スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・バックナンバー 171〜185

13/06/07配信 171号
君は今日のレッスンから正しい結論を引き出していない。
肝心なことは、インスピレーションがやってきたのは、ひとりでにではなかったと言うことだ。
それは、そのために道を準備することでもって、君が呼んだのである。

君は今では、インスピレーションが生まれるために都合の良い条件を作り出す能力を持っている。
だから君は、【内的原動力】を喚起するもののことを、君の【内部の創造的状態】を助成するもののことを考えたまえ。
要するに、君が心にとめるべきものは、君が意識的にコントロール出来て、君を潜在意識の領域へ導いてくれるもの全てである。
それがインスピレーションに対する一番良い方法なのだ。

インスピレーションそのもののために、直接それに近づこうなどとはけっしてしてはならない。
それは体を歪め、感情を石化させ、君が望む全てのものの反対に終わるだろう。
(構成)

[*]
今回の教示は前回の続きで、レッスン中にかなり強いインスビレーションを味わった生徒が、その味わったインスピレーション自体に夢中になっていたことに対する教師の言葉。
重要なのは「たまたま今回インスビレーションを体験した」ことではなく「インスビレーションを体験することが出来るような準備をする能力を持っている」ことだと言うのが、システムのスタンスである。
「上手い事も有ろうし、まずい事も有ろう。重要な事は正しく演じるという事だ」という03/08/12配信 012号の教示等も参照のこと。
13/06/27配信 172号
諸君の【内部の創造的状態】の要素の全てと、【内的原動力】と、【行動の貫通線】とを、芝居じみたものではない人間的な活動の限界まで持って行ってみたまえ。そうすると諸君は不可避的に、諸君の内生活のリアリティを感じるだろう。
そればかりではない、諸君はそれを信じずにはいられないだろう。

創造が、どの部分も、[*1]もどかしさと、高まりと、複雑さとで一杯になっていると感じられるのは実に愉快である。
事実、いたって小さい行動や感じ、いたってわずかな技術的手段(=目標や創造的想像力)でさえもが、もしもその可能性の限界まで拡げられるならば、人間的な真実と、信頼と、『我在り』の感じの限界まで押し進められるならば、それは舞台で深い意味をかちうる事が出来るものなのだ。

そこまで行くと、諸君が創造活動を人前でやらねばならないという特別な条件にはお構いなしに、諸君の精神的及び身体的組織全体は、全く実生活でのようにノーマルに働くことだろう。

(構成)


[*]
今回の配信分は 13/05/13配信 170号 の「創造上の鎖全体をその限界まで持って行けた」場合の解説。

[*1] もどかしさとは、作用が反作用と出逢い、【目標】を達成するためにより複雑に、より能動的になるさまを指します。
12/05/21配信 161号 の作用と反作用についての教示を参照に。
13/07/22配信 173号
諸君の(創造活動の)途上には別の邪魔物がある。
その一つは曖昧さだ。
戯曲の、創造上のテーマが曖昧な事もあれば、演出のプランがかっきりしない事もある。
役の工夫が間違っている事もあれば、その【目標】が明確でない事もある。
俳優が、彼の選んだ表現手段について不安な事もあるのだ。
諸君が、疑問や不決断がどんなに俳優を圧迫するものか、わかってくれさえしたらねえ!
そういった状況を始末する唯一の方法は、全て精密さの足りないものを一掃する事である。


[*]
今回の配信分は「創造上の鎖全体をその限界まで持って行く過程」における障害についてのもので、システムの基本的な教えの再確認でもあります。
「曖昧さ」に関しては03/05/08配信 003号03/11/25配信 022号を参照に。

また、「曖昧さの一掃」は【与えられた環境】や【創造的想像力】【目標】【身体的行動】といった様々な要素に生気を与える【小さな真実(【信頼と真実の感覚】)】に直接影響を与えるのですが、これもそれに拘りすぎると「やり過ぎ(ディテールのためのディテール)」になってしまいます。
つまり、創造活動にとって有益である限りにおいて「一掃する」というバランス感覚が必要なのです。
05/11/11配信 073号〜074号あたりも参照にしてください。
13/08/10配信 174号
ここにもう一つの脅威がある。
彼らは、彼らの力で解決できない問題に手を出すのである。
老人が若者を演じたがったり、悲劇的才能のないものが悲劇を演じたがるのだ。喜劇的センスに於いても同様である。
あるいは、まだ力の無い駆け出し俳優が、困難な大役を演りたがる。これらは、空々しい、紋切り型の、あるいは芸術の利用に終わる事がほとんどである。
それらも(芸術と、諸君の成長の両方にとっては)邪魔物で、それらから逃れる唯一の手段は、諸君の芸術と、それとの関係における諸君自身とを知る事である。

もう一つよくある障害は、あまりにも小心翼々とした仕事振り、あまりにも大きすぎる努力や意気込みから起こる。
俳優は、息を切らすのだ。
彼は自分に、『何か実は感じてもいない事に、外的表現を与える』ように強いるのである。これは彼の状態を良くするどころではない、むしろ全く逆の作用を及ぼすだけなのである。
ここで出来る事は、その俳優に、そんなに汲々としないように忠告するという事だけなのだ。

(構成)


[*]
俳優の創造活動における邪魔物についての続き。
二つとも、実によく見かける事である。
特に「何か実は感じてもいない事に、外的表現を与えようとする」は、少し慣れた人でも陥りやすい罠なので警戒しなくてはならない。
03/10/03配信 017号も参照にしてください。
13/08/30配信 175号
今度は、俳優の創造活動を助け、彼を潜在意識の領域へと導く条件や手段について話そう。
この件について話すのは難しい。何故なら、それは必ずしも推理に従わないからだ。
我々はどうしたら良いだろう? 【超目標】と【行動の貫通線】を論ずる事に変えれば良いのである。
その理由は、第一にこの二つは性格が著しく意識的で、推理に従うからだ。
ほかに、この二つを選ぶ理由は、今日のレッスンではっきりするだろう。(中略)[*1]

「そうすると、一人は相手の注意を惹かんがために彼の注意を惹いていたし、もう一人は自分に言われている言葉の中に入り込んで、その本意を心の目で見んがために見ていた、というわけだ」
「いえ、けっして!」
しかし、戯曲全体の【超目標】と【行動の貫通線】とが無いところでは、そういう事にしかなり得ないのだ。そこでは、それ自身のために企てる、個々の無関係な行動以外には何にもあり得ないという事になってしまうのである[*2]」 (構成)


[*1]
他の理由を一言で表すのは難しいが、つまりは、小さな【目標】は最終的に【超目標】に吸収され、小さな【行動】は次の小さな【行動】に繋がって、より大きな【行動】の【途切れぬ線】を作り出す。システムの各要素は、最終的には一つのまとまったシステムとして作用しなればならないという、いつもの主張である。
この解説は【究極の超目標】についても触れながら、俳優修業第一部の最後まで続いている。
この辺りは本来このような抜粋の形ではとても論じきれない重要な部分なので、是非々々俳優修業の再読をおすすめします。
[*2]
この会話部分はレッスンの一齣で、オセロウとイアーゴウの会話のシーンを例に取って【行動】とその核心を成す【目標】は連続線を成すという事を改めて教示したもの。
03/05/08配信 003号 や 03/05/30配信 005号、そして 04/09/24配信 047号 辺りから教示されている【単位と目標】とその連続性に関する項目を参照の事。
13/09/20配信 176号
「どうしたのだ? 何が困るのかね?」
「戯曲のここで、幸福のテーマが切れてしまって、新しい、嫉妬のテーマが始まるという事です」
それは切れたりはしない。それは、戯曲の環境の変化と一緒に変化するのである。(中略)
君はちっともそういう変化を恐れる事はない。それどころかそいつを利用する事を、それを強化する事を学び給え。 この場合、君はただオセロウとデズデモウナとのロマンスの初期の段階や、最近の至福の出来事を思い出して、それからその全てを、イアーゴウがオセロウのために準備しつつある恐怖や苦痛と対照しさえすればいいのだ」
(中略)
もしも君が、戯曲全体を通じて君の進路をそんな風に工夫するならば、君の小さな目標は、自然とより大きな、より数の少ない目的に吸収され、これが【行動の貫通線】に沿って道標みたいな事になるだろう。
このより大きな目標は、潜在意識的に全てのより小さな目標を寄せ集めて、終いには悲劇全体にわたる【行動の貫通線】を形成するのだ

(構成)


[*]
前回配信分の続きで、オセロウとイアーゴウの会話シーンを用いての解説の一齣。
前回同様、04/11/11配信 050号〜の【単位と目標】とその連続性に関する項目を参照の事。
13/10/23配信 177号
世間には『ゲームを知っている』し、ゲームには『老手』なので、超目標を即座に定義できる『経験のある演出家』が沢山いる。しかし彼らに用はないのだ。
また、純粋に知的な主要テーマを掘り起こす演出家や劇作家もいる。それは知的で正しいだろうが、俳優にとっての魅力には欠けているだろう。それは手引きとしては役立つ事が出来るけれども、創造力としてではないのである。
では、我々の内的自然を呼び覚ますのに必要な、刺激的な超目標とはどんなものだろう?

我々は、作家の観点からは正しくないけれども、俳優にとっては魅力的な超目標を使う事が出来るだろうか? 否。それは無用であるばかりか、危険である。それは俳優を、役と戯曲から引き離す事が出来るだけだ。

単に知的なだけの超目標はどうだろう? 否。純粋理性、無味乾燥な産物は使う事が出来ない。しかし興味ある創造的な思考から出てくる意識的な超目標は不可欠なのである。

情緒的な性質はどうだろう? それは我々には空気や日光のように、絶対に必要である。
では、我々の身体的及び精神的存在全体を包み込む、意志に基づく超目標は? それもまた、必要である。

諸君の注意全体を吸収し、真実の感覚や信頼の感覚や、諸君の【内部の創造的状態】の全ての要素を満足させる、諸君の【創造的想像力】に訴えるような超目標は?
諸君の【内的原動力】を活動させるそういうテーマは全て、芸術家としての諸君にとっては食物であり飲物なのだ。

そこで我々が必要とするのは、劇作家の意図と調和し、同時に、俳優の魂の中に感応を喚び起こすような超目標である。
すなわち、我々はそのテーマを単に戯曲の中だけではなく、俳優自身の中にも探さなければならないのだ。



[*]
前回の【行動の貫通線】のレッスンに続き、【超目標】の性質についてのまとめを解説している一齣。
超目標は必然的に多数のより小さな目標を内含しているので、「 目標の性質の定義」をより普遍化させたものとも言える。 05/01/13配信 054号 の補足解説にある「 目標の性質の定義」も参照の事。
13/11/15配信 178号
そればかりではない。
それを演ずる全ての俳優のために立てられた、同じ役の、同じテーマが、彼らの一人一人から違った表現を引き出すだろう。(中略)

全てそういった個性的な反応が、大きな意義を持つのである。それは戯曲に、生命と色彩とを与えるのだ。
それがないならば、主要テーマは無味乾燥で、生命がないだろう。
テーマに、あのそこはかとない魅力を与えて、それが同じ一つの役を演ずる全ての俳優に同じ感じを与えるようにするものは何だろう?
大部分は、不思議な事に我々が緊密に共有している潜在意識の領域から起こる、我々が解明できない或るものなのである。(構成)


[*]
前回の教示に直接続く部分。中略部は例を揚げて解説しているが、次回でより分かり易い例を紹介するため割愛。
13/12/02配信 179号
リト「それはつまり、貫通線は演ずる俳優によって変わりうるという事ですか?」

KS「超目標は一つです。しかし貫通行動の再創造の方法はいろいろあり得ます。必要な事は、俳優達がそれを形式的に持ってくるのではなく、自分自身の生活、情緒的記憶から役の中に持ってくる事です。では超目標はどこから持ってきましたか? 役からです。つまり一つ一つの創造過程の場合のように、俳優と役の合体が起こるのです。(中略)」

レオ「あなたは作者が暗示した超目標を推察します。しかしもし、例えばあなたと私が市長を演ずるとしたら、我々には同一の超目標がなければならないわけでしょうか?」

KS「同一のものです。しかし二人のそれはわずかに違っています。あなたの場合には青みがかったバラ色で、私の場合は緑がかったバラ色です」

レオ「我々はいろいろなコースを進むけれども、一つところに到着するわけですか?」

KS「あなたの概念に於いても私の概念に於いても、それは同じものです。異なる理由は、これがあなたの生活と私の生活の結果であり、情緒的記憶の結果であるからです」

レオ「市長の生活からは?」

KS「これはあなたの生活になったのです。それは、あなたに反映したものと私に反映したものとわずかに異なるでしょう」


[*]
これは1936年4月13・19日に行われたモスクワ芸術座の指導的俳優、演出家達との座談の記録で、KSが独自に探求してきた新しい方法(システム)の諸要素と全体像について、古巣のベテラン達に披露・解説している。
当時は、KSの助手的活動をしていた一部を除き、多くのベテラン達にとってシステムはまだ霧の中だった。
引用は「演出者と俳優/未来社」より。尚、本サイトでは混乱を避けるため、元翻訳の用語を一部変更する等、手を加えている。

ここでは、前回配信分のように超目標はテーマと言い換えた方が一般的には分かり易いかもしれない。
システム実践者にとっては「単位は能動的な動詞で」なので、超目標の方がしっくりくるのである。

リトフツェワは有名な女優・演出家で、名優カチャーロフの夫人。
レオニードフも俳優・演出家として名高く、KSの晩年の仕事を手伝っていた。
他には、ケドロフ、スダコフ、クニッペル(チェーホフ夫人)、カチャーロフ、トポルコフ等が出席している。
14/01/29配信 180号
「それ[*1]をどうやって手に入れるのですか?」
「君がいろんな『要素』を取り扱うのと同じようにしてだ。君はそれを真実さと、それに対する誠実な信頼との極限まで、潜在意識がひとりでにやってくるところまで押し進めるのである。
ここでもまた君は、『要素』の機能の極度の発現を論じたとき、また行動の貫通線の問題を取り上げたときに行ったのとまったく同じように、あの小さくはあるが並外れて重要な、わずかな『付け足し[*2]』をしなければならないのだ。
それを内的準備無しに行うのは不可能なのだ。

多くの劇場で行われている方法はこうだ。
演出家は前もって戯曲を調べ、ほとんど最初の稽古で俳優にそれを告げ、俳優は彼の指導に従おうとする。
ある者は偶然に戯曲の内的本質を掴むかもしれないが、そうでない者は外的な、形式的なやり方でそれに近づくだろう。
彼らは、最初は彼らの仕事に正しい方向を与えるために演出家のテーマを使うかもしれないが、やがてそれはないがしろにされるだろう。
彼らは演出の様式や『段取り』に盲目的に従うか、プロットと、外的行動や台詞を機械的に伝える事に大わらわになるかである。

勿論、そんな結果へ導く超目標は、その意味と価値をすっかり失っている。俳優は、主要テーマを自分で見つけなければならないのだ。
もしも何かの理由でそれが誰か他人から与えられるならば、[*3]彼は彼自身の情緒がそれで動かされるまで、それを彼自身の存在で濾さなければならないのである。」

(構成)


[*1] 今回配信分は前々回の続き。この「それ」とは前々回の「我々が解明できない或るもの」の事。

[*2] この、創造過程を活性化させる「付け足し」については、一番代表的なものは【魔法のもし】だが、もっと些少なものも含めてシステムではあらゆる要素の解説で触れられている。
一例として、04/06/18配信 039号06/09/02配信 090号 等も参照に。

[*3] 「彼自身の情緒がそれで動かされるまで、それを彼自身の存在で濾さなければならないのである」というのは、つまり 08/04/08配信 123号 の解説で引用した「我々の芸術では、『わかる・理解する』とはただ知的に理解するという事ではなく、『情緒的にも感ずる』という事を意味する。更に言えば、それを『なし得る(=与えられた環境の中で、役の人物として誠実に行動できる)』という事を意味するのだ。」という事である。
14/03/13配信 181号
俳優は、他人から与えられたものではなく、彼自身の経験を持たなければならない。しかもそれが、彼が描くべき人物の経験に類似しているという事が重要なのである。

俳優は、食用鶏のように肥らされるわけにはいかないのだ。彼自身の食欲がそそられなければならない。そいつが起これば彼は単純な行動のために必要とする材料を要求するだろう。そして与えられたものを消化吸収し、それを彼自身のものとするだろう。

演出家の仕事は、俳優に餌を詰め込む事では無く、彼が役に生命を吹き込むディテールを自ら探し求めるように仕向ける事である。
俳優は知的な分析のためにディテールを集めるのではなく、実際の【目標】を遂行するためにそれを欲するようになるだろう。
このとき、彼の目的を達するのに直接必要の無い知識や材料は彼の頭を混乱させ彼の仕事を邪魔するだけであるから、それを避けるように注意すべきである。殊に創造の初期の段階ではそうなのだ。



[*] 前回配信分の続きで、内容的には前回の補足と、「俳優に演技のトリックを詰め込むのではなく、自力で形象の創造が出来る俳優を養成する教育」というK.Sの主張が現れている。
14/03/31配信 182号
我々が論じている仕事は、戯曲そのものから取られてそれに生きた雰囲気を与える、小さく近づき易い、身体的な目標や小さな真実や、それらに対する信頼から出来上がっている線を作り出す事を土台にしているのだ。

劇中人物の一人が、部屋へ入らなければならないとしよう。君は自分が誰で、どこから来て、どんな部屋に入り、何をするつもりなのか? その家には誰が住んでいるのか、今はいつなのか、何が見え、聞こえ、感じられるのか、そしてそれらのうちで何が重要で何が重要で無いのか、そのほか君の行動に影響を与えるに違いない沢山の与えられた環境を知らないうちは、そいつを正しくやる事は出来ないのだ。

君がしかるべく部屋に入る事が出来るようにその全てを埋めるという事は、戯曲の生活について様々な事を考慮するという事を君に余儀なくさせるだろう。

(構成)


[*] 前回配信分に続く部分で、生徒との細かいやりとりを省略すると、「僕らは戯曲を研究しなくても良いのですか? つまるところ、僕らは何をすれば良いのですか?」という質問に対する回答。
俳優修業ではこの後、
そればかりではない。俳優はそういった仮定を自分で工夫して、それに彼自身の解釈を与えなければならないのだ。 もしも演出家が彼にそいつを押し付けるような事をするならば、結果は無理非道になる。
私のやり方では、俳優は彼の必要とするものを必要なときに演出家に要求するのだから、そういう事は起こりえないのだ。 これは、自由で個性的な創造には重要な一条件である。
芸術家は、それが役の生きた魂を形成できる唯一の材料なので、彼自身の精神的で人間的な材料を十分に使わなければならない。
たとえ彼の出資がわずかであっても、それは彼自身のものなので、価値があるのだ。

と続きます。
これはシステムの教示の中で、「考えるな、行動せよ」として伝えられていることなのですが、これをこの生徒のように「考えるな=戯曲を研究しなくても良い」と捉えるのは大きな間違いです。
この場合の「考えるな」は「どう演じるか(というような結果の事)を考えるな」であり、「行動せよ」は「役の人物として行動せよ」と言う意味です。
つまり、演技のトリックを考えるのでは無く、【与えられた環境】や【目標】について十分に考慮し、そして役の人物として誠実に行動せよ、という、いつもの教えそのままな訳です。

尤もこれも「殊に創造の初期の段階ではそうなのだ」という前回と同じ付け足しをした方が良いかもしれませんが、問題が先に進みすぎるのでここでは省略します。
14/04/30配信 183号
わからなければいけない。さもないと君は、役を演ずる事など出来やしない。君はただ、台詞を機械的に言い、真実の代わりに振りをして演ずるだけだろう。

君は役の人物の立場に似た或る立場に身を置かなければならないのだ。
もしも必要なら、君は新しい仮定を加えるだろう。君は君自身が似たような立場に立った事があるか、そのとき何をしたか、思い出そうとしたまえ。
もしも君にそういう経験が無いならば、君の想像の中に状況を作り出したまえ。ときとすると君は、想像の中では実生活よりもより激しく、より鋭く生きる事も出来るのだ。

もしも君が、仕事のための準備をみんな機械的にではなく人間的で誠実なやり方でやるならば、もしも君が君の目的と行動とで一貫していて論理的であるならば、そしてもしも君が役の生活の付随条件を全て考慮した【与えられた環境】を持っているならば、君はどう行動すれば良いか肌で感じられるだろう。
君の決めた事を、戯曲のプロットと比較したまえ。君は多かれ少なかれ、それとの或る【血の繋がり】[*1]を感ずるだろう。
君は、君が役の人物の環境や意見や社会的地位を与えられれば、彼のように行動せざるを得ない[*2]のを感ずるようになるだろう。
そういった俳優と役との親密さを、我々は「役の中に自分を、自分の中に役を知覚する」と呼ぶのである。
(構成)


[*] 前回の「部屋に入る」というエチュードを例にした教示の続きで、
「プロットが展開して君がその部屋に入ると、君は債権者に出会う。君は彼への債務の支払いが大幅に遅れていると仮定したまえ。君はどうするだろう?」 という問いに
「わかりません」
と答えた生徒に対する教示。

[*1] 【魔法のもし】の解説の中で、チェーホフのレールからナットを外した農夫の話を題材に、【類似の感情】【俳優と役の血の繋がり】といった状態を説明している。

[*2] これが、【我在り】といわれる「自分の行動や目標、対象に対する態度等に対する確固たる確信」、若しくはそれにつながる直前の状態。
14/05/30配信 184号
君が戯曲全体を、その場面や断片や目標を全て調べて正しい行動を見つけ、そいつを始めから終わりまで実行する事に慣れると仮定したまえ。
そうすれば君は、我々が【役の身体的生活(の線)】とよぶ、行動の外的形式を確立するだろう。
(中略)
君が記憶すべきは、君の工夫した行動(の線)は、単に外的なものではないという事である。
それは、それを生み出した【役の内的生活(の線)】に基づいているのだ。それはそれに対する君の信頼でもって、強められているのである。
君が外的行動の線を誠実に追うとき、それに対応する情緒[*1]を持たないというわけにはいかないのである。

役と君の自我が入り交じって、二つの間に線を引く事が出来なくなってきたら吉兆である。君は君自身を、今までに無く役に近しく感じるだろう。
もしも君が戯曲全体をそんな風に辿れるようになれば、君はその内生活のリアルな概念[*2]を持つだろう。君は君自身で有りながら、役の人物として考え、感じ、物を言う事が出来る。[*3]
それは、君の仕事をシステマティックに、細かく展開するのにこの上なく重要なのである。君が内部の源から汲んで付け足すものが、みんな正しいところを得るだろう。

だから君は、役(の生活)をまるでそれが君自身の生活であるみたいに具体的に捕まえるところまで、君自身を持って行くべきなのである。

(構成)


[*1]  ここでは「それに対応する情緒」として、情緒・感情についてのみ触れられているが、実際には心理状態・意志・思想・能動性についても同じ事が言えるし、さらに先に進むとある種の生理的な反応や状態のような不随意的なものについても問われる場合がある。

[*2]  この「内生活のリアルな概念」が、演技に反映されて「俳優自身が感じるリアリティ」になる。
05/06/02配信 063号を参照に。

[*3]  「役の人物として考え、感じ、物を言う事が出来る」の部分はまさしく、03/08/12配信 012号に書かれている「正しく演じる」と言う事である。
14/07/23配信 185号
君は、君のゴールへ直接攻撃で達しようとして、『漠然と』演じるのが常だった。
君が成し遂げたのが、君の描こうとしている人間の、感情の外面的な、間違った描写をすることだったのは驚くに当たらない。

しかし君がこのコースで学んだ後には、君は全く違った道を辿った。
君は観客の感情に直接攻撃はやらなかった。君は種子をまいて、それに実を結ばせたのである。君は創造的自然の法則に従ったのだ。

技巧だけでは、君が信ずることが出来て、君も観客も両方とも没頭することができるような形象を創造することは出来ないのだ。
君は今では、創造が技巧のトリックでは無いと言うことを知っている。それはかつて君が考えていたような、イメージや感情の外的描写ではないのだ。

我々のタイプの流派の創造は、一つの新しい存在 ―― 役における人間の受胎と誕生なのだ。
それは、人間の誕生に似た、一つの自然的な行為なのである。
舞台で創造される一つ一つの演劇的で芸術的な形象は、ちょうど自然でのようにユニークで、繰り返されることは出来ないのである。

人間の誕生のように、そこには胎児の段階があるのだ。
創造的過程には父親、すなわち戯曲や戯曲の作者があり、母親、すなわち役を孕む俳優があり、子供、すなわち生まれるべき役(形象)があるのだ。

そこには初めて俳優が役を知るようになる初期が有る。
次に彼らはより親密になり、ときには喧嘩をし、また和解し、結婚し、そして受胎するのだ。
この全てにおいて演出家は、一種の媒酌人としてその過程を助成するのである。
(構成)


[*] 俳優修業では前回の教示の後、【反復性(再創造性)】【最高の超目標】に少し触れてから今回の教示に続いていく。
(【反復性(再創造性)】【最高の超目標】についてはここでは割愛)

今回の教示がシステムやK.S派の基本的スタンスを主張したものであり、俳優修業第一部はここで終わる。 教義は引き続き第二部へと続き、第一部が『俳優の自分自身に対する仕事』の内的要素についての解説が主だったものに対し、第二部では外的要素に関するものと『役に対する仕事』に関する要素や技術がメインとなっている。
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