スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 146〜150

10/04/23配信 146号
人間なり役なりの生活は、現実か想像の平面の、過去の記憶か未来の夢想の世界の、注意の対象や圏の無限の変化からなり立っているものである。
その線の、途切れないという事が芸術家にとってはきわめて重要で、諸君はそいつを自身の内部に確立する事を学ぶべきなのだ。(中略)
俳優の注意は、一つの対象から別の対象へと絶えず移っているのだ。途切れぬ線をなすのは、その焦点の不断の変化なのである。
もしも俳優が、一幕全体なり戯曲全体なりの間中たった一つの対象に固執したりしたら、彼は精神的にバランスをなくして、固定観念の犠牲になってしまうだろう。


前々回の解説で【途切れぬ線】はシステムの様々な教えと関係していると書きましたが、今回の言葉は【注意の対象・圏】を例にして解説したものです。

俳優修業では、俳優の注意の対象や注意の圏がどういうものか、どうあるべきかを生徒達に教示するために、エリアスポッティングを用いて目に見える形で【とぎれぬ線】を作りだし、解説する風景が描かれています。
この描写が大変理解し易いものなので、今回の教示の詳細は俳優修業を参照してください。
また、【注意の対象・圏】についてのバックナンバー(04/03/09配信 030号〜)も参照してください。

要点は、何か一つの対象に対する執着ではなく、展開によって次々と変化(若しくは変形)していく『対象への注意』の連続性という事です。
この連続性というものは、与えられた環境や魔法のもしそのものは勿論、それらを作り出す創造的想像力の連続性、目標の連続性、信頼と真実の感覚の連続性、身体的行動の連続性、交感の連続性、…等々あらゆるものに存在しているわけで、実際にはシステムで貫通行動線とかポド・テキストの線とか、(内的及び外的な)生活の線という場合には、そこにはこれら全ての連続性が含まれているという事が前提となっている訳です。

今回で俳優修業の「とぎれぬ線」の章からの引用部分は終わりますが、もうひとつK.Sがよく使っていた例えを記しておきましょう。
(手持ちのメモからの引用なので、現在、出典が不明です^^;;)
諸君が素晴らしい料理を作ろうとあらゆる材料を集め、創造の大鍋にそれらを入れても、火をつけ調理しなければ、諸君はただ生のままの素材を囓ることになるだろう。
途切れぬ線とは、煮たたせる火なのである。
これはまさにレオニードフが呈していた苦言に通じるもので、特に【単位と目標】のような要素は【とぎれぬ線】と切り離せないものなのです。
10/05/28配信 147号
不幸にして、自然な創造的気分が自発的である事は滅多にない。
ありすぎる事だが、俳優が正しい内部の状態に入る事が出来ない場合には、彼はこう言うものだ、「気分が乗らない」と。
これは彼の創造器官が正しく働いていないか、全然働いていないか、あるいは機械的習慣でもって取って代わられているかである。
彼の機能を狂わせてしまったものは、プロシニアムアーチの深淵だろうか? それとも彼は、半分しか出来ない役をもって、自分でさえも信ずる事が出来ないような台詞や行動をもって観客の前に出てしまったのだろうか? 俳優が、十分に準備してはあるのだが擦り切れた役を新鮮にしなかったという事もまたあり得る。
しかし彼は役を再創造するたび毎にそれをやるべきなのだ。でないと、彼は舞台へ出ていって、ただ形骸だけを見せると言う事になってしまうだろう。


今回から【内部の創造的状態】の章に入ります。
俳優修業では始めに概要を解説していますが、これに補足をつけるとなると内容が多岐にわたるためとんでもない量になってしまうので割愛させていただき、以下簡単に纏めさせていただきます。

  • 【創造的想像力】【目標】【信頼と真実の感覚】等々の内的要素は、内的原動力によって整理・調整・整合されて、超目標に向かう【とぎれぬ線】を形成しはじめる。
    (知性・感情・意志の調和した力である内的原動力は、要素の持っている調子や色彩や陰影といった、それぞれの戯曲や役における要素の精神的内容を吸収する。逆の立場で言うと、内的原動力は意志や情緒や思想という具体的なエネルギーを要素に注入する)
  • それらが先に進めば進むほど、その線は益々統一され、強固なものとなっていく。
  • こういう内的原動力と諸要素の融合から、重要な内部の状態(=感覚)が生まれる。それを【内部の創造的状態(=俳優の、若しくは舞台の創造的気分(サモチェーフストヴィエ)と呼ばれるもの)】という。 そして正しい【内部の創造的状態】は、【人前の孤独(これが最高潮にまで達すると【我在り】となる)】を含んでいる。
上記がこの章の始めに書かれている概要で、詳細は俳優修業を参照してください。
今回配信の言葉はこれに続くもので、その正しい状態になれなかった場合にどうなるかという戒めの教示です。
「気分が乗らない」に類する言い訳はよく聞くところで、これもK.S流に言えば「自分の無能さか怠惰を自ら証明している」という事になりましょう。

今回配信分は分かり易い文章の引用なので補足の必要はないと思いますが、一点だけ。
創造的状態(=創造的気分)や【我在り】の感覚とは、自分自身を忘れて役にのめり込むような催眠術的な(若しくは病的な)ものではなく、役の人物としての感情・心理状態等と共にそれを演じている俳優としての感覚も併せ持ち、それらがノーマルに進行している状態、つまりサルヴィニの言う「俳優が舞台の上で営む二重生活、生活と演技との間の中庸の感覚」である事に注意してください。
10/07/13配信 148号
また、こういう可能性もあるだろう。俳優は、怠け癖や無頓着や不健康や個人的な心配事でもって仕事が上の空になっているのかもしれない。(中略)
いずれにせよそういう場合には、彼は人間的なやり方では、話すことも、聴くことも、見ることも、欲することも、感ずることも、歩くことも出来はしない。
彼は観客を喜ばせ、彼自身を見せつけ、彼自身の内的状態を隠したいという神経質な欲求を感じるのだ。
そうなっては彼の創造的な構成要素は解体し、分離してしまう。それはもちろん人間的にノーマルではない。
舞台では、実生活におけるように、要素は不可分であるべきなのだ。


今回配信分も前回の続きで、本文の後には【創造的状態】にとって好ましからぬ様々な場合を、
【信頼と真実の感覚】を無視して自分自身に行動を強制したり、間違った【目標】を選んだり、【芸術の利用】に走ったりするとどうなるだろうか?
諸君が間違った調子を導入する度毎に、真実は芝居染みたコンヴェンションになる。
信頼は、対象や行動に対する信頼ではなくて、繰り返しの稽古で身に付いた機械的演技に対する信頼になる。
目標は、人間的なものからわざとらしいものにと変わる。
想像力は消散して、芝居染みた当て込みに取って代わられるのだ。
そういった好ましくないものを一緒くたにするならば、その中で諸君は役を生きる事など出来るはずもなく、身をよじったり何かを模倣したりする以外何一つ出来ない雰囲気を作り出してしまうのだ。(構成)
と解説しています。

また、途中で
不幸にして、内的欠陥は目には見えない。観客はただ、それを感ずるだけなのだ。
それを理解するのは我々の職業の専門家だけなのだが、普通の好劇家が感応しないで、二度と劇場に足を運ばないのはそのためなのである。

危険は、もしも構成要素の一つが欠けていたり良くなかったりすると、全体がダメになるという事実によって高められるのである。
よく訓練され、完全なハーモニーを成しているオーケストラに、一つだけ間違った調子を加えると、全体の調子が台無しになってしまう。(構成)
と、分かり易い教示もしています。
オーケストラの例は、別の資料ではもっと過激に『完全な演奏を行っているオーケストラに、シンバルを持った猿を放り込むようなものだ』と書かれていた気がします(^^;

また、本文中の『彼は観客を喜ばせ、彼自身を見せつけ、彼自身の内的状態を隠したいという神経質な欲求を感じるのだ』は初心者の全編における状態からそれなりに出来る人の彼にとってはどうしても上手くいかないある箇所だけというレベルの違いこそあれ実によく起こる事で、『観客と直接取引し、彼の内側の虚無を隠そうとする。』という言い方もされます。

【交感】でも教示されているように、ある例外的な特殊な役の場合を別にすると、演劇(=この場合は広く演技全般と考えて下さい)の構造からして観客との交感は間接的でなければならず、俳優自身がそれを直接的にやろうとする瞬間に、益々【内部の創造的状態】は壊されてしまうわけです。
10/08/18配信 149号
大概の俳優が、芝居の前にはいちいち彼らの外観が彼らの演ずべき人物の外観によく似るように衣装を着けたり、メイクアップをしたりはする。 けれども彼らは、内的準備という一番重要な部分は忘れるのである。
何故彼らは彼らの外観にそんなに特別の注意を払うくせに、彼らの魂にはメイクアップをしたり衣装を着せたりしないのだろう?(中略)
どんな形式のわざとらしさも、諸君の内的自然にとっては全く具合が悪いのだ。 だから諸君がなんでも創造的な事をしなければならない時には、その度毎に、諸君の為の準備を行い給え。(中略)
そのためには君の役の基本的な部分をさらい給え。君はそれを完全に展開する必要はないのだ。
僕はあれこれの特殊な箇所に対する僕の態度を確信しているだろうか? あれこれの行動に対する欲求を本当に感ずるだろうか? しかじかの想像上のディテイルを変更したり追加したりするべきだろうか? そういった準備的練習の全てが、君の表現器官をテストするのである。


今回は正しい【内部の創造的状態】を生み出すための建設的な教示で、
内的なわざとらしさの習慣に陥るのを避けて、本当の内部の創造的状態を得るにはどうしたらいいだろうかと言う問題を取り上げる事にしよう。
この二重の問題に対しては、答えは一つしかないのだ。
一方が他方を排除する。一つを作り出す事でもって、諸君はもう一つをぶちこわすのである。
と言う出だしから今回の言葉に繋がっていきます。
(上記、最後の行は『悪いものが正しい状態をぶち壊す』場合もあるわけで、十分注意しなければなりません)

俳優修業ではまず、音楽家やバレリーナや彫刻家が彼らの実際的な仕事の前に行うウォームアップを例に挙げ、俳優芸術に於いてもそれと同じような内的なウォームアップが外的扮装以上に重要である事を説きます。
(ここで言う『魂のメーキャップ・衣装を着せる』は、俳優修業第二部にある【性格に着物を着せる箏】の章で説かれている事(あちらは【役作り(=内的及び外的な性格描写)】とは違います)

【筋肉の緊張の緩和】から始まり、様々な要素を連絡させて『創造的状態の諸要素の鎖』全体を動かすようにする事の解説は俳優修業に書かれているので参照してください。
それに対し「しかしそれでは、僕らは毎晩芝居全体を二回やらなければならないのですか?」という生徒の質問に答えたのが後半部分で、教師はウォームアップには急所をさらえばよいと答えています。
そして
これが全て簡単にできるところまで成熟している役の場合には、この作業は時間もかからず楽に出来るだろう。
不幸にして、必ずしも全ての役がそう言った完成の段階まで到達しているわけではないのだ。
その場合にはこの準備は困難だろうが、それに時間と注意が必要な場合でも、(むしろなおのこと)それは必要なのである。
またそればかりではなく、俳優は稽古の時でも家で研究している時でも、いつでも本当の創造的気分を得られるような習慣をつけねばならない。
彼の創造的気分は、最初、役が十分に完成されていないうちは不安定だろうし、また役がやり古されてくると、その鋭さを失うものである。
と教示しています。
(システムではこの「役がやり古されてくると、その鋭さを失う」の対処について【役の衛生(=リフレッシュ)】と言う言葉が使われます。
それから、度々登場する【創造的気分(ロシア語のサモチェーフストヴィエという状態・感覚)】と言う言葉ですが、これに対するぴったりした日本語が無いそうで、創造的状態とか創造的気分と訳されたそうです。
これはなにも目が血走った、神経の張り詰めたような状態ではなく、適度な緊張感(=集中力)を保ちつつリラックスした状態、脱線しない範囲で良い感じでノッている状態、と言うような意味なので誤解無きよう願います)

このあと『完全な能力を持った或る俳優』が演じている時に彼に実際に起こっている事を仮想し、本サイトでも何度も引用しているサルヴィニの名言中の名言を引用して『本当の正しい内部の創造的状態』の有り様を解説しています。
ここでもう一度その言葉を書き留めておきましょう。
(このサルヴィニの『俳優の二重性』に関する教示はK.Sの様々な書籍で引用されていて、04/05/07配信 035号のように若干違う訳し方をしている場合もあります)
俳優は、舞台で、生き、泣き、笑い、しかもその間中彼は彼自身の涙や笑いを監視している。
この二重の機能、この生活と演技との間のバランス、彼の芸術を作るものはそれである。
10/09/29配信 150号
複雑な魂の、精神的なデリカシーを把握するためには、自分の知性だの、どれか一つの『要素(=創造的状態のエレメント)』だのだけを使うのでは足りないのである。
それには俳優の内的な力の調和的協力が作者のそれに加わるほか、彼の力と才能の全てが必要なのだ。(中略)
ところが不幸にして我々は、役のうわべをボンヤリと滑ったり、大役の中へ掘り進む事をしなかったりする俳優をよく見かけるのである。
概して言うと、俳優の【内部の創造的状態】の力と持続性は、彼の【目標】のサイズと重要性とに直接比例して違うものなのだ。同じ事は、彼の目的を達成するのに使われる装備についても言う事が出来る。(=それらの内的及び外的装備に比例して内部(及び外部)の創造的状態の力と持続性は変わってくる)
そこで、あれこれの【創造的状態の要素】が優位を占めているところの創造的気分の状態、性質、度合いは無数にあるという事になるのだ。

もしも諸君が、かっきりとした明白な目標を持っているのなら、諸君は素早く、しっかりした、正しい内部の状態が得られるのだ。それに反して、もしもそれが不正確で、漠然としているようならば、諸君の内部のそれは脆くなりがちである。どっちの場合でも、目標の性質が決定的要因なのだ。(中略)
ときとすると、目標が潜在意識的に存在していて、俳優の自覚だの意志だのを待たずに、潜在意識的に実行されてしまう事までもあるものだ。起こったのが何であったかを彼が完全に理解するのは、後になってからだという事は珍しくないのである。(構成)


もう諸君は【内部の創造的状態】の意味を知っているのだから、それが形成されつつある時の俳優の魂を覗いてみよう。
と言う言葉から、俳優修業のレッスンはこの章の纏めに入ります。
教師は、金鉱を求める山師の仕事振りに例えてその大変さを示し、
それと似たような闘争が、俳優がハムレットを研究している場合には何年か続くのだ。と言うのも、この役の精神的な富は隠されているからである。 俳優は、ハムレットの魂の中で一番デリケートな部分を感得するためには、深く掘り下げねばならない。天才による、天才についての大文学作品は、限りなく細やかな、込み入った研究を要求するのである。
として、今回の言葉に続いてゆきます。
「概して言うと〜」以降は本当に概念的な纏めとなるので、難しければ無理に考えなくても良いと思います。
こう言ってしまうと乱暴ですが、実演家にとっては『それが出来るか、出来ないか』だけが問題ですので(^^;

さて、今回で【内部の創造的状態】の章は終わりとなります。
『俳優修業』もこの辺りまで進んでくると、この補足解説がかなり困難になってきました。
つまり、下手な補足などしなくとも引用だけで感覚的にも十分理解される部分と、補足した方がより深く理解されるであろうが、もしやるとなると他の要素等と複雑に関係しているので補足文章が相当量になってしまい、物理的に不可能なので結果としては割愛せざるを得なくなる、と言うどちらかになってしまうのです。
また、今まではなるべく理解しやすいように原文の文章の繋がりを極力重視し、比較的広い範囲から一回の配信分を選んでいたため、中略も多くなり、その中略分やそこに関係する他の文章との繋がりの補足もという事で、却ってわかりにくくなっていた箇所もあるようです。
そこで次回より、紹介する名言もピンポイント的に短くし、補足はどうしても必要と思われるところ以外は注釈程度に止め、むしろ配信が停滞しないように発行・編集方針を変更してゆきたいと思います。どうぞご了承下さい。
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