スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 141〜145

09/10/29配信 141号
しかし三つの原動力のどれ一つにも、他を圧倒してバランスと必要なハーモニーとをひっくり返すような事をさせないようにする事が必要なのだ。
我々の芸術は三人の名人全てを承認するが、創造活動ではそれら三つの原動力の全てが主役を演ずるのである。
我々が、あまりにも冷ややかで理詰めだとして排斥する唯一のタイプは、無味乾燥な計算から生まれるタイプなのだ。(*1)


俳優修業では今回の言葉がいよいよ【内的原動力】の章の纏めとなるもので、この言葉の前には以下のような例が示されています。
【感情】が【知性】よりも勝っているような俳優は、ロミオやオセロウを演じて、自然に情緒の方面を強調するだろう。
【意志】が一番力強い属性であるような俳優は、マクベスやブランドを演じて野心や狂信に力を入れるだろう。
第三のタイプは、無意識的にハムレットや賢者ナータンのような役の知的な陰影を、必要以上に強調するだろう。(*2)
しかし三つの原動力のどれ一つにも〜
(以下、今回配信分に続く)
この例は大変分かりやすいものなのであらためて解説する必要もないと思いますが、一つだけ注意点を挙げるとすると(*2)の「必要以上に強調するだろう」というところです。
つまり【内的原動力】のバランスは「他を圧倒」するものであってはならないが、内的原動力はどんな場合でも画一的なバランスを持っているものではないという事です。

例えばマクベスとオセロウではそのバランスが違う(=当然それぞれの人物の性格・性質が違う)からこそそれぞれの悲劇になるわけで、それは戯曲に示されている通りです。
俳優が必要以上にその人物の特色ともなる原動力を強調しすぎると、また逆に全てを均等に働かせようとすると、「(その役に固有の)バランスと必要なハーモニーとをひっくり返す」事になってしまうのです。

これは広い意味では、役や戯曲の研究段階におけるK.Sの有名な言葉『悪人を演じる時は、その善いところを探せ』にも通じるもので、「戯曲が正しく十分に書かれていて、俳優がそれを正しく理解し、消化し、形象化するならば、現れる役はイヤでもそういう人物となるだろう」という事で、俳優が役の人物の目立った特徴や第一印象だけから突き進むと観念的・類型的な役作りという傾向になってしまいます。
(「イヤでもそういう人物となる」とは言っても、【超目標】を含めた戯曲の解釈とか、【究極の超目標】といった条件の差、そして俳優個人の持つ特質が役の人物のそれに反映されるので、同じテキストから出たものであっても結果はそれぞれが唯一無二の形象となり、それによって「誰々のあの役は素晴らしい」とか「今回の上演はイマイチだ」というように評価も異なってきます)

実際の創造活動(=形象化の段階)でもそれは同じ事で、従って、三名人の力関係を画一化せず、かと言ってそれぞれを必要以上に強調しすぎないという事が重要なわけです。

(*1)についてはまさしく【冷淡な方法(a froid)】についてのもので、知性だけが走りすぎる場合には特にこういう傾向になりがちです。
役の行動を通して人物やシーンを描くのではなく、自分の役に名札をつけ、レッテルを貼って、その人物や状況を説明しているだけになってしまうのです。
09/11/20配信 142号
【意志】とは、役の人物の生活の線を遂行しようとする力である。


今回は【内的原動力】の補稿という事で、KSが晩年に述べていた
『以前には知性と意志と感情に分けていましたが、今は知性を想念(想像)と判断(解釈)に分け、感情と意志を合一させました』
という主張について触れたいと思います。
KSは一例として次のような解説をしています。
私が諸君に「蛇」という言葉を話すとします。この言葉は諸君にどのような想念を呼び起こすでしょうか?
諸君の頭にその想念が浮かんでくる瞬間、――これが潜在意識の瞬間です。
疑いもなく、その想念が判断を呼び起こします。想念と判断が存在する時、感情の意志(自由)があらわれます。(中略)
俳優は自分の心に何かを想像(想念)します。そしてこれと関連して自分の判断を下します。そしてこの唯一の道から、感情の意志が発生するのです。
これ自体は確かにその通りの現象が起こるでしょうが、本来は分離できないはずの三頭政治を(より詳細な研究のためとはいえ)三つに分けたがために、却ってその密接な関係が混乱を招いているのではないでしょうか。

つまり、勝手に呼び起こされた想念はまさにインスピレーション(=潜在意識の瞬間)ですが、それはそう年中有るわけではないし、知性が働く事により想念が変化したり強く現れる事の方が普通でしょう。
そして、判断(解釈)も知性の管理下で働く事の方が圧倒的です。
となると、知性を無理に二つに分ける必要はないと思えます。

また、『感情の意志』というのも意志と感情が同じ方向を向いて一つのベクトルとなる場合は纏める事も出来ますが、ベクトルの向きが異なり、そこに葛藤が生まれる場合などはむしろそれを一つに纏めるとなると却って難解なもの(=葛藤を包含した上での、そのあらゆる人間的状態を完全に体感している状態)になってしまいます。

分かりにくいので例をあげましょう。
上記の「蛇」では、多くの人が否定的な判断(解釈)をし、「危険」とか「嫌悪」と言った感情が生まれ、「逃げたい」とか「退治したい」という意志につながるでしょう。
これはベクトルが一致した例です。

しかし例えば、『泣いて馬謖を斬る』と言う言葉があります。
この時の孔明の感情と意志は逆のベクトルを示していますし、他にも『顔で笑って心で泣いて』とか『義理と人情を秤にかけりゃ』等、感情と意志が違う方向を向くものは沢山あります。
日本人の気質としてはこういう浪花節的なものが好きなので、無理に感情と意志を合一する必要はなく、内的原動力を無理に三つに分ける必要もないと思いますが、少なくとも『想念・判断・感情と意志』よりは『知性・感情・意志』の方がピンと来る分け方だと思う次第です。

もちろん当時のロシア語のニュアンス(特にKSが使っていた用語としてのニュアンスが現在の我々が使っている日本語のニュアンスと違う可能性も大きいので、何とも言えない問題ではあるのですが…。
もし"本物"の能力を持ったイタコがいるなら、是非とも直接KSと話してみたいところです(^^;

尚、今回配信の言葉は古いノートに書き留めてあった【意志】についてのもので、引用元も誰の言葉かも確認できなかったのですが、【意志】についてのたいへん明確な定義だと感じています。
この場合には、役の人物としてはもちろん、それを演じる俳優としても、つまり役と俳優が融合した人物としての『遂行しようとする力』である事に注意して下さい。
10/01/13配信 143号
彼のゴールがはっきりしないうちは、彼の活動の方向は定まらないだろう。
(そんな中では、比較的良い状態の時でさえ)彼はただ、役における個々の瞬間だけしか感じないだろう。

(この時期には、彼の思想や、欲望や、情緒の流れが現れたり消えたりするという事は驚くには当たらないのだ。 もしも我々がそのコースを図で示すとすると、その模様はばらばらで途切れ途切れだろう。)#メルマガでは省略しています
線がだんだんに連続した全体になってくるのは、彼が役のより深い理解と、その基本的な目標(=超目標)の自覚とに到達する時だけである。
その時にこそ我々は、創造活動の開始を口にする権利を持つのだ。


今回の言葉は 09/02/27配信 136号 で引用した、
諸君は戯曲を何度も繰り返して読まなければならないだろう。
俳優がすぐに新しい役の本質を掴んで、感情の爆発一つで、その精神全体を創造することが出来るほど役に心を奪われるということは滅多にあることではない。
それよりは、まず彼の知性がテキストを部分的に把握し、次に彼の情緒が少しばかり動かされ、そしてそれらが漠然とした欲望をかき立てる、ということの方が普通なのである。
の後に続く解説に当たる部分です。
この『コースを図で示す』というのは超目標の章で詳細に触れられ、他の状態の図と比較されていますが、一足先に『ばらばらで途切れ途切れ』の図だけ揚げ、またそこでの教示も併せて引用しておきましょう。
(今回配信分の「この時期」では、実際にはこの図よりももっと断片的でバラバラ、つまり流れらしきものを形成できていない状態と考えて下さい)

もしも役の小さい目標がみんな違った方向を向いていれば、勿論しっかりした途切れぬ線を形成するという事は不可能である。
従って行動は、断片的で、整合的でなく、どんな全体にも関係づけられてはいないのだ。
一つ一つの部分がどんなに優れていようとも、それが戯曲の中にところを得ないのは、それに基づくのである。

上記の図の矢印の一つ一つは『目標(あるいは行動)がもう少し大きな単位に結合(若しくは吸収)されたイメージ』を表しています。
これについては04/11/11配信 050号等を参照してください。
上記引用文の「一つ一つの部分がどんなに優れていようとも、それが戯曲の中にところを得ないのは、それに基づくのである」と言う箇所はよく見かける所で、或る瞬間の芝居が何か光ったものを持っているとしても、それが役の貫通行動線に沿っていなかったり、与えられた環境からはみ出していたりすると、実際にはそれは出来ていない芝居という事になってしまいます。
あるいは別の言い方をすると、全体に関係づけられていない箇所があるという事はまだまだ準備不足・稽古不足という事で、今回の言葉で言えば、まだ「創造活動の開始を口にする権利」を持っていないという事になりますが、これについては次回以降で。
10/02/15配信 144号
舞台では、もしも内部の線が途切れると、俳優はもう言われたりされたりしている事を理解しなくなるし、なんの欲望も情緒も持たなくなる。
(俳優と役が融合した)形象の人物というものは、そういった途切れぬ線でもって生きているのだ。
演ぜられている事に、その生活に、生命を吹き込むのはそれなのである。
その線が中断してみたまえ、生活は止まってしまう。それが復活すれば、生活はまた進行するのだ。
しかし、そんな発作的な死滅と復活は、ノーマルなものではない。
役は、持続的な存在と、その途切れぬ線を持たねばならないのである。



前回の続きです。
俳優修業のレッスン風景では、教師の「その時にこそ我々は、創造活動の開始を口にする権利を持つのだ」に対して、「なぜその時になのですか?」という質問が生徒から出ます。
この辺りは大変わかりやすい例えなので少し引用してみましょう。
答えるかわりに、演出家は、腕と、頭と、胴とで、脈略のない運動をやり始めた。それから彼は訊いたのだ。
「諸君は、私が踊っていたと言えるかね?」
僕らは言えないと答えた。すると彼は、次から次へと不断の連続をなして調子よく流れる一連の運動をやってのけた。
「これで舞踊になっただろうか?」
僕らは皆、なったと答えた。

すると彼は、あいだに長い休止をおいていくつかの音符を歌った。
「これは歌だろうか?」
僕らは答えた。
「いいえ」
「では、これは?」
そう言うと彼は、美しい、朗々としたメロディを口にした。
「歌です!」

次に彼は、一枚の紙に、何か出任せの、脈略の無い線を描いて、それが模様かどうかを訊いた。
僕らがそれを否定すると、彼はいくつかの、長い、優雅な、曲線をなした模様を描いたので、僕らはすぐにそれを模様と承認したのである。

諸君には、あらゆる芸術に於いて、一本の途切れぬ線が無ければならないという事がわかるだろうか? 線が、一つの全体となる時に創造活動が始まるというのは、そう言う訳なのである
続いて生徒からの「実生活にだって、ましてや舞台に、けっして途切れない線なんかがあるでしょうか?」という質問に、教師は次のように答えます。
「おそらく健康な人間の場合には、いくらか中断があるに違いない。
しかし、そう言った中断の間にも人間は存在する事を続けるのだから、何らかの線は続くのである。
従って、ノーマルな、連続する線は、いくらかの必要な中断のある線だという事に定義しよう
更に次のような一文を挟み、今回配信の言葉に続いてゆきます。
レッスンの終わりになって、演出家は、僕らが僕らのいろいろな内的活動の方向を代表する、一本ではなく何本もの線を必要とするのだという事を説明した。
舞台では、もしも内部の線が途切れると〜(後略)
この【途切れぬ線(=貫通行動線)】と言う教えはシステムの中でも非常に重要な位置を占めています。
【魔法のもし】と【与えられた環境】の展開、【身体的行動の連続線】や【注意と意識の途切れぬ線】、【ポド・テキスト】【行動と感情の論理(ロジック)】等々、全てがこの【途切れぬ線】と関係しているのです。
また、【超目標】や【内的把握(大いなる内的能動性)】は特に関係が深く、この三つは切り離せないので、またそれらに触れる時にも【途切れぬ線】に関係した含蓄のある言葉が出てくると思いますが、とりあえず今は【途切れぬ線】の出来ていない『芸術的創造活動』は有り得ないという事だけ理解しておいて下さい。
10/03/10配信 145号
そう言う大きな線はみんな、小さな線を結び合わせたものなのである。
これがあらゆる戯曲、あらゆる役について起こることだ。
現実では、生活がそう言う線を形成するが、しかし舞台でそいつを真実らしく創造するのは作者の芸術的想像力である。
しかし作者は、それを断片的に、切れ切れにでなければ与えてくれないのだ。
彼は、彼の人物達が袖にいる間にその身に起こったことや、彼らが舞台へ戻ってきてからするように『彼らにさせるもの』についてはてんで何も言わないことが珍しくない。
我々は、彼が言わずにおくことを埋めなければならないのだ。
(構成)


俳優修業のレッスン風景は先に進みます。
教師は生徒に、朝起きた瞬間から今現在までに彼が何をしていたかを思い出させます。
この辺りは俳優修業を参照いただくとして、生徒がこの『(実)生活の線』を理解すると、次には「この後、君にはどんな予定があるか、何をしたいと思っているか」と言うようなことを尋ねます。そして、
君は一日の残りについて、何かを想像するに違いない。
君は、あのしっかりした線が、心配や、責任や、喜びや、悲しみをはらんだ、未来の方へ伸びてゆくことを感じないだろうか?
行く手を眺めるとそこにはある動きがあるし、動きがあれば、そこに一本の線が始まるのである。

もしも君がその線を過ぎ去った線と繋ぐならば、君は、過去から現在を経て未来へと流れる、君が朝、目を覚ました瞬間から、夜、目をつぶるまで流れる、一本の完全な途切れぬ線を創造するだろう。
小さな個々の線が合流して、丸一日の生活を代表する一つの大きな流れを形成するのは、そんな風にしてなのである。(後略)
として今回配信の言葉に続いてゆきます。

これがあらゆる戯曲、あらゆる役について起こることだ」は、先の『(実)生活の線』と同じような『(虚構世界の人物としての)生活の線』を作り上げなさいという事で、ここで大事なのは『我々は、彼が言わずにおくことを埋めなければならないのだ』ですが、難易度を別にすれば、内容的には特に難しくはないでしょう。
【創造的想像力】に関する03/10/14配信 018号の解説に、この理由についての引用がありますのでこちらも参照にして下さい。
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