スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 126〜

08/06/09配信 126号
君は、言葉が、君の経験する情緒のいたって微妙な陰影を残らず表現しつくすことが出来ると思うのかね?
そんなことはない! 我々がお互いに交感している時には、言葉だけでは足りるものではない。
もしも我々が言葉に生命を宿そうと思うなら、我々はそこに感情を融合させなければならない。
感情は言葉が残した余白を埋め、言わずにおかれたことを完成させるのである。


前回少し触れた、教師の
我々はあらゆる形式の交感において、自分自身との交感においてさえも、適応の多くの方法に訴える。
それというのも、我々は必然的に、その時々に我々がおかれる精神状態を斟酌しなければならないからである。
という教えに対し、ある生徒から
しかし、結局は言葉というものが存在していて、そういったものをみんな表現します。
という意見が出ます。
今回の言葉はそれに対する教師の答えで、特に補足解説もいらないほどわかり易い、含蓄のある言葉でしょう。

本来は【内的行動】が言葉という【言語的行動】となって現れたものが台詞としてテキストに書かれているのですが、その台詞を生み出したものがないままに物言いを取り扱おうとすると、言葉が残した余白を埋める事が出来なくなります。

この辺りのことは、後日【ポドテキスト】と言う要素で触れると思いますので、今は『言葉を生かすためには、情緒的なものが言葉が残した余白を埋めなければならない』と言う事、そこには『役の人物としての正しい内的生活によって多種多彩な【適応】が生まれてくる』と言う事だけ覚えておいて下さい。

# 上記の例は言葉(台詞)についてのものですが、これは身振りや仕草にも同じように当てはまります。
08/07/08配信 127号
諸君の表現するあらゆる感情が、それを表現する時には、その感情特有の、そこはかとない適合の形式を要求するものだ。
我々が交感する時には、我々の五感の全てと我々の内部及び外部組織の全ての要素を使う。
我々は放射線のやりとりをするし、眼や顔の表情、語調・語勢といった物言いの様々な変化、身振りや仕草などを使うが、何をするにせよ、あらゆる場合にそれ相応の適応が必要なのである。


俳優修業のレッスンでは、前回の教示の後「そうすると、余計に手段を使えば使うほど、他人との交感は強烈に、完全な物になるのでしょうか?」という質問が生徒から出ます。
これに対し教師は「それは量の問題ではなく、質の問題だ」として、俳優個々の持つ資質や性質と、それらが交感や適応にどう用いられるか(用いられるべきか)についての説明に移ります。

この辺りの詳細は俳優修業を参照いただくとして、今回配信の言葉はその一番根本的な部分だけにしました。
適応という要素は目立ちやすいものだと言うことは度々書きましたが、「余計に手段を使えば使うほど、他人との交感は強烈に、完全な物になる」と考える人もよく見かけるところです。
(もっとも多くの場合は、交感を強めるのが目的ではなく、観客に印象を与える事だけが目的になるようですが…)

少し芝居に慣れてきた人は、棒読みの台詞、表情や身振り・仕草の無い芝居は良くないと言うことがわかるので、「表現」をし始めます。
しかしこれは大抵、その時々の役の人物の本質とは無関係のところから取ってきた目立った特徴を自分の役に貼り付けて空白を埋めようとするようなもので、正しくない適応や適応のやり過ぎ(適応のための適応)となり、役の人物を汚くしてしまうのです。

そうではなく、特に小さな意味での与えられた環境の中では【適応】は【交感】や【行動】のための手段や有り様に過ぎないと言うことを理解し、『それ相応の適応』、つまり役の人物として(更に言えば、自分自身の持つ資質や性質が役の人物と融合した『形象としての人物』として)まさしくそうであろうというような適応を見つけることが大事なのです。

また、大きな意味での与えられた環境の中では、適応には観客に対する効果的な表現方法や上演様式といった要素も考慮に入れなければなりませんが、その場合も最初の意味の適応が正しくできていることが前提となります。
この辺りはサルヴィニの『俳優の二重性』に関する教示が端的でわかりやすいでしょう。
08/07/29配信 128号
この、適応の無限の変化というものは勿論重要だけれども、しかしもしも力点が、目標よりもむしろ(適応の)変化そのものに置かれるようであれば、それは有害になりかねないのだ。
その場合には、彼の目標の名前が『厳しい調子でこれこれの目標を達成したい』から『厳しくしてやろう、厳しさを印象づけてやろう』にすり替わっていることがわかるだろう。
しかし、諸君がすでに知っているように、厳しくするにせよどうするにせよ、ただそれ自身のためにそうするのであってはならないのである。
(構成)


俳優修業のレッスン風景は、前回の教示の後、
  • 稽古では生き生きとした適応を見せる事もあるが、芝居が進行して、より効果的な適応が要求される場面でその能力が失われてしまう俳優。或いは稽古中は良いけれども、いざ本番という段になると観客の磁力に負けてしまう俳優
  • 良い適応の才能を持ってはいるが、それが一面的で種類に乏しい俳優
  • 例え正確ではあったとしても、奔放さや魅力に欠け、単調で退屈な適応しかできない俳優
と幾つかの俳優の例をあげて、『彼らはその道の一流になることはけっしてできないのである』と解説します。
そして一人の生徒に罠を仕掛け、わざと間違った演技を体験させてから、何故そんなことが起こったのか、何故それは良くない事なのかという解説に入ります。
詳細は俳優修業を参照していただくとして、今回の教えはその核心部分であり、また前回の補足解説に関連する事項となります。
この辺りの教師の言葉が大変分かり易い例なので、少し長くなりますが今回の言葉の前の部分を引用しておきましょう。
素晴らしい適応をすることが出来るくせに、そういった手段を彼らの感情を伝えるためよりは、むしろ観客を喜ばせるために使う俳優を、私は何人も知っている。
彼らは彼らの適応力を、ちょうどワーニャがやったように、個々の芸当に傾けるのである。
そういったばらばらなものの成功は彼らの頭を狂わせる。
彼らは、喝采の爆発や、笑い声の歓呼を受けることの興奮のために、全体としての役を犠牲に供して悔いないのである。
えてしてそういった特殊な瞬間は、戯曲とはなんの関係も持っていない。自然、そうなるとそれらの適応はすっかり意味を失ってしまう。
だから、それは俳優にとって危険な誘惑であると云うことがわかるだろう。

全体が、適応を悪用する機会だらけの役があるものだ。オストロフスキイの戯曲『上手の手から水が漏る』とママイエフ老人の役をとってみたまえ。
仕事がないものだから、彼は、誰彼を問わず、人をつかまえては説教をして、明け暮れを過ごしているのだ。
五幕物の間中、他人に説教のしずめで、年中、同じ思想や感情を伝えるという、たった一つの目標を固執すると云うことは生易しいことではない。
そうなると、千篇一律に陥るのは実になんでもないのだ。
そいつを避けるために、多くの俳優が、この役では、他人に説教をするという主想の千変万化の適応に努力を集中するのである。
この、適応の無限の変化というものは〜
(以下、今回配信分に続く)
尚、『それ自身のためにそうするのであってはならない』03/05/08配信 003号〜004号 の教えにも通じるシステムの基本的なもので、ここで邪道に陥ると 08/01/31配信 119号 の解説で触れた『【システム】の濫用』と云う事になってしまうので十分注意が必要です。
08/08/22配信 129号
大多数の俳優が、普通の人間としては我々が途方もなく莫迦げていると考える行為を平気でやってのけるものだ。
彼らは舞台で自分の相手役と並んで立っていながら、彼らの表情や、声や、身振りや、行動を全て、自分と他の俳優との間の距離(=関係)ではなく、誰にせよ、自分と平土間の最後列に腰掛けている観客との間の距離(=関係)に適合させるのである。(中略)
舞台というものは、観客がそこにいるために、俳優を、状況に対する自然な、人間的な適応から逸らせがちで、彼らを月並みな、芝居じみたやり方の方へと誘惑するものだ。
そういうものこそ、我々があらゆる手段を尽くして闘って、演劇から一掃してしまわなければならない形式なのである。

(構成)


俳優修業のレッスンは前回の教示の後、
諸君がそういうことをすると、諸君の感情や行動は消え失せて、わざとらしい、芝居じみたもので取って代わられるだろう。 戯曲が交感させようとしている人間と向かい合っているくせに、何か他の注意の対象をフットライトの向こう側に探し出して、その対象に適合しようとすることが俳優には実に良くあるのだ。 彼らの外的交感は舞台上の相手役と行われているように見えるかも知れないが、しかし本当は観客に対して行われているのである。
と前回の教示を補足し、さらに今回の教えにつながっていきます。
中略部分は
しかし僕は、何でも聞こえる前列に腰掛けるだけの余裕がない、気の毒な人のことを考えてやりたいのです。
という生徒の意見に対し、
君の第一の義務は、君の相手役に適応することである。後列の気の毒な人については、我々は彼らに届く特別な方法を持っているのだ。
我々は正しく決めた声を持っているし、母音と子音とを明瞭に発音する、良く準備した方法を使うのである。
正しい物言いをすれば、君はまるで小さな部屋にいるみたいにそっと話してもかまわない。その気の毒な人たちには、君が金切り声を出すよりも良く聞こえるだろう。
殊に、君が、君の言っていることに対して彼らの関心を喚起し、彼らに君の台詞の内的意味を見抜かせるようにしておくならばだ。
もしも君が怒鳴り立てるようならば、静かな調子で伝えられるべき君の泌々とした言葉はその意味を失って、観客は言葉以上のものを探る気にはならないだろう。
と答え、更に、
でも、観客は行われている事を見るべきです。
と言う意見に、
その目的のためにこそ、我々は、持続的な、かっきりした、論理的な行動を使うわけだ。観客に、起こっていることを理解させるのは、それなのである。
しかしもしも俳優が、彼ら自身の内的感情を、人目は惹くかも知れないけれども、しかし本当には動機付けられていないような身振りやポーズで裏切るようなことをすると、そういったものは観客に対しても相手役に対しても生きた関係は持たないので、そんなことが繰り返されるようだと観客はすぐにウンザリし、俳優についていくのがイヤになるだろう。
として、今回の言葉の後半の部分につながってゆきます。
この辺りの事は、教師の含蓄のある言葉が全てを表しているので下手な補足は必要ないと思いますが、相手役との関係(交感と適応)と観客との関係(伝達・表現形式)については、【与えられた環境】や【注意の圏】でも触れた、大小2つの与えられた環境の関係と置き換えて考えればより分かり易いかと思います。
ここでも、サルヴィニの言う『俳優の二重性』が参考になるでしょう。
また、『その目的のためにこそ、我々は、持続的な、かっきりした、論理的な行動を使うわけだ』というのが、まさしく【身体的行動の方式】となるわけです。

そして、正しい物言いや身体的行動等に関する技術や訓練は、創造や表現とは別のレベルで、つまりもっと以前の基礎過程としてしっかり修得しておかなければならない、という事もあらためて付け加えておきましょう。

尚、今回の教示は台詞や身振り・仕草といった外的行動が例としてあげられているために『観客との距離』と言う表現をしていますが、その根底にあるのは『役の人物が何故そういう台詞を喋り、そういう身振りや仕草をするのか』という内的行動なので、筆者注として『距離(=関係)』としています。
つまり、【適応】が存在するには先ずその対象に対する【交感】が存在しなければならず、【交感】と【適応】は表裏一体を成すというわけです。
この関係がおかしくなり、【適応】が邪道に陥って【交感】が歪められてしまうと、本文にもあるように芝居じみた【紋切り型】や、更にひどい場合には【芸術の利用】になってしまうので、K.Sは厳しい論調で警鐘を鳴らしているのです。
08/09/10配信 130号
適応は、意識的にもなされるし、無意識的にもなされる。
(中略)
けっしてそれ(=意識的適応)を、諸君に差し出されたままの形で受け入れてはならない。諸君はそれを、諸君自身(=俳優自身としても、役の人物その人としても)の必要に適合させ、諸君の本当の一部としなければならないのである。
それをやり遂げることは、与えられた環境と(魔法のもしによる)刺激との全く新しい一組を含む、大仕事を企てることだ。
もしも諸君がそれを単に模写するだけならば、諸君は上っ面だけの、型通りの演技という間違いに陥るだろう。

(構成)


俳優修業のレッスンは「適応は、意識的にもなされるし、無意識的にもなされる」として、適応という要素の、更に踏み込んだ解説に入ってゆきます。
先ずは『無意識的な適応』について触れ、
それは、情緒が高潮に達したその瞬間に、自然に、自発的に、無意識的に作り出される。
はなはだ直線的で、生き生きとしていて、人をうなずかせるこのタイプの適応は、我々が必要としている効果的な方法を代表するものである。
その力はどこにあるのだろうか? それは、その圧倒的な『思いがけなさ』にあるのだ。
として、例をあげて解説します。
この辺りは引用するとかなり長くなるのでメルマガでは中略しました。是非俳優修業を再読して下さい。
また、インスピレーションについての教示(特に06/12/22配信 097号など)でもすでにこの問題に触れているので参照して下さい。

そして、
私は、日常生活では、どんなにわずかでも、何か潜在意識の要素を含んでいないような意識的適応は一つもないと断言できる。
それにひき替え、舞台では潜在意識的な直感的適応が幅をきかせていると思うだろうが、私は絶えず完全に意識的な適応にお目に掛かるのだ。
それが、俳優のゴム判なのである。
使い古して擦り切れてしまった役には、いつでもそれが見られる。
あらゆる身振りが、表情が、台詞回しが、声色が、極度に自意識的なのだ。
(構成)
として、『意識的適応』の悪しき状態を解説し、適応を他者から与えられたり暗示された場合の注意点として、今回の言葉の後半部分に続いてゆきます。

この後半部分については 08/05/19配信 125号 の内容と全く同じものとなります。
繰り返すと、自分が見つけ出したものにせよ他者から与えられたものにせよ、適応を生かすためには演じる度毎にあらためてそれを生き直すと言うことが必要だ、と言ういつもの教えです。

また、125号の内容を含めて更に言えば、システムの三大原理の一つ『意識的技術を媒介とする無意識的創造』に照らし合わせると、『意識的適応を媒介とする無意識的適応』にこそ真の力強さがある、と言う事になります。
尤もこれは常に『無意識的適応』だけを続けるなどと言うことは不可能なので、『無意識的適応』の生気を注入された『意識的適応』を心がけることにより、『無意識的適応』を生まれやすくする、程度に考えれば良いでしょう。
つまりはこれこそが『正しく演じる03/08/12配信 012号参照)』と言う事になるのです。
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