Legacy of Stanislavski Laboratory

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−[サ]−

【再現の芸術】

俳優修業の第一部に書かれている、この流派の第一人者とされるコクランの主張に関しては、かなりの誤謬が生じているように思われますので、この項については少し詳細に述べたいと思います。

まず、俳優修業に書かれている【再現の芸術】の解説とK.Sの見解を簡単に引用しましょう。
ある生徒の演技を、
私は、即興にも、役を感じることにも、更新(役の人物としての生きたもの=再創造性)を認めなかった。
それどころか、方々で永久に固定していて、或る内心の冷ややかさでもってなされる演技の、形式や方法の、精密さや芸術的な仕上げに驚かされた。
が、そういう瞬間に私は、これはその人工的な複製にすぎないが、原物は立派で真実であったのだなと云うことを感じたのである。
と評し、その或る部分を【再現の芸術】とした上で、
【再現の芸術】でも、俳優は役を生きる。しかし、彼の目的は違うのだ。
彼が役を生きるのは、外的形式を完成するための、一つの準備としてなのだ。
ひとたび彼の満足のいく結果が
(稽古などで発見され)決定されてしまうと、彼はその形式を、機械的に訓練された筋肉の助けを借りて自分自身の肉体に定着させ、再現するのである。
だからこの別の流派では、役を生きると云うことは、我々の場合のように創造の主要契機なのではなく、それ以後の芸術的な仕事のための、準備的な段階の一つなのだ。
と、両者の違いを解説しています。
そして、
『俳優は、彼のモデルを想像裡に創造し、それからあたかも画家がするように、そのあらゆる特徴を取って、それをカンヴァスならぬ彼自身へと移すのである』

『俳優は生きるのではない、演じるのである。彼は自分の演技の対象に対しては冷静であるべきであり、そして、彼の芸術は完璧でなければならない』
というコクランの言葉を引用し、
彼はタルチュフ(モリエールの戯曲「タルチュフ」の登場人物)の衣裳と見ると、それを自分の身に付ける。彼の歩きつきに気が付くと、その真似をする。彼の人相と見ると、それを自分に当てはめる。
タルチュフが使うのを耳にした、その声で話す。自分自身を、それらに当てはめるのだ。
そして彼は、自分が組み立てたその人間を、タルチュフらしく、動き、歩み、身振りをし、聞き、考えるようにしなければならない。
換言すれば、自分の魂をその人間に引き渡さなければならないのである。
そして【再現の芸術】は、コクラン自身が云うように、それが芸術であるべきならば完璧を要求する。
と、【再現の芸術】を部分的(前出の役の心理を経験する過程)には認めながらも、反対する立場を取っています。
その理由は他でもない、『創造の瞬間に生きるのではない』という部分です。
【役を生きる芸術】が、演技者は創造の瞬間に[虚構の世界で本当に生きる]のに対し、【再現の芸術】は[かつて生きていたものの外形を再現する]という見解です。

そして、
再現派の俳優は、内的経験を経てやって来た情緒をぬきにして、その外形だけを表現しようとする。
しかしこのタイプの演技は、美しくはあってもそれほど深くないし、真に力強いよりは、むしろ表面的に効果があるのだ。
そこでは形式の方が、その内容よりもより興味がある。
それは観客の魂よりも視覚や聴覚により多く訴える。
従って観客を感動させるよりは、興奮させ、喜ばせるのである。

観客はこの演技によって、大きな印象を受ける事ができる。
しかしその印象は、観客の魂を暖めることもなければ、深く浸みいる事も無いであろう。
その効果は鋭いが、しかし永持ちはしない。
観客の信頼よりは、驚異が目覚めさせられるのだ。
ただ、芝居じみた美しさか、写しの絵のような哀れさが、このタイプの限界なのである。

デリケイトで深い人間感情は、こういった技巧の手には負えないのである。
そういうものは、これが生きたまま観客の前に現れる、その刹那の、自然な情緒を要求するのだ。
それは自然そのものの、直接的な協力を要求するのである。
と、まとめています。

◇        ◇        ◇

さて、コクランの『俳優藝術(L'art du Comedien)』を読むと、その俳優論・芸術観は、戯曲に対する取り組み方・俳優の装備(明晰で幅の広い物言いや訓練された肉体等)・リアリズムの為のリアリズムについての考察に至るまで、根本的にサルヴィニやK.Sと、ほとんどと云っていいほど同じ主張である事に驚きます。

差異が見えるのは、コクランの主張が『「第一の俳優」が「第二の俳優」を完全に支配下に置く』と云う部分に力点が置かれ、「感情」についてはほとんど触れられていない事と(感情に触れた部分もコクランの例題が極端なうえに上記の目的を主眼として利用された事、また実地の感情面についての建設的な教示や解説が無かったのは残念なことです)、第二の俳優(楽器としての俳優)の『全て』を、完全にコントロールする事が出来るという前提のもとに書かれていることです。
(その極端な例題については、K.Sも同じ主張をしていますし、感情の流れとそのコントロールについては、オセロウの台詞を用いての【パースペクティブ】の解説で詳細に論じています)

この『全て』と云う部分が感情や心理的状態をも含めてしまうため、システム用語で云う【パースペクティブ】を、「支配下に置く」とするのか、サルヴィニの言葉の様に「均衡を保つ」とするのかで受けるニュアンスが違ってしまうのですが、『俳優藝術』を読む限りでは両者の目指すものは同一と考えられます。

(上記のニュアンスの差は、『役の中に入る』か『役の陰に隠れる』かという、例の有名な演技論の対立と同じ事なのですが、それに対するK.S派の主張は、B・ザハーヴァの『役と俳優の完全なる一体化などと云うものは有りえないと云う事を前提とした上で、創造の瞬間における両者の融合を目指す』と云う言葉が一番明快に示しています)


俳優教育をシステマティックに確立しようとしていたK.Sは、この微妙な差異を、俳優の内的属性に関する限りは見過ごせなかったのでしょう。
また、K.Sが『俳優藝術』を研究したのが1913〜4年とありますから、当時の翻訳事情による不完全な翻訳や訳者の力量が、必要以上の誤解を生んだのかも知れません。
(『生きる』と云う言葉にしても、コクランの云う『生きるのではない』とは『まったくの現実として生きるのではない』と云う意味であり、K.S派の云う『(虚構世界に)生きる』とは、根本的にその意味が異なります)

さらに両書が、当時の両国の演劇事情や、大勢を占めていた演技法に対するアンチテーゼであったことも考慮しなければなりません。
その結果は両者ともかなり厳しい論調となり、それが双方の見解をより異なるように感じさせる要因になったのかも知れません。
特にK.Sに関しては、俳優修業の第一部と第二部では全く逆の主張をしているように感じられる部分があるのも、そのためでしょう。
(それこそが、多くの人に【システム】を難解にしている理由でもあるのですが…)


よって、俳優修業の第一部で述べられている【再現の芸術】は、ある生徒の演技を例題として、一般的な再現派の俳優(つまり、コクランの『完璧』の域に達していない)の演技に対する、若しくは、(例え【役を生きる芸術】を目指していたとしても)期せずしてそうなってしまった演技に対する警告と解説と捉えた方が正しいでしょう。

演技の流派と云われるジャンル分けを別にしても、稽古の中で、偶然にも一、二回成功すると、その成功した結果(台詞廻しや仕草などの外的部分)のみを定着させようとする人は、実に多くいます。
否、演技を学ぶ人のほとんどが、普通はそういう道をたどると云った方がいいでしょう。
そして結果は、その技術・技巧が『完璧』ではないために(と云うよりも、コクランの技術と才能がないために=外的なものから内的過程を呼び出すことが出来ないために)、出来の悪いものになってしまいます。
内的過程を辿らずに外形だけを再現しようとする方法は、仕草や身振り・言い廻しや声色などの外的効果が目立つが故に、多くの演技者が陥りやすい罠となるのです。


#補足ですが、K.Sは『演技の流派』を解説した最後に、
しかしながら我々が、芸術をいくつかのカテゴリーに分類できるのは、ただ理論上のことにすぎないのだ。
実地ではあらゆる流派の演技が混在する。
偉大な芸術家が人間的弱点のために機械的演技に成り下がったり、機械的な俳優がしばらくは真の芸術の高みに昇ったりするのを見かけると云うことは、不幸にして本当なのである。
肩を並べて、我々は、役を生きているところ、機械的演技のところ、利用のところを見かけるのだ。
だからこそ俳優にとっては、芸術の限界を見究める事がはなはだ必要なのである。
とした上で、
したがって俳優は、機械的演技が何%、再現が何%、生きているところが何%かと云うことで、評価されるのだ。
とまとめています。
コクランの『俳優藝術』については、時間的にもスペースの都合からも、とても論じきれるものではありません。
是非、一読をおすすめします。



【最少抵抗線】

俳優の、役を準備する過程及び表現する過程では、多くの【創造的状態の要素】とそれを操る技術的手段が必要になりますが、それらを極限まで拡大し維持することは容易ではありません。
そんな中で、(意識的・無意識的を問わず)俳優にとって安易なやり方で目的を遂げようとする方法(若しくは状態)を総称して、最少抵抗線と云います。
それは、創造的想像力・真実の感覚・交感・適応・性格描写など、あらゆる要素に現れる罠で、俳優は常にこれと戦わねばなりません。

一例として、俳優修業では外的性格描写に関する最少抵抗線を、こう解説しています。
役に関係のある情緒や性格を自分自身のうちに求め選ぶという事と、自分のよりやり易い手段に適合するように役を変更するという事との間には、大変な相違があるのだ。

ある俳優は自分の顔やプロポーションに絶大な自信を持っていて、それが確かに魅力的なものだから性格描写など無用と考えている。彼等はあらゆる役を彼等自身の個人的魅力に適応させるのである。
また、自分の魅力に頼る別のタイプもある。彼等は自分の魅力が、自分の感情の深さや、それを体験する場合の神経質な激しさにあると信じている。
彼等はどんな役をやるにもそれを拠りどころにし、自分の一番強い、生まれながらの属性で役を飾るのだ。
最初のタイプが自分の外的属性に惚れているのに対し、後のタイプは自分の内的性質に冷淡ではいられないのである。

もう一つ、別のタイプがある。この経験のある、年季の入った俳優は、彼のオリジナルな流儀、紋切型を自分流に見事に調理した特別の珍味をもっている。
ある役の場合には、彼の演技は深い性格描写や、『大きな役作り』と誤解され喝采を得るのだが、彼のほかの役を見ていくにつれ、その変わり映えしない珍味こそが不満なのである。

またもう一つ、自分で紋切型を作り出すことは出来ないが、世界中のあらゆる紋切型や技巧に精通しているタイプもある。彼等の役は、紋切型や技巧さえマスターしていれば他の誰がやっても同じになるような、観念的な、類型的なものなのである。

これらは全て、最少抵抗線である。
彼等は自分における役ではなく、役における自分を愛しているのだ。

最少抵抗線を辿る俳優、殊に女優というものが、美しい、高貴な生まれの、心優しい、センチメンタルな役を好むのに対し、性格描写を好む俳優というものは、悪人や、頓馬や、内面的に複雑な人間には、形象のより鋭い輪郭や、より多彩な様式や、より大胆で生き生きとした肉づけなど、芸術的により効果があり、観客の魂により深い痕跡を残すものの余地があるということで、そういった役を好むのである。


−[シ]−

【システム】

所謂【スタニスラフスキー・システム】の事を指しますが、それはK.S自らが云っているように、誰かがでっち上げたり発明したりしたものではありません。
創造活動は本来人間の持っている自然な欲求の一つなのですが、人がある特定の条件の下で何かを表現しようとする時、そこにはそれを阻害する要因もまた潜んでいます。大抵はこれらの悪影響から、緊張して何も出来無くなるか、これみよがしのやりすぎに陥ってしまうのですが、しかし名優と呼ばれる人達はそれらの呪縛から逃れ、芸術的な創造活動を行う事が出来ます。

K.Sは[創造活動を阻害する要素]と[それらから逃れる方法]を徹底的に研究し纏め上げました。それが【スタニスラフスキー・システム】と呼ばれるもので、それは【創造活動に於ける自然の法則】であり、[人間が本来持っている創造的自然を解き放つため]の、そして[芸術的な形式で形象を創造し、表現するため]の訓練、更には劇場や俳優の倫理等が体系化された、一つの生き方です。

俳優修業等の中にはもっと実際的な演技・演出記録等もでてきますが、これらの演出記録と【システム】は本来分けて考えるべきでしょう。それらの記録はその時代、戯曲、様式、上演の目的等によって左右されるもので、その記録だけから【システム】自体を論じることは不十分です。
(勿論それはそれで素晴らしい一つの結果であり、証明でもあるのですが)
これはワフターンゴフが【システム】を基盤に据えながらも当時のモスクワ芸術座の方向とは正反対とも云える上演によって大成功を納め、【システム】はあらゆる様式の上演に於いて有用であると証明した事、そしてそれを一番理解し、祝福していたのがK.Sその人だったという事実によっても明らかでしょう。

#K.Sは死の直前まで自分の研究に対する探求を怠りませんでした。従ってシステム自体も成長を続け、彼の死後発表された文献や稽古場の記録などにより、更に進化したシステムを窺うことが出来ます。


【種子】

役の種子、戯曲の種子、行動の種子、等という使われ方をします。
これは戯曲なり、それぞれの役なり、あるいはある行動なりを生み出す大元になるもので、【超目標】がゴール、【貫通行動線】が道程とすると、【種子】は出発点ということになります。

例えばある人物がAという行動を取ったとしましょう。
なぜ彼はBでもCでもなくAという行動を取ったのか? 世の中には同じ状況でBやCという行動を取る人もいるのに、なぜ彼はAなのか? と考えたとき、このAという行動を彼に取らせたものこそが【種子】であり、違う言い方をすると、Aというのは種子が育っていく過程で生まれた現象なのです。

上記の例はいささか単純すぎるたとえですが、実際には戯曲全体を貫く彼の行動や、台詞に表れた、あるいは隠された彼の思想や信念などを、あるいは戯曲の背景となる社会情勢や、戯曲のライトモチーフとなった劇作家の主張やテーマなどを、様々に照らし合わせて研究しなければなりません。
つまり【種子】とは、役なり戯曲なり行動なりを、そこにそうあらしめている本質、それらの根源であり、種子を発見する事、そしてそれをどう育てていくかということが重要になってくるのです。


【消化】

消化とは、演技者が、自分が演じる役(及び戯曲)を研究し準備する作業、若しくはその過程の或る部分を指します。
これには内面的な側面(心理、情緒、内的目標、ポドテキストの研究等)と、外面的な側面(身体的な消化=或る特徴的な役の研究、例えば老人の動き方の研究だとか、或る民族に特有の仕草や話し方の研究、あるいはト書きで指定された動きやポーズの研究等)がありますが、それらを綜合した[戯曲の研究・役の準備]ということです。
【俳優修業】の中で、知り合いの外的な身体的特徴を役に利用しようとして、単なる外的模倣に陥ってしまった学生に対し、
君は何よりも先ず、モデルを消化すべきだった。これは複雑である。君はそれを、時代・時期・国・生活状態・背景・文学・心理学・魂・職業・社会的地位・外観等の見地から研究するのだ。そればかりではない。君は、習慣・態度・動作・声・物言い・イントネーションと云ったような性格を研究しなければならない。
と、教示しています。

【情緒的記憶】

俳優が演じるときに必要な、人間の様々な情緒、若しくはそれら情緒の保管庫の意味で、俳優にとっては大変重要な要素。
よく五感の記憶と混同されるが、五感の記憶はあくまでも情緒的記憶を誘い出す、若しくは情緒的記憶に近づくためのもので、その代わりになるものではないので注意が必要です。
この要素も後に「俳優がある状況を本能的に捉えられない場合には、感情に直接働きかけるべきではない。情緒的記憶は、無意識のうちに演技に持ち込まれるべきものなのだ」と、厳しい制約を付けられました。
これは逆に言えば、「本能的に捉えられるように、普段から自分自身の装備を調えておきなさい」という教示になります。
◆関連バックナンバー: 06/06/30配信 087号 等

【身体的行動】

俳優の創造活動に於いて、外面的(身体的)に現われる行動を指しますが、例え「こんにちは」と云うような至って習慣的な言葉や動作でさえも(意識的、無意識的と、どちらの場合であっても)本来外面的行動と内面的行動を切り離して考えることは不可能なので、身体的行動は内面的行動の顕在と云えるでしょう。
俳優修業では
すぐれた作品では、いたって単純な行為でさえも、重要な付随的条件に取り巻かれていて、その中に我々の情緒を刺激するたくさんの餌が隠されているのである。
我々芸術家は、小さな身体的行動でさえも【与えられた環境】の中に入れられた場合には、情緒に対するその影響によって大きな意味を持つということを理解しなければならない。
小さな身体的行動が、大きな内的意味を持つのだ。大きな内的葛藤が、そういった身体的行為にはけ口を求めるのである。
と、誠実な身体的行動が情緒に影響を与え内面的行動を強化すること、また大きな内的葛藤の結果がそういう身体的行動となって現われるという、外面的行動と内面的行動の相互関係を解説しています。

また、誠実な身体的行動(=与えられた環境の中で、自分が行っている事に対する信頼と、真実の感覚に裏付けられた身体的行動)に関して
舞台では、走らんが為に走ってはならないし、悩まんが為に悩んではならない。
「漠然」と行わんが為に行ってはならない。いつでもある目的をもって行うことである。
演技には、身振りのための身振りに過ぎぬものは一つもあってはならない。俳優の動作は常に目的を持ち、役の内容と関係づけられていなければならないのだ。

舞台では、どんなことがあっても感情のための感情を喚起することを直接目指した行動というものはありえないのである。この規則を無視することは、一番嫌らしいわざとらしさに終わるだけだ。
何かちょっとした行動を選ぶ場合には、感情や精神的内容を気にかけてはならない。決してそのこと自体のために妬んだり、愛しがったり、悩んだりしようとしてはならないのだ。
そういった感情は全て、ある先立つものの結果なのである。その先立つものについてこそ、俳優はできるだけ心を砕くべきだ。結果のほうは、これはひとりでに生まれるだろう。

それこそ一番悪いことは、まだ生きた感情の詰まっていない役のあらゆる隙間を紋切型が埋めようとすることである。
と解説しています。


【身体的行動の方式】

晩年、K.Sは「あなたの演技システムとは、一言で言うとどういうものですか?」という質問に「それは身体的行動の方式です」と答えています。

俳優が感情に直接近づいたりコントロールすることが難しいならば、間接的な方法でもって解決しようという観点から様々な内的準備の方法が検証され、単純で誠実な身体的行動を『感情をおびき出す餌』として使う方法が、間違いも少なく取っつきやすいやり方として確立してきました。

これをもう少し詳細に言えば、「【与えられた環境】と【魔法のもし】による鮮やかな前提状況、能動的かつ魅力的な【目標】、力強い【貫通行動線】等々で満たされた『正しい【創造的状態】』の中で、【行動の論理(ロジック)】に従いましょう。そうすれば【感情の論理(ロジック)】もそれに続くでしょう」というものです。

システムでは行動という言葉が重要な意味を持ちます。
つまり、紋切り型や機械的演技のような「フリ」をするのではなく、役の人物として本当に行動することが大事なのですが、それをもう一歩進めると、行動はそれ自体が重要なのではなく、それが感情をおびき出す餌(囮)として機能することが重要なのだということになるのです。

◆関連バックナンバー:06/01/12配信 076号〜

【信頼と真実の感覚】

自分を取り巻く虚構世界の出来事や、そこでの役の人物としての自分自身の行動に対する、虚構的な信頼と虚構的なリアリティという意味で、言葉遊び的ですが、現実感(現実的リアリティ)ではなく真実感(虚構的リアリティ)とでも言えばいいでしょうか。
この要素も「真実でないものの感覚」を含めて、「魔法のもし」や「与えられた環境」、「パースペクティブ」、「抑制」等々、システムの全てに関わっている大変重要な要素です。

◆関連バックナンバー: 06/06/30配信 087号 等



−[ス]−


−[セ]−

【正当化】

正当化とは、役や戯曲、そしてその上演に関する付随条件も含めた与えられた環境において[演技者が行うべき全ての行動]を完全に自分のものとする事を意味します。
つまり目標や行動に対する根拠(場合によっては様式に対しても)、正しい動機付けと適応を見つけだすという事です。
これは普通消化の後に(場合によっては同時に)続くもので、[消化したもの]に血を通わせる作業とも云えるでしょう。


【潜在意識閾】

意識と潜在意識の間の閾(敷居)と云う意味ですが、実際には一本の線でそれらを分けるなどと云うことは出来ないので、それらが解け合うようなグラデーション的領域と云ったニュアンスでよいでしょう。
俳優修業では俳優が感じる意識と潜在意識の差を
我々が潜在意識の領域へ到達すると、魂の眼は開かれて、我々はあらゆることに、細かなディテールにまで気がつくようになり、それが全てまったく新しい意味を持つのである。
我々は役と自分自身との両方として、新しい感情や、概念や、ヴィジョンや、態度を意識するのだ。 我々は、『潜在意識閾』を越える前と後とでは、違った風に見たり、聞いたり、理解したり、考えたりする。前には、我々は『本当らしい感情』を持つのだが、後では『情緒の誠実さ』を持つのだ。そのこちら側では想像の単純さを持つのだが、あちらでは、より大きな想像の単純さなのだ。そのこちら側での我々の自由は、理性とコンベンションで制限されている。あちら側では我々の自由は大胆で、意志が強く、能動的で、何時でも前へ進んでいる。
と解説しています。


【潜在意識的創造】

俳優が正しい創造過程を辿るとき、彼の内部には新しい人格が生まれます。それは『俳優としての彼自身』と『役の人物』が融合した、形象としての彼自身です。
その新しい人格は戯曲中の出来事を近しく感じ、意識的に計画された役のスコアをごく当たり前の事として受け止めて、役の情緒や目標を実感して誠実に行動するのです。
一般的に「役になりきる」と云われる状態ですが、実際にはこの状態はそんなに長く続くものではありません。少なくとも「最大の潜在意識的創造」はほんの一瞬の出来事で、それは霊感とかインスピレーションと呼ばれます。しかしインスピレーションはその後も潜在意識に影響を及ぼすので、それが強ければ強いほど、そしてその瞬間が多ければ多いほど、俳優が潜在意識閾に留まり潜在意識的創造に恵まれる機会は多くなるのです。
ただし、ワフターンゴフが
インスピレーションとは、意識が集めた材料を潜在意識が自動的・反射的に使うことである。
と云っているように、戯曲と役の目的に合致したインスピレーションを呼ぶためには意識的な正しい準備と過程が必用であることは云うまでもありません。
システムでは、これが創造活動に於ける重要な原理であり、意識的技術を媒介とする無意識的創造と教えています。


−[ソ]−

【創造的想像力】

俳優修業では、
舞台には事実というようなものは一つもない。芸術は、劇作家の作品がそうあるべきなのと同じく、想像力の産物なのだ。
俳優の使命は、自分の技術を使って戯曲を演劇的リアリティに転化させるということである。
その過程においては、想像力がとてつもなく大きな役割を演ずるのである。
と述べて、一章を割いています。

【与えられた環境】や【魔法のもし】の源となる力としても、また身体的行動の根拠となる内的リアリティに対しても、想像力・空想力は大変重要な要素で、俳優は常にそれを鍛え、それを働かせる術を獲得しなければならないわけですが、その性質についても注意しなければなりません。

それは、戯曲や、役や、あれこれの行動に対する冷静な分析の結果ではなく、それらを行動に転化できるだけの能動性を持っていなければ俳優にとっては意味がありません。
そういう、俳優にとっての実際的な創造過程のエネルギーになる能動性を持った想像力を、特に【創造的想像力】と呼んでいます。

◆関連バックナンバー:03/10/14配信 018号〜

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