Legacy of Stanislavski Laboratory

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−[ヤ]−

【役を生きる芸術】

これは【再現の芸術】【機械的演技】等と共に、『演技の流派』として便宜上カテゴリー分けされた名称です。
(便宜上のカテゴリー分けと云う理由については【再現の芸術】の項をご覧下さい。
またモスクワ芸術座が社会的リアリズム劇を得意としたため、「【役を生きる芸術】=リアリズム劇」と捉われがちですが、流派と様式の問題を同次元で論じるのが誤りである事は、ワフターンゴフのトゥーランドット姫の上演などに於いて実証されていますし、古くはシチェープキンやサルヴィニが多くの古典作品において実証しています)


演技者が完全に戯曲に心を奪われ、役に没頭し、それを力強く深い含蓄と、わかりやすい様式で形象化し(表現し)、観客の方も、そこで行われている事が(虚構世界の出来事という前提の上で)誠実に信じられるほどそれに夢中になれるような状態が生み出せたなら、そんな場合は[成功した瞬間]と呼べるでしょう。

この時の演技者の状態を観察してみると[或る状態]にあることが解ります。
演技者は、戯曲や役を家で研究している時や稽古を通して、自ら決定した、あるいは演出家から出された指示やダメ出しを土台として【役のスコア(演技プラン)】を作り上げるものです。
そして普通はこの【役のスコア】が彼を導くのですが、この[或る状態]の時は少々様子が異なります。
【役のスコア】自体は頭の何処かにあるのですが、彼を導くのは役が求める欲求そのものであったり、気持ちであったりという、【役のスコア】とは別のものです。

そこでは「これこれこういう状態で、相手がこういう台詞を言うから、自分はこの芝居をこれこれの演り方で〜」と云うような計画は無意味なように思われる事さえあります。

それは【役のスコア】が不必要という意味ではなく、[もっと大事な何かを発見した]ような感じです。
しかもその時には【役のスコア】は感情の邪魔をすることはなく、むしろ彼の【行動】の一つ一つを助け、又、彼自身が[もっと大事な何か]によって間違った方向(戯曲の進むべき方向以外の方向や、あるいは戯曲自体と離れた彼の純粋に個人的な方向)へ逸らされぬように見守ってくれます。

その時演技者は、自分自身のその時の本当の気持ちとして、と同時に【役の人物】その人自身として、振る舞い、話しているのです。

こういう状態というのは、単に技巧だけで外面的に表現される演技とは大きく異なっています。
技巧だけの演技が[在りもしない物を捻り出す]のに対し、【役を生きる】ということは、役の人物としてまさしくそこに存在するのです。
それは現実世界には実在しないかもしれないけれど、創造上の世界に確かに存在する人物として、本当に情緒を感じ、行動し、生活しているのです。


#補足として、この演技流派を代表するシチェープキンの文章を引用しておきます。
(前略)機械的に演ずることは、とてもたやすいことだ。そのためには、ただあなたに理性(知性・常識)がありさえすればいい。
つまり理性というやつは、本物そっくりの模造品のように、喜びにも悲しみにもあなたを近づけてくれるでしょう。だが、感受性のある俳優というものは──そりゃ、全く違うものです。
自分自身をバラバラにするところから始める・・・、そして、作家が期待するような人物になる。作家がこうあって欲しいと願うまま、歩き、しゃべり、考え、感じ、泣き叫び、笑うものです。
そうしたら、その努力がどんなに意味深いものかと云うことに気付くでしょう。
最初に云った、理性で演じるときは、ちょっと生活しているふりをして見せるだけでいい。でも、後の方の演技は、本当に生きてみせなきゃいけないんです。(後略)
(スタニスラフスキー伝:シチェープキンがA・シューベルトに宛てた手紙より抜粋)



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