スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・バックナンバー 186〜200

14/08/11配信 186号
人物を創造するのに必要な多くの内的要素と、それを創造する過程を自分のものにできたとしても、その人物を身体的な表現で形成することをなし遂げるにはどうしたらいいだろうか?
外的形式なしには、我々の内的性格描写も形象の精神も観客にはとどかぬだろう。
外的性格描写が我々の役の内的様式を説明し、図解し、それによって観客に伝えられるのである。
(構成)


[*]
俳優修業第二部で、最初に語られる教示。
この第二部以降の内容が本として出版されるのが遅れたため、システムは写実的リアリズムの為のものといったような狭い解釈や間違った評価が世に蔓延した。

尚、英語版の俳優修業はそれぞれ、第一部が『An Actor Prepares(俳優の準備)』、第二部が『Building a Character(性格(役)を創り上げる)』とタイトルが付けられていて、これは我々の流派でいうシステムの幾つかの段階と同じ名前だが、俳優修業の内容が必ずしもこの段階について述べられているわけでは無い。
これを誤解せぬように改めて整理しておくと、次のようになる。

我々の流派で言うところの三つの段階は以下の通り。(二番目と三番目の区別は、何をもって(どこからどこまでを)創造と言うかによってかなり曖昧になるのだが…)
1.『自分自身のための仕事』⇒ 内的な要素及びそれに関する技術的手段(A)、外的な要素及びそれに関する技術的手段(B)、またそれらの相互影響と作用
2.『役の創造のための仕事』⇒ 内面的な創造過程の諸要素等(C)、外面的な創造過程の諸要素等(D)、及び一人の人間としての人物形成における内外面を統一した創造過程に関する諸事項
3.『創造した役の、表現のための仕事』⇒ 上記にて創造した役を、上演の趣旨や再創造性を含む上演全体の諸条件等を考慮した上で、実際の形象として表現するための仕事に関する諸事項。(E)

さて、俳優修業一部では主にAの部分が述べられ、二部ではBやCの部分にページが割かれているが、第一部でも戯曲の抜粋部分を教材としたシーン等では当然Aと共にCについても触れられているし、身体的行動や単位と目標の章などではBやDについて解説している。
第二部ではAを完全にマスターしていることを前提にBやCに主眼が置かれた解説になっており、Bを解説しながらCやDについても触れている。また、場合によってはEに関することまで話が広がっている。
つまりは、各要素や技術的手段だけを個別に解説している事もあれば、A〜Eと言った分け方など消え失せて創造や表現の本質について融合・統一されたものとして述べられている場合もある訳で、単純に一部が第一段階について、二部が第二段階について書かれたというようなものでは無いと言うことである。
またKSの逝去により、内容的には第三段階に含まれるような上演・演出の様式と演技について等、残念ながら俳優修業だけでは纏め切れていない事柄も多い。
これらは単発で発表された小論文や、K.Sの稽古場の記録として弟子達が纏めた書籍等の中で伺うことが出来る。
14/09/08配信 187号
その外的な、身体的な性格描写はどこへ行けば手に入るのだろう?
一番多いのは、殊に才能のある俳優の場合には、創造されるべき人物の身体的具体化は、一度正しい内的価値が決まるとひとりでに現れてくるものだ。
正しい精神的形式が決まるやいなや、正しい内的性格描写が形象にとって適切な全ての要素でもって織りだされるやいなや、何処からとも知れずその役独特の典型的な喋り方や歩き方、そのほか諸々の特徴が生まれるのである。

しかし、そんな幸運に恵まれない時はどうすればいいだろうか?
外面的には『変装』するということは難しいものではない。衣裳やメーキャップがそうであるように『何々らしく歩く』とか『何々らしく喋る』という外面的トリックはちょっとした工夫で出来るものだし、時にはその『変装』が刺激となって未完成の内的性格描写を完成させることもあるものだ。
勿論その場合には『変装』は役にとって適切で、典型的なものでなければならない。
もしもトリックが間違ったものならば、それはただ役を歪め、俳優を役から引き離すだけだろう。

俳優は外的性格描写を、自分自身から、他人から、現実の生活から、想像の生活から、直覚や観察により引き出すのだ。
彼がそれを求めるのは、自分自身の生活経験や友人のそれから、絵画、映画、書物、物語、小説などから、あるいは何か簡単な出来事からなど、何でもいい。
唯一の条件は、彼がこの外的探求を試みるに当たっては、決して単なる模倣に終わらせてはならない、内的自我を、目標と真実とそれに対する信頼の感覚を失わず、『行動』しなければならないということである。
(構成)


[*]
前回の教示に続くもの。
尚、「一度正しい内的価値が決まるとひとりでに現れてくるものだ。(中略)諸々の特徴が生まれるのである」や、ここ以外でも俳優修業で語られているそれに類する外的性格描写のほとんどについては、あくまで『俳優の、役の創造についての仕事』レベルで論じている事柄で有り、『創造した役(形象)の、表現についての仕事』に関してのものではない。
つまり、創造過程の法則の問題と、演出や作品の表現における主義や方法の問題は違うと言うことで有り、この辺りを混同するとシステムが極端に狭い方法論になってしまうので注意が必要である。
14/10/01配信 188号
役に関係のある情緒や性格を自分自身のうちに求め選ぶという事と、自分のよりやり易い手段に適合するように役を変更するという事との間には、大変な相違があるのだ。

ある俳優は自分の顔やプロポーションに絶大な自信を持っていて、それが確かに魅力的なものだから性格描写など無用と考えている。
彼等はあらゆる役を彼等自身の個人的魅力に適応させるのである。

また、自分の魅力に頼る別のタイプもある。彼等は自分の魅力が、自分の感情の深さや、それを体験する場合の神経質な激しさにあると信じている。
彼等はどんな役をやるにもそれを拠りどころにし、自分の一番強い、生まれながらの属性で役を飾るのだ。

最初のタイプが自分の外的属性に惚れているのに対し、後のタイプは自分の内的性質に冷淡ではいられないのである。
(構成)


14/11/03配信 189号
もう一つ、別のタイプがある。この経験のある、年季の入った俳優は、彼のオリジナルな流儀、紋切型を自分流に見事に調理した特別の珍味をもっている。
ある役の場合には、彼の演技は深い性格描写や、『大きな役作り』と誤解され喝采を得るのだが、彼のほかの役を見ていくにつれ、その変わり映えしない珍味こそが不満なのである。

またもう一つ、自分で紋切型を作り出すことは出来ないが、世界中のあらゆる紋切型や技巧に精通しているタイプもある。
彼等の役は、紋切型や技巧さえマスターしていれば他の誰がやっても同じになるような、観念的な、類型的なものなのである。

これらは全て、最少抵抗線である。彼等は自分における役ではなく、役における自分を愛しているのだ。
(構成)


[*] ここ何回か続いている、外的性格描写に関係した教示。
最後の「彼等は自分における役ではなく、役における自分を愛しているのだ」は 03/09/22配信 016号 の解説を参照に。
(ここでは、【芸術の利用】を戒めた言葉と同様、最少抵抗線を辿る事を戒めた言葉として使われている)
14/11/19配信 190号
性格の創造をめざす正道とは、また、邪道とはどんなものかをもっとはっきりと説明する為に、俳優の百面相の簡単な輪郭を述べよう。
舞台では、人々があらかじめ分類されているところの、一連のカテゴリーを表面的に観察するという目的のために、性格を、商人、軍人、貴族、農民、などという一般的な表現をもってすることが可能なものだ。
それは、目につくマンネリズムや身ごなしの類型、口調や声色の類型を作り出すのが難しくないのである。

例えば軍人は、原則として堅苦しい、直立した姿勢をとり、なみはずれて声高な吠えるような調子で物を言う。農民は唾を吐き、ハンカチなしで鼻をかみ、上着の袖で口を拭く。貴族はいつもシルクハットとステッキ、手袋を身に付け、身振りや物言いは気取っている。
これらは全て性格を描写するものとされている、概括された紋切型である。

それらは確かに実在はするけれども役の人物の性格の本質ではなく、職業や地位といった与えられた環境の付随条件の傾向の一つの現れにすぎないし、個性化されてはいない。
それらは役の性格ではなく、括弧付きの「軍人」「貴族」であり、特別に舞台の為に準備した「何々一般」なのである。
以上は多くの劇場において俳優が「なすべきこと」になっている、伝統的な、生命の無い、陳腐な描写である。それは生きた人間ではなく「儀式中の人形」なのだ。

それらは純然たる外面的模倣に俳優を導く傾向がある。しかし(特に我々の芸術に於いては)そういう模倣は創造物ではない。それは向かってはならぬ方向なのである。
(構成)


15/01/17配信 191号
とはいえ、外的性格描写の探求というものは、俳優にとって必要欠くべからざるものでもある。
もう一度繰り返そう。
外的形式なしには、我々の内的性格描写も形象の精神も観客には届かない。
外的性格描写が我々の役(形象)の情緒、心理、欲望などを説明し、図解し、それによって観客に伝えられるのである。
描かれる役の『内的生活』が複雑であればあるほど、それを表現するための『身体的形式』は益々デリケートで分かりやすく、深みを持った、芸術的なものになるべきなのである。


話を戻そう。
一段と鋭い観察力を持っている別の俳優は、(上記の)ありきたりの人形の大ざっぱなカテゴリーを更に細かく分けることが出来る。
彼らは軍人の中でも、普通の連隊と近衛連隊の区別が付けられるし、歩兵と工兵、下士官と士官、等を分けることが出来る。また商人でも小売商と貿易商の違いや、扱う商品による商人気質の違い、生まれ故郷による違いなどを演じ分けることが出来る。
彼らはそういった様々な小グループの代表者達に、その小グループにとって典型的な特徴を与えるのだ。
そうなるとそれは「軍人一般」ではなく軍曹や陸軍大将であり、「商人一般」ではなく呉服問屋の丁稚とか材木商の主人となるわけである。 (構成)



15/02/09配信 192号
第三のタイプには、更に高度の、細かい監察のセンス、役(性格)の分析と準備が見られる。
そこにはイワン・イワーノフという一つの名前を持ち、他のどの工兵にもない特徴(イワンとしての生活や人生観等)を備えた、一人の工兵を見る事が出来る。
彼はもちろん軍人の中の一人だし、工兵隊の中の一人の工兵ではあるのだが、同時にまたイワン・イワーノフという名前を持った一人の人間として、まさしくそこに存在し、行動しているのである。

性格描写は、役の消化、役の正当化の後に出来上るもので、俳優個人を隠す仮面なのである。
それに保護されて、俳優は自分の魂を、このうえなく個人的な細部に至るまで打ち明けることができるのだ。
これが性格描写の一つの重要な属性、若しくは特徴なのである。

性格描写というものは、これに真の転身が、一種の生まれ変わりが伴う場合には大したものである。
そして俳優というものは、演じている間は形象を創造することを要求されるのであって、[*]ただ観客に自分(の外的及び内的属性)をひけらかすだけではないのだから、それは我々の全てにとっての必需品となる、或るものなのだ。
言い換えれば、芸術家たる俳優は全て、形象の創造者は、自分をして役の『化身』となることを可能ならしめるような、内的及び外的な性格描写を利用すべきなのである。
(構成)


[*] 14/10/01配信 188号の『自分の魅力に頼る2つのタイプ』を参照。
15/04/23配信 193号
日常生活で我々は、猫背やぎくしゃくした歩き方、キョロキョロと落ち着かない目つき、もごもごしたしゃべり方などには慣れきっているので、そういうものと出会ってもたぶん格別の注意を払わないだろう。

しかし我々が舞台に足を踏み入れると、それら多くの身体的欠陥が、すぐに観客の注意を惹く。
そこでは俳優は、観客にまるで拡大鏡を使っているように細かく調べられるのだ。

身体的欠陥を持った性格を見せるのが彼の意図である場合は、俳優はそれをちょうど適当な程度に見せるようにすべきだが、それ以外の場合は自分の作り出す印象にマイナスになるよりはプラスになるような、くつろいだ態度で彼の行動を遂行すべきである。
これをやるためには、十分な活動態勢にある、最高度なコントロールの可能な、健康な肉体を持たなければならない。

そして、肉体訓練によってもたらされるべきもう一つ別の、より重要でさえあるものを考慮すべきである。
軽業師が首の骨を折るかもしれぬ離れ業をやる瞬間に、放心したり怖じ気づいたりしたらとんでもないことになるだろう。
そこには優柔不断の余地はない。彼は躊躇することなく、チャンスと自分の熟練との中に、我が身をゆだねなければならないのだ。

それがまさしく、役の頂点に達したとき俳優がやらねばならないことである。
そういう瞬間に俳優は、立ち止まって思案したり、疑ったり、迷ったり、用意の程を試したりすることは出来ない。
彼は、魂を解放し、行動しなければならないのだ。

ところが大多数の俳優は、全く違った態度を取る。
彼らはきわどい瞬間を怖がり、そのずっと前から骨を折ってその準備をしようとする。
これは彼等を神経質にし、圧迫を感じさせるもので、そのために彼等は役に完全に身を委ねる事が必要な高潮したところで、自分を解放することが出来なくなってしまうのである。
(構成)


[*] 各種の肉体訓練と矯正の重要性について説いたもので、一歩進んで、精神的な萎縮に陥らない為の見地からも、肉体訓練におけるある種の「訓練と技術に裏付けされた思い切りの良さ」が必要であることを解説している。
15/05/23配信 194号
動作を完了するということは、非常に重要なことだ。
なぜならば、途中でぶった切られた、ざわついた身振りというものは、(なにか途中で制止されたといったような、それが目的の特殊な場合を除いて)演技にはふさわしくないからだ。
(中略)
こういった動作の柔軟さ、連続性、完了を学ぶには、バレエその他の舞踏や体操の練習に役に立つ点が多い。
(中略)
体操がぶっきらぼうなまでに明快な動作を発達させ、リズムに強い、ほとんど軍隊的なアクセントを付けるのに対し、舞踏は身振りに、なだらかさ、のびやかさ、抑揚を作り出す傾向がある。
両者は相俟って、身振りを開かせ(=明快にさせ)、これに線や、形や、方向や、軽快さを与えるのだ。
体操の動作は直線であり、舞踏では線が曲線で変化がある。

しかしバレエや舞踏は、形の過度の洗練に、誇張した優雅さに、気取りに導くことが少なくない。
例えばバレエの踊り手は、なにか手で指し示すような場合に、身振りに幅や大きさをつけるために、素直に手を必要な方向に向けるのでは無く、一度反対方向に振るようなことをするものだ。
舞踏家が首や体の向きを変えるときも、同じようなことをする。

これは対象を舞台のずっと向こうまで連れて行くもので、そういう不釣り合いに拡げた大きな動きをすることによって、彼等は必要以上の美しさや華やかさを得ようとするのだ。
これは、構え、センチメンタリティ、わざとらしさ、不自然で滑稽なことの少なくない誇張になるものだ。

それをある種の様式美というならそれはそれで別世界のことなのでかまわないが、しかしそれらをそのまま我々の芸術に持ち込むことは出来ないのだ。

演技には、身振りのための身振りに過ぎぬものは、一つもあってはならない。俳優の動作は常に目的を持ち、役の内容と関係づけられねばならないのだ。
なぜならば、我々の目的は役の内的精神生活を創造し、体験し、それを美しく、分かり易く、親しみを持った形式、すなわち芸術的な形式で表現することにあるからである。
目的のある、生産的な行動というものは、気取り、構え、わざとらしさ、その他の、こういった危険な結果を自動的に排除するだろう。
(構成)


[*] 中略部分はそれぞれ具体例を挙げて解説しているところ。
この後も、動作の柔軟さや連続性について同様の解説が続き含蓄のある言葉が随所に現れるが、それらを断片的に採り上げても前後のつながりが無いと分かりづらく、また長くなるので割愛する。
15/06/24配信 195号
一面に十文字の線が引かれ、染みが付いている紙の上に、風景なり肖像画なりのデリケートなスケッチを描くように要求されたとしよう。
その要求を果たすためにはスケッチを汚くし、台無しにしてしまう余計な線や染みを紙から消さなければならない。

それと同じ事が我々の仕事にもあるのだ。余計な身振りは汚い線や染みに等しい。俳優のむやみに身振りたくさんの芝居というものは、さっきの汚い紙みたいなものなのだ。
だから俳優は、性格の外的創造を、身体的表現を、役の内的生活を具体的な形象として創造するに先だって、余計な身振りを全て自分自身から取り除かねばならない。
そうあって初めて彼は、彼の身体的具体化のために必要な輪郭の鋭さを得ることが出来るのだ。

抑制されぬ動きは、それが俳優自身にとって自然なものであろうとも、役のデザインを汚くし、彼の芝居を不明瞭に、単調に、そしてコントロールされぬものにするだけである。
俳優は常に自分が身振りをコントロールし、身振りが自分をコントロールする事がないように、身振りや仕草に手綱を付けるべきである。
(構成)


15/07/09配信 196号
激しい情緒のドラマを経験している最中の人間というものは、それについて筋道立ててものを言うことは出来ぬものだ。
と言うのは、そういう場合には涙が彼の息を詰まらせ、声は割れ、感情の圧力が彼の思考を混乱させ、見るも哀れな彼の様子が観客の注意をそらせて、観客が彼の悲しみの他ならぬ原因を理解する事を妨げるからである。

しかし偉大な癒し手である時というものは人間の内部の激動を沈静させ、過去の出来事に関して落ち着いて振る舞うことを彼に可能ならしめる。
彼はそれについて落ち着いて解りやすくものを言うことが出来るし、物語を続けながら、観客の方は泣いているのに彼は自分自身をコントロールできるのである。

我々の芸術は他ならぬそういった効果を得ようとするもので、彼が役の苦悩を経験し、家でなり稽古でなりは思う様泣くことを、その上で気を落ち着け、役にとって相容れなかったり邪魔だったりする感情を全て取り除くことを要求する。
そこで彼は舞台へ出て、自分の経験したものを、明瞭な、含蓄の有る、解りやすく雄弁な表現でもって観客に伝える。
ここでは俳優より観客の方が感動するわけで、俳優は力をとりわけその必要なところ、つまり自分が描く形象の内生活を遂行することに向けるために、全て蓄えるのである。

俳優は身振りのコントロールと同様に、感情にも手綱を付けるべきである。(構成)


[*] 前回配信分と共に、抑制についての教示。
尚、今回配信分は所謂【体験】やサルヴィニの言う『大俳優は感情で一杯であるべきだ(感情の方面からの教示だが、09/04/24配信 138号の解説等を参照)』を否定するものではない。
俳優自身が自分の感情に流されたりセンチメンタルに陥るのはまだ稽古途中の未完成の段階で、本当に形象を創造するときにはその『一杯の感情』にも手綱を付けコントロールすべきだと言っているのである。

これもサルヴィニの言葉を借りれば、
私が演技をしている間は、私は二重生活を営んでいるのだ。 つまり、私は笑ったり泣いたりすると同時に、私が動かそうとしている人々の胸を最も強く動かすことが出来るようにと、自分の涙や笑いを分析しているのだ。 芸術に必要なのはこの二重性、生活と演技との間の中庸の感覚である
と言うことである。
つまり【情緒的記憶】や【信頼と真実の感覚】や【交感】等の内的要素とともに【単位と目標】【抑制と仕上げ】【パースペクティブ】と言った各要素を操る精神技術も必要で、それら全てが正しく働いて『意識的技術を媒介とする無意識的創造』となる訳である。

この辺りのことも含め、システムの学びはじめは俳優修業の第一部と第二部ではまるで逆の主張をしているように感じるところが有るが、これは『俳優修業』が分冊になると決まったときからKSが『システム=体験』と見なされるやもと、危惧していたことである。

システムの要素とそれらに関する技術的手段、その解説が多岐にわたり莫大な量となり、なおかつ難解なために安易に様々に歪曲され誤解されてきたが、ワフターンゴフの言うように
システムは、全てがシステマティックに首尾一貫しているからこそシステムなのである
と言うことを忘れてはならないのだ。
15/08/04配信 197号
単なる身振り、役にとって何の適切な行動も表現しないような独立した運動というものは、例えばある性格的な役の場合のような特別な場合を除いて、必要がないということを主張する。
ただ身振りを用いるだけでは、役の精神も、全体を通じて流れる大事な行動の途切れぬ線(=役の生活の線)も、観客に伝えることはできないだろう。

それを成し遂げるためには、身体的行動を誘導するような運動を用いなければならない。[*1]
そう言う運動が、今度は演じている役の、内部の精神を伝えるのである。

身振りそれ自体(=身振りのための身振り)というものは、自分の様子の良さを見せつけること、ポーズを取ること、これ見よがしを事とする俳優の商売道具なのだ。
(構成)

[*1] ある運動を【目標をもった行動】に転成させ、その連続線を形成することで外的側面から役に近づく方法。
15/08/21配信 198号
そう言う余計な身振りに加え、俳優はまた役の困難な箇所を乗り切ろうと努力するあまり、多くの何気ない動きをするものである。
浅薄な俳優にとってそう言う動きは、外面的効果や存在しもしない情緒の外的印象、身体的外見を喚起することもできないわけではない。

そしてそういう動きは、芝居じみた情緒を搾り出すことを容易にすると考えられているところの、発作的な痙攣、不必要どころか有害でさえある筋肉の過度の緊張(萎縮)と言う形を取るものである。

しかしそれらは、役にしみを付けるだけではない。
抑制やコントロールといった、俳優が舞台にいる間に必要な要素、彼が役の生活を真に生きる上で必要な状態の邪魔をするものでもあるのだ。

舞台の上の芸術家が抑制をきかせ、自己の動き・身振り・仕草をすっかりコントロールして、そう言う発作的な、痙攣した身振りを全く見ずに済むというのは、どんなに気持ちの良いことだろう。

その抑制とコントロールのために、役の図式がありありと現れてくるのが分かる。
描かれつつある性格の運動や行動は、それらが余計な、無関係な、全く芝居じみた運動・身振り・仕草で曇らされない場合には、測り知れぬほどの意義や魅力を増すものなのである。
(構成)


15/09/22配信 199号
諸君がこの身振りの抑制とコントロールとの意味を自分自身で実験してみれば、諸君は自身の身体的表現がどれだけ拡大し、充実し、より明快で含蓄のあるものになるか分かるだろう。

同時に身振りを少なくすると、その代償として物言いの抑揚や語勢やアクセント、表情やポーズの自在さ、様々なタイミングや長さといった、役の内生活(体験)における情緒のデリケートな陰影を伝えるのに一番よく適した、この上なく正確な伝達の手段が得られるだろう。

身振りの抑制は、性格描写の分野ではとりわけ重要なのである。
あらゆる役で同じ外形を繰り返さぬよう、俳優個人から離れるために役とは関係ない全く個人的な動作を除去することが必須なのだ。
また、個人的な身振りというものは、演じている役の性格から俳優を引き離し、絶えず自分自身を思い出させるものでもある。

俳優が内面的着想の点では自分自身から離れることができぬものならば、せめて外面的にはその役に特徴的な動作でもって自分自身を隠さねばならないのだ。
(構成)


[*] 前回に引き続き、身体的な抑制とコントロールに関する教示。
15/10/09配信 200号
それからまた俳優は、典型的身振りが彼を彼の描いている性格により接近させるのを助けるのに対し、個人的動作が侵入することは、彼をそれから引き離し、彼の純粋に個人的な情緒の方向に押しやると言うことも忘れるべきではない。
必要なものは『類似の情緒』であって個人的な情緒ではないのだから、このことは戯曲の目的にも役の目的にも、まず役立たないのである。

特徴的な身振りは、勿論あまりたびたび繰り返すわけにはいかない。
さもないとそれは、効果を失い、退屈になってしまう。

俳優がこの創造過程において抑制と自己制御(コントロール)とを行えば行うほど、役の形式やデザインはますます明瞭になり、それが観客に及ぼす効果はますます力強くなるだろう。
(構成)


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