示と照らし合わせて考えれば、当然の事として納得できると思います。

そして今回の教示も、今までに紹介してきた幾つもの教えと密接に結びついています。
『劇作家が創造した感情や思想を使う』、『精神的材料を吸収する』という部分は 03/10/14配信 018号 の補足解説で引用している「見えない部分の研究の必要性」が分かりやすいでしょう。
これをなし得るためには「役や戯曲の【消化】」、「内的及び外的な【正当化】」、「【種子】の発見」等の作業が関係してきます。
これらについては用語解説室の方も参照して下さい。

『古くさい芝居染みたやり方で存在しもしない情熱の外的形式を弄ぶのよりは難しい』については、 その『古くさい芝居染みたやり方』の例として【再現の芸術】【機械的演技】【ゴム判】【芸術の利用】が、また【最少抵抗線】についても用語解説室でとりあげています。

俳優修業では、このあと教師が幾つかの『古くさい芝居染みたやり方』を実演して見せて、生徒達にそれらと真の創造物との違いを理解してもらうというシーンが続きますが、内容的には上記の用語解説室でとりあげたものと重複するためここでは割愛させていただきます。
是非とも俳優修業を再読して下さい。

尚、04/03/09配信 030号「(前略)実生活では、いつでも我々の注意を固定させる対象が沢山あるが、演劇では条件が違っていて、俳優が当たり前に生きる事を邪魔するので、注意を固定させる努力(精神技術)が必要になるのである(【注意の圏】についての教示)や、05/06/30配信 065号舞台で起こることはすべて、俳優自身にとっても、相手の俳優にとっても、観客にとっても、納得のいくものでなければならない。(中略)俳優はいついかなる瞬間も、彼が感ずる情緒の真実や、行う行動に対する信頼でもって飽和していなければならないのである(【信頼と真実の感覚】についての教示)等も、最少抵抗線を辿らないための関連した教示として参照して下さい。
08/04/08配信 123号
僕は求めていたんです、何か非常に――特殊なものを」
「それはいつも起こる事だ。創造、というような言葉を使ってみたまえ。すぐに諸君はみんなお高くとまってしまうんだ。さあ、実験を繰り返そう」(中略)
「もしも諸君がそういった『感じ』の、長い、一貫した連鎖をつくる事が出来るならば、それは終いにはうんと強くなって、君は我々が【把握】と呼ぶものを得るだろう。そうなれば、君の交感過程はずっと強く、鋭く、はっきりしたものになるだろう」(中略)
「俳優は、聴くとなったら一心に聴く事だ。嗅ぐとなったらよく嗅ぐことだ。何かを見るとなったら、本当に眼を使うことである。しかし勿論、これらは全て不必要な筋肉の緊張なしにやらなければならない」(中略)
「把握とは、けっして異常な身体的努力を意味するものではない。それは、大きな内的能動性を意味するのである」(構成)


俳優修業では続いて交感のレッスン風景に移ります。
(この辺りは補足解説するとなると全てを引用しなければならなくなってしまうので、ここでは割愛させていただきます)

今回配信の言葉は、そのレッスンの中で【放射】の『感じ』を掴めた生徒と教師のやりとりです。
最初の部分は『俳優が虚構世界で生きている時、彼の内的生活の要素は現実世界でのそれと本質的には何ら変わりはない』というもので、気取った演技、感情のための感情、或いは余計な筋肉の緊張等を戒めたものです。

『一心に聴く』『よく嗅ぐ』『本当に眼を使う』とは誠実な身体的行動をしましょうと云う事で、これも【身体的行動の方式】に則したシステムの一貫した教えですね。
そういう身体的行動の連続線を形成する事によって【小さな真実】は【より大きな真実】となり、【小さな目標】は【より大きな目標】に吸収され、それらがますます内的及び外的な貫通行動線を強いものにしてゆくと云うわけで、【交感】という要素では『より強い交感』ではなく【把握】という言葉を使って教示しています。

尚、K.Sは『役や戯曲を理解する』という事柄に関して、
我々の芸術では、『わかる・理解する』とはただ知的に理解するという事ではなく、『情緒的にも感ずる』という事を意味する。更に言えば、それを『なし得る(=与えられた環境の中で、役の人物として誠実に行動できる)』という事を意味するのだ。(スタニスラフスキー講義・稽古の実際/アンターロワ)
と言っていますが、「把握とは、(中略)大きな内的能動性を意味するのである」というのもこれと照らし合わせて考えればわかり易いかと思います。
08/04/25配信 124号
【適応】とは、内的な、また外的な方便の事で、そのおかげで人は交際にあたってお互いに順応し、対象に対し働きかけが出来る。
我々はこの【適応】と言う言葉を、『人間がいろんな関係でお互いに適合する』のに使ったり、また『ある目的を達する一助として使う、内的及び外的な人間的手段』を意味するものとして使う事にしたい。

(構成)


俳優修業のレッスン風景は前回の教示のあと、「外的援助が内的過程を刺激する方法」の一齣に入ります。
しかしこれはかなりしっかりした【コントローラー】が働いていないとむしろ悪稽古になってしまう事と、文章で解説するにはあまりに難解な事なので、ここでは触れない事にします。

さて、今回の言葉は【適応】の定義とでも言うような、一番基本的なものです。
今回の言葉をより理解しやすくするために、04/11/26配信 051号でとりあげた教えをもう一度引用しましょう。
舞台に出る前に、俳優はその【与えられた環境】と共に【目標(課題)】を持っていなければならない。
第一に知っておかなければならない事は『何を舞台の上でなさなければならないか』という事であり、第二に、その行動の目的は何か、『なぜそうするのか』という事である。
この目標次第で俳優のコンディションは決まってくる。
『何を舞台の上でなさなければならないか』というのは内的及び外的な【行動】そのものの事で(広義では、形式や様式と言った表現方法としての行動も含む)、『なぜそうするのか』は【目標】(場合によっては潜在意識的に存在する【超目標】も含む)の事です。
言い換えると「何のために(=【目標】)、何をするか(=【行動】)」というシンプルな事柄ですが、実生活でもそうであるように、虚構世界の生活でもここにもう一つの要素が入ってきます。
それは「どのようにして・如何にして」という事で、つまり「ある目的のためにある行動をとる時、それらを達成させるためにはどのような方法をとるのがより良いか?」或いは「様々な【与えられた環境】の条件を考慮した時、人間は対象に対しどのような態度で接するか?」と言う事です。

【適応】とはまさにこの「どのようにして・如何にして」という部分を広く表した言葉で、後日また触れますが【適応】が【交感】と結びついていないと(勿論、【真実の感覚】や【内的能動性】といった他の要素ともしっかり結びついていなくてはなりませんが)、とたんに段取りだけの【冷淡な方法】になってしまうので注意が必要です。
また、【適応】という要素は、特に性格的な役の場合や印象的な場面を演ずる場合には表現の形式として大変目立ちやすいものなので、『観客に印象を与える事を主眼とする適応のための適応』にならぬよう、十分注意が必要だという事も付け加えておきましょう。
08/05/19配信 125号
形式的には正しくとも、生活的に正しくない演技はよく見かけるところです。
意識的に【適応】をやり始めると、結果としてスタンプになってしまいます。
【適応】の利用は、潜在意識の助けを借りてのみ為すことが可能なのです。
(構成)


俳優修業のレッスンでは前回の「【適応】とは、内的な、また外的な方便の事で〜」を受けて、生徒から「そうすると、適応というのは(目的を達するために使う)ぺてんのことですか?」と言う質問が出ます。
それに対し教師は、「或る点ではそうだ」としながらも【適応】の幾つかの特徴と働きをあげて「その種類と範囲は無限だ」と教示しています。
この辺りの詳細は俳優修業を参照いただくとして、教師は
我々はあらゆる形式の交感において、自分自身との交感においてさえも、適応の多くの方法に訴える。それというのも、我々は必然的に、その時々に我々がおかれる精神状態を斟酌しなければならないからである。
と纏めています。

さて今回配信の教えは、上記の事柄と前回触れた「適応のための適応」を補足するものです。
少し先の話になりますが、俳優がテキストや役を分析し研究して【役のスコア】を作り上げる時、【知性】が【内的原動力】全体を指導するのが普通です。
【適応】も当然そこに包含されるのですが、【知性】だけに導かれた【適応】は上記の「意識的に【適応】をやり始めると〜」と言う事になってしまいます。
勿論これは実際に演じる時の【適応】のあり方にも言えることで、やはり【冷淡な方法】による【機械的演技】になってしまうのです。

しかしだからといって【知性】の協力を得ずに潜在意識的な【適応】を用いようというのは無理な話で、もしそんなことをしようとすればインスピレーション頼みの俳優と同じ事になってしまいます。
ワフターンゴフは俳優の表現形式の探求に関して
感情の真実(=俳優の内的リアリティ。役の人物としての感情の迫真性)が無ければ演劇的表現力もあり得ない。
しかし『感情の真実』自体が、それに不可欠な表現形式を生みだしてくれるわけではない。
と教示していますが、これは【適応】の利用については顕著に表れます。
つまり【適応】と言う要素は『役の人物としての態度や反応のありよう』と共に『役を演じる俳優としての表現形式の選択』にも関係してくるため、これらを混同しないように注意が必要なのと同時に、その両方において、常に潜在意識的なものの助けを借りた創造の有機性が求められるのです。
ワフターンゴフはそれを簡潔にこう語っています。
内容においてより深く、形式においてより鋭く。

一行目の「形式的には正しくとも〜」は【適応】を他人から与えられた時(例えばト書きの指定とか演出家からの指示など)にもよく現れるものです。
自分で見つけた【適応】でさえややもすれば機械的になってしまうならば、それを他人から与えられた時にしっかり自分のものになるよう消化・正当化出来ない場合には、それがスタンプ化してしまうと言うのは自明の理で、表現形式としては最良のものであったとしても『生きていない』と言う事になってしまうのです。

尚、この例だけではなく、この種の問題に関して、K.Sはこんな警句を吐いています。
俳優はブロイラーの鶏であってはならない。
ただ餌を与えられるままに、肥えさせられてはならないのだ。
もし情緒的材料が他人から与えられるような場合には、彼自身の存在でそれを濾過し、彼の創造の本性と融合させなければならないのである。
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