スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・バックナンバー 151〜170

10/10/15配信 151号
戯曲では、個々の小さな目標への流れ全体が、俳優の想像上の思想や、感情や、行動の全てが、プロットの【超目標】を遂行すべく一点に集中すべきである。
(共通の絆が、至って重要でないディテイルでさえも、もしもそれが超目標に関係づけられていないならば、蛇足か間違いとして目立つくらい強くなければならないのだ。[*1]
この超目標へと向かう勢いは、戯曲全体を貫いて絶えず続かなければならない。
その起こりが芝居染みたものだったりおざなりのものだったりすると、それは戯曲に対して『だいたい正しい方向』だけしか与えないだろう。[*2]
もしもそれが人間的で、戯曲の根本目的を達成することに向けられているならば、それは大動脈みたいなもので、戯曲と俳優との両方に栄養と生命を供給するだろう。
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[*1] 「蛇足か間違い」云々も分かりづらいニュアンスですが、「『傾向』は超目標に吸収されるべき」という教示がのちに出てきますので、ここでは「枷(反作用)」や「演技(または上演)スタイルの変化・複合(例えば戯曲『見せられない手帖(飯沢匡)』の場面転換時における登場人物の語り手化のような)と考えておけばよいと思います。

[*2] 上っ面をなぞるだけだったり、芸術の利用に陥るなど、『だいたい正しい方向』さえも示さない事が多々ある。
10/11/10配信 152号
悪い戯曲では、俳優が自分で超目標を強めて、それをより深く、より鋭くする必要がある。それをするには、彼が超目標に与える名前が極度に重要になるだろう。
目標に対して正しい名前を選ぶと言うことの重要性を、そして能動性を得るために動詞の形式が相応しいことを、諸君はすでに知っている。
同じ事は超目標に対して、より以上に当てはまるのだ。

[*] 戯曲が偉大であればあるほど、その超目標の引く力は大きい。しかしそうでない戯曲ではその力はずっと弱くなるし、
という解説に続くもの。
目標に対する名前の付け方については俳優修業の「単位と目標」の章を参照のこと。
10/12/07配信 153号
主要テーマ(=超目標)は、芝居の間中、俳優の心にしっかりと定着されていなければならない。
それは、戯曲作品そのものを生まれさせたのである。
それはまた、俳優の芸術的創造の根源でもあるべきなのだ。


11/01/17配信 154号
俳優を、戯曲の始めから終わりまで導いてゆく内的な行動の線を、我々はコンティニュティとか【貫通行動線】と呼ぶ。
この貫通行動線が戯曲の全ての【単位と目標】とに電流を通じ、それらを【超目標】の方へと向けるのだ。


[*] 俳優修業ではこの教示の後に、ステラ・アドラーに貫通行動線について指導したエピソードが続く。
11/02/03配信 155号
もしもあなたが【貫通行動線】無しに演ずるようだと、あなたはただシステムの部分的な、バラバラの練習をやっているだけという事になります。
そういうものは[*1]教室での個々の練習や勉強としては有益だけれども、纏まった役の稽古・芝居の代わりにはなりません。
あなたはそう言った個々の練習が皆、[*2]基本的な方向線を確立するという第一目的を持っているのだという重要な事実を見逃しています。
あなたの役の素晴らしい断片が、何の効果も上げなかったのはそのためです。
砕けた彫像や裂けた絵画はその部分がどんなに美しくとも、完成した芸術作品ではないのです。
(構成)


[*] 前述の、ステラ・アドラーへの助言より。

[*1] 教室での個々の練習や勉強=大小様々な単位についての練習。またシステムの様々な要素や精神技術についての勉強と言う意。
前者は全体に関連づけられていない断片的な演技に、後者はシステムの全体像を理解した上での各要素や精神技術の特訓でないと「システムのためのシステム」になりやすい。

[*2] 基本的な方向線を確立する=超目標に向かう流れ、つまり【貫通行動線】の形成のこと。
11/02/21配信 156号
この事は諸君に【貫通行動線】と【超目標】との奇跡的な、(俳優の演技に対して)生命を与える性質を教えるものである。
おそらく絵を描いたら、もっと分かり易いだろう。
小さい線はみんな同じゴールの方へ向かっていて、一つの大きな流れに融合するのだ。
(構成)




[*]  前回のアドバイスの後、貫通行動線を確立したアドラーが大きな成功を勝ち得た経過を受けての纏め。

小さな線は戯曲中の様々な大きさの【目標】を表しているので、長さ(本来は太さ・色合い・線種等も)が違う。
04/11/11配信 050号〜 の【単位と目標】の章での、各種イメージ図を参照のこと。

また、小さな線を【単位】【(内的及び外的な)行動】と考えても良い。(本来はそういうもので織り込まれた【ポド・テキストのとぎれぬ線】と言うニュアンスなので。)
12/01/19配信 157号
しかし、究極目的(=超目標)を確立していない俳優の場合をとってみよう。
彼の役はまちまちな方向をとる小さな線(=目標・行動)で出来上がっているのだ。
(そこでこういう事になる。)

もしも役の小さな目標がみんな違った方向を向いていれば、勿論しっかりしたとぎれぬ線を形成すると言うことは不可能である。
従って行動は断片的で、整合的でなく、どんな全体にも関係づけられてはいないのだ。
一つ一つの部分がどんなにすぐれていようとも、それが戯曲の中にところを得ないのは、それに基づくのである。

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[*]  芝居の流れ(ストーリーや芝居自体の時間的展開)があるので、この場合でも大まかな流れは存在する。(上記図の例だと左から右へという大まかな流れ。但し多くの場合、一つの矢印の終点と次の矢印の始点は(後に出てくる「必要な中断のある連続性」という意味で)繋がっていない)
しかし「小さな目標がみんな違った方向を向いていれば」という状態があまりにも酷い場合には、その流れすら壊してしまう混沌的状況が生まれることもある。
12/02/07配信 158号
もう一つ、別の場合を見せる事にしよう。
(主要行動線と主要テーマとは有機的に戯曲の一部を成していて、この二つを無視するならば必ず戯曲そのものに対して損害を与えるという事に我々は一致している、そうだろう。しかし)
我々が戯曲に無関係のテーマを導入するとか、或いは傾向[*1]と呼ぶようなものを加えると仮定したまえ。
他の要素は同じ事なのだが、しかしそれら[*2]は、この新しい付け足しでもってそっぽへ向けられるだろう。
それはこんな風にあらわす事が出来る。

こういった、歪んでとぎれとぎれの脊髄を持った戯曲は、生きる事が出来ないのである。

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[*1] 様式や形式、上演の目的、その他制作上の都合等、作品に影響を与える様々な要素や力。

[*2] 貫通行動線を構成する、目標や行動を示す小さな線・小さな単位
12/02/24配信 159号
こういった、歪んで、途切れ途切れの脊髄をもった戯曲は、生きる事が出来ないのである。
(中略)
とはいえ、希有の例外がある事は本当だ。
我々は時とすると、或る果物が別の台木に接ぎ木されて、新しい果物が出来る事があるのを知っている。
或る場合には、現代思想が古い古典に自然に接ぎ木されて、そいつを若返らせる事が出来るのである。
その場合には、付け足しは主要テーマに吸収されてしまうのだ。



[*] 前号分に続く、貫通行動線・超目標と、傾向に関する解説。
中略部分にかなり重要な事が書かれているが、スペースの関係からそれは次号で。
12/04/13配信 160号
(君は、そして君みたいに考える多くの人はよく、永遠的、現代的、一時的という、三つの言葉の意味を混同し、誤解するものだ。
もしも君がそれらの言葉の真の意味を掴むべきならば、君は人間の精神的な価値について微妙な区別をする事が出来なければならないのである。)


現代的なものは、もしもそれが、自由、正義、愛、幸福、大きな喜び、大きな苦しみといったような問題を取り扱っているのであれば、永遠的になる事も出来る。
私は劇作家の作品における、そういった現代性に対しては決して異議は唱えない。

しかし全く違うのは一時性で、これは永遠的になる事は決して出来ないのである。
それはただ今日にのみ生きられるのであって、明日は忘れられるだろう。

(それを注射しようとする演出家がどんなに知略にすぐれ、俳優がどんなに天分があるとしても、永遠的な芸術作品が一時的なものとなに一つ相通ずるものを持ち得ないのはそのためだ。)

無理非道はいつだって創造活動で使うには良くない手段なので、だから一時的な強調を使う事でもって古いテーマを新しくしようとする事は、戯曲と役との両方に対して、ただ死を意味しうるだけなのである。

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[*] 今回配信分は前回の中略部分で、
「しかし、全ての演出家や俳優から、全ての創意的で個性的な創造能力はおろか、古い傑作を現代精神に近づける事でもって、それを新しくする可能性までを全て奪おうとなさるのでは無いでしょうね?」
という、一人の生徒の抗議に対する回答です。

この「全ての創意的で個性的な創造能力」や「それを形にする全ての可能性」が、前回・前々回の二つの図の【傾向】と考えれば分かり易いと思います。

また、「一時性」は「ブーム」と読めば、これも分かり易いでしょう。
ブームにあやかろうと、本文にある「一時的な強調」を傾向として無理矢理注入すると前々回の図のようになってしまうわけで、それを前回の図のようにするためには、その傾向の持つ本質まで掘り進んでそれを吸収し、超目標に融合させる準備的な作業が必要な訳です。
12/05/21配信 161号
(以上の事[*1]から引き出される結論はこうである。)

なによりもまず、諸君の【超目標】と【行動の貫通線】をなくさないようにしたまえ。
主要テーマには、他人の、無関係な傾向や目的には全て気をつけたまえ。

(もしこの二つの例外的なほどの重要性を諸君に痛切に感じさせる事に成功したならば、私は教師としての私の主要目的をはたし、我々のシステムの基本的な部分の一つを説明出来た事に満足したい。
――彼は長い間を置いて、続けた―― )

作用は反作用に出会い、反作用が今度は作用を強化するものだ。
どんな戯曲にも、主要行動の他に、それと対立する反対行動がある。
このことは、その不可避的な結果がより多くの行動になるのだから、幸福な事である。
我々はそういった目的の衝突と、そしてそこから出てくる解決すべきすべての問題とが必要なのだ。
それらが、我々の芸術の基礎をなす、【(内的)能動性】を惹き起こすのである。[*2]

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[*1] ここ何回かの、図解説明のレッスンの纏めとして。

[*2]能動性に対する刺激として、 直接的な対立行動は勿論のこと、枷とか障害と呼ばれる作劇上の反作用もしっかりと考慮するべきである。
12/06/21配信 162号
我々がこの最初のコース[*1]で企ててきた事は全て、諸君を、我々の創造過程での最も重要な三つの眼目をコントロール出来るようにする、という事に向けられてきたのだ。

一 内的把握(大いなる内的能動性[*2]
二 行動の貫通線
三 超目標

我々は、それらについて、みんな一通り話したのである。
もう諸君は、我々の『システム』がどんなものか知っているのだ。


[1*] これは俳優修業第一部の終わりの方の章で書かれているもので、システムにおける俳優教育の過程としては『自分自身のための仕事』の中の、主に『内的要素』に関する訓練のコースを指す。

[2*] 括弧内の補足については08/04/08配信 123号を参照に
12/08/09配信 163号
それなら、私のところへ来るのはよしたまえ。
私の『システム』は、決してインスピレーションを製造したりはしないだろう。
それはただ、インスピレーションにとって都合の良い地盤を準備する事が出来るだけなのだ。

もしも私が君だったら、私はインスピレーションなんていう、そんな幻を追う事は止めるだろう。
そいつは、自然というあの奇跡的な仙女に任せて、人間の意識的なコントロールの範囲内にあるものに身を捧げたまえ。

役を、正しい軌道に乗せたまえ。
するとそれは先に進むだろう。
それはより強く、より広く、より深くなっていって、終いにはインスピレーションへ連れて行ってくれるだろう。


[*] インスピレーション(=霊感と呼ばれる、当時の俳優の頼みの綱)を受けたいと希望する生徒に対する教師の答えで、前回配信分とともにこれがスタニスラフスキーの所謂『システム(=「創造的自然」の法則)』と呼ばれるものを、端的に説明した言葉。
12/09/11配信 164号
我々の意識的な知性は、我々を取り巻く外界の現象を整理し、これにいくらかの秩序を与える。

ところで、我々の意識はしばしば、潜在意識が活動を継続すべき方向を指示するものだ。
意識的経験と無意識的経験との間には、はっきりと引かれた線などは無いのである。

そこで我々の精神技術の基本的な目的は、潜在意識が自然に働くような【創造的状態】に我々自身を置くことなのである。
この技術は、潜在意識的な創造的自然に対して、『文法が詩に対して持つのと同じ関係を持つ』と考えるのは正しい。
文法的配慮が詩的なものを圧倒してしまうのは、不幸なことである。

その不幸が演劇ではよく起こるのだが、だからといって我々は文法無しで済ませるという事は出来ない。
潜在意識的な創造の材料が芸術的な形式をとることが出来るのは組織された場合に限るので、それを整理するのを助けるために文法が使用されるのである。
(構成)


[*] システムの三大原理の一つ【意識的技術を媒介とする無意識的創造】をもう少し丁寧に言うと、このようになる。
『詩と文法の関係』は実に分かり易いたとえである。

12/11/07配信 165号
我々は、潜在意識閾を超える前と後とでは、違った風に見たり、聞いたり、理解したり、考えたりする。
前には、我々は「本当らしい感情」を持つのだが、後では「情緒の誠実さ」を持つのだ。
そのこちら側では、我々は限りある想像の単純さを持つのだが、あちらでは、より大きな想像の単純さなのだ。
識閾のこちら側での我々の自由は、理性とコンベンションで制限されている。そのあちら側では、我々の自由は大胆で、意志が強く、能動的で、いつでも前へ進んでいる。[*1]
あちらでは、創造過程はそれが繰り返されるたび毎に違うのである。[*2]

これらは情緒の世界のことで、理性の世界の事ではない。
俳優は、彼が創造活動を行っているときに、第二の現実の状態を経験すると考えるのは間違いである。
俳優は、幻を見たり聞いたりしているわけでは無いのだ。[*3]
(構成)


[*1] 創造的想像力の章で『地面につながれたままの想像力と大空を舞う想像力』という例えが出てくるが、潜在意識閾を超える前と後との違いについてもこの関係が近い。

[*2]俳優修業では、浜辺に立ったときに足に触れる波の大小の例えで解説している。

[*3]サルヴィニの言う『俳優の二重性』を参照。
12/12/21配信 166号
諸君がもう知っているように、我々は情緒的記憶を糧として生きるのである。
時にそういった記憶は、そいつを生活そのものみたいに思わせるイリュージョンにまで達することがある。
しかし例えそういった、自我の完全な忘却と虚構世界で起こりつつあることに対する不動の信頼というようなものが可能であるとしても、それは滅多に起こることではない。[*1]

俳優が『潜在意識の領域』に呑まれているばらばらの瞬間以外は、真実と真実らしさが、確固たる信頼とおそらくこうであろうという程度の信頼とが、代わる代わるなのである。
私が話した物語[*2]は、情緒的記憶が役の要求する『感じ』[*3]と一致した例で、そういうものの結果として出てくる『類似』というものは、俳優を彼が描いている人物により近く引き寄せるのだ。
そういうときに、創造的芸術家は役の人物の生活の中に彼自身の生活を感じ、役の生活を彼の個人的な生活と同種のものに感じるのである。
この同一視が、奇跡的な変形[*4]になるのだ。
(構成)


[*] 今回配信分は、前回配信分の続きになる

[*1]ところがこの「自我の完全な忘却」「不動の信頼」というのが役者にとっては実に魅力的な状態で、ここに罠がある。
これを欲するあまり、システムが『技術のための技術』に成り果てる場合が多いのである。

[*2]俳優修業に書かれている、眼に包帯をされて外科手術を受ける即興をした時の話。

[*3]その瞬間に役の人物が感じるであろう情緒、心理状態、思考(宗教・教育・人生観・社会的背景等々に影響された)、それらから生まれる欲望や感情など、言葉でいちいち説明すると約款の但し書きのようになってしまう全てをひっくるめて、ここでは『感じ』と記してある。

[*4]別の章では『(外的にも内的にも)役の化身となり』という言い方もされている。 K.S自身の例としてDr.ストックマン役で起こったことが「芸術におけるわが生涯」に詳しく載っている。
13/02/09配信 167号
実生活と役とのそういった類似性の他にも、我々を『潜在意識の領域』へ導いてくれるものがある。
戯曲や役と何の関係も無い、単純な外部の出来事だとか、その俳優の特別な環境だとかが、突如として演劇のコンベンションの中に生活の一片を注入して、たちまち我々を潜在意識的な創造の状態へ引っさらっていくことは珍しくない。[*1]

舞台の制約のある雰囲気の中での生きた出来事というものは、風通しの悪い部屋に吹き込む一陣の風のようなものなのだ。

もしも彼がその自然な出来事を(役の人物として)本当に信じ、(役の人物として)正しく反応できるならば、それは彼を助けるだろう。
それは彼を、潜在意識へ向かう軌道に乗せるのだ。

だからそういった出来事を恐れるのではなく、もしそれが起こったらそれを賢明に利用することだ。[*2]
それは諸君を、潜在意識へより近く引き寄せる瞬間でもあるのだ。

(構成)


[*1] 俳優修業では、ハンカチを落とすとか椅子が倒れるとかという、芝居の中でのハプニングを例に説明している。また、コスチャが「血だ、イアーゴウ、血だ」を叫んだ瞬間とか、ブランドのエチュードで木の棒の赤ん坊に反応したソーニャの例などが、『俳優の特別な環境』が戯曲に必要な潜在意識に働きかけた例として書かれている。

[*2] これは「そういうハプニングが起こった時、役の人物としてごく当たり前にそれに対処できるように、普段から形象を作り上げておくべきである」という意味で有り、「ハプニングに対処する特別な技術を学ぶべきである」と言う意味では無い。
13/03/19配信 168号
[*1]今まで我々は、潜在意識への通路として役立つことの出来る、偶然の出来事を取り扱ってきた。しかし偶然を土台にしたのでは、規則を一つも立てることは出来ない。成功が確かでないなら、俳優はどうしたら良いだろう?
[*2]彼には、『意識的な精神技術』に助けを求める以外には、道は開かれていないのである。
それは、『潜在意識の領域』へ接近するための方法と、そのために都合の良い条件とを準備すると言うことなのである。

[*1] 前回配信分にある、椅子を倒す等のハプニングと俳優の特別な環境から来る偶然の一致のこと。システムでは特に後者やそれに類するものを唯一の頼みとする俳優を『霊感(インスピレーション)頼みの俳優』と呼び、その霊感が来なかった時はどうするのかと戒めている。

[*2] 後半二行は前半部分を受けての答えで有り、また『システムとはなんぞや?』と言う問いに対する明瞭簡潔な答え(内的要素についてのみではあるが)でもある。
そしてこの部分は、システムの三大原理の一つ『意識的技術を媒介とする無意識的創造』そのままである。
13/04/22配信 169号
もっとくつろぎたまえ。君たちは家にいる時よりも、もっと楽に感じなければならない。
なぜなら、我々は現実ではなく芸術を、【人前の孤独】を取り扱っているのだから。[*1]

君自身の身体的及び精神的状態が、どれが正しいか君に教えてくれるだろう。
君が【我有り】の状態に到達すると、どれが真実でノーマルかをよりよく感じ取るだろう。[*2]

俳優があんまり努力しすぎている時には、より軽い、よりさばけた(役への)近づき方を取り入れる方が良いと思える事があるものだ。
それもまた、緊張を緩和する一つの方法なのである。

精神的緊張は肉体的緊張と同じように、諸君を束縛するものだ。
諸君の内的自然がそいつに捕まっていると、諸君の潜在意識的過程はノーマルに展開することが出来ないのである。
その緩和のためには、筋肉の萎縮を処理するのと同じようにするのだ。

しかしこれもまた、緩和のための緩和であってはならない。
緊張の箇所(あるいはその理由)を発見したら、それを緩和するための動機を見つけだし、正当化することで結果として緩和させるのである。[*3]
(構成)


[*1] 【公開の孤独】とも言われる、システムの用語。
「諸君が自分の部屋で一人きりでいるような演技をしていても、実際には諸君は大勢の観客に見つめられている。つまり、公開の場で孤独な状態を演じなければならないのだ」というように、俳優の創造活動時における特殊性の一つを表したもので、【注意の圏】によって守られた「衆人環視の中でも、精神的に完全に解放された状態で演じる必要性、若しくはその状態」を表す。
このような、『現実のような非現実(他にも「真実の感覚と虚偽の感覚」のような、演技というものの持つ様々な特殊性)』についてKSはよく「我々が扱っているのは現実ではなく芸術だ」という言い方をしている。
つまり、写実的リアリズムやナチュラリズムではない。内的なリアリズム、魂のリアリズム、ワフターンゴフ的に言えば空想的リアリズム」という「本質的な正当性」がシステムで言う【リアル(真実)】と言うことなのである。

[*2] 今回は二回この「ノーマル」と言う言葉が出てくるが、この「ノーマル」の感覚が大事。
システムで「自然に演じる」というのは、役にとっても俳優にとっても「ノーマルに演じる」と言うことで有り、それは「アブノーマルではない」と言うことである。(アブノーマルというのは、役か俳優か或いはその両方に無理があるということであり、つまり役の準備が出来ていないと言うことである)
リアルにとかナチュラルにとか、あるいはシリアスにとかコミカルに演じるとかと言うのは、あくまで上演スタイルのタッチにしか過ぎない。
コメディタッチの芝居でコミカルな役を演じる時、俳優がごくノーマルに演じてそれが観客にコミカルに見えた時、初めて「きっちりと役の準備をし、役の化身となり、役を生きた」と言えるのである。

[*3] 緊張→緩和→正当化(演出家が俳優に正当化の動機を見つけさせる時にはこの方法を取ることがある)
緊張→正当化→緩和(俳優が、二度目以降にすでに見つけてある動機を用いて緩和する場合はこの順序)
13/05/13配信 170号
我々は、想像力と仮定だとか、欲望と目標だとか(もしもこれが十分に限定されているのならば)、情緒だとか(もしも自然に喚起されるのならば)、【創造的状態の要素】の、どれを出発点として使っても良いのだ。
君はいろいろな計画や着想から始めることが出来る。もしも君が(幸運にも)戯曲の中の真実を潜在意識的に感ずるならば、君のそれに対する信頼は自然に起こり、【我有り】の状態も自然に起こるだろう。
そういった全ての要素のコンビネーションの中で記憶すべき重要なことは、「君が出発点としてどんな要素を選んだとしても、君はそいつをその限界まで持って行かなければならない」と言うことだ。
創造上の鎖の、そういった環のどれを取り上げるにしろ、君はその鎖全体を引っ張っていかなければならないのだ。[*]


[*]
システムの要素は多岐にわたり、それぞれが難解なので、それぞれ個別の要素として解説されたり実習訓練が紹介されたりしているが、実際には各要素は密接に結びついて影響し合っている。
ここでは「創造上の鎖」と言う例えを用いて技術的側面で解説されているが、システムというものの概念について述べた「それ(=スタニスラフスキー・システムと呼ばれる物、或いはその各要素と技術的手段)は多くの部分として習得され、次いで綜合されて一つの全体とならねばならぬ、ひとつの纏まったシステムなのである」に通じるものである。
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