スタニスラフスキィの遺産 俳優修業の友・補足解説付きバックナンバー 131〜135

08/10/15配信 131号
繰り返す事にしよう。
ゴム判の演技は月並みで、嘘で、生命がない。それは芝居じみたしきたりや因習の中に起源があるのだ。それは、感情も、思想も、人間に特有の、なんの形象も伝える事は出来ない。
それに反して自動的適応は、直覚的で独創的であったものが、しかしその自然さを全く犠牲にしないで、自動的になっているものである。
それは依然として有機的で、人間的なのだから、ゴム判の反対物なのだ。


前回の教示の後、生徒からの「他にはどんな適応のタイプがありますか?」という質問に、教師は「機械的、若しくは自動的な適応」と答えます。
(機械的という言葉は機械的演技と混同する虞があるので、当サイトでは自動的という言葉に統一しています)
続いて生徒の「そうすると、それは型の事ですか?」という質問に、教師は
いや、私はその事を言っているのではない。あれは根絶やしにしなければならないのだ。 自動的適応は、起こりから言うと潜在意識的でもあれば半意識的でもあるし、また意識的な場合もある。 それはノーマルで、自然で、人間的な適応ではあるけれども、それが自動的に行われるところまでいっているものなのだ。
とし、『演出家が理想的な俳優に、無意識的あるいは半意識的に生まれた正しく素晴らしい適応を指摘した場合、俳優はそれを意識的にも感知し、それが習慣的なものになり、やがてはそれが当たり前の、自動的な活動になる』という、このタイプの適応について解説します。
それに対し生徒から「そうすると、それは紋切型の事ですか?」という質問が出ますが、教師は「そうではない。繰り返す事にしよう」と、今回の言葉に続いてゆきます。

今回の教示もシステムで度々繰り返されてきた多くの教示や解説に関係したものなので、『ゴム判の起源は芝居じみたしきたりや因習の中にある』は解説室のゴム判の項を、機械的演技についてもその特徴の詳細は解説室の機械的演技の項を参照してください。

ところで、無意識的若しくは半意識的に生まれた適応であっても、それを他人から指摘されると自動的適応にはなれず、ただただ機械的にその外面的な形骸を繰り返すだけになってしまうというのは、実によく見かける所です。
意識的に生み出した適応が、稽古を繰り返すうちに機械的になってしまうという事もまたよくあります。
これは彼らが『(上手くいった)結果から始めよう』としてしまうからで、それが上手くいった時の過程を省略していきなりゴールを目指す事が原因なのです。
あるいは【目標】自体がすり替わってしまった場合にもよく起こる事です。

こうならないためには、06/01/12配信 076号『行動の論理(ロジック)とその一貫性とを定着させる』という教え、また07/08/02配信 109号『結果から始めてはいけない。結果は、それに先立つものの論理的帰結として、いずれ現れるだろう』という教え等が参考になるでしょう。
両方とも自動的適応について語られたものではありませんが、【創造的自然の本性の法則】としては同じものであり、【身体的行動の方式】に則ったものだからです。

また、『自動的適応は、直覚的で独創的であったものが〜』というのは、シチェープキンの『規範は生活からとる』という教えが正しく働いたものであることにも注意して下さい。
この最高の形を、ワフターンゴフは『インスピレーションとは、潜在意識が意識の関与無しに、それに先行するすべての印象や経験や作業に形を与える瞬間なのだ』と記しています。
08/11/07配信 132号
我々の潜在意識へは直接の通路はないのだから、我々は役を生きる過程を誘致するいろんな刺激を使うのだ。
役を生きる過程が今度は不可避的に、相互関係(=交感)と、意識的あるいは無意識的な適応とを作り出す。
これは、間接の通路である。


俳優修業のレッスン風景は、【適応】という要素の纏めに入ります。
教師は、
適応を有機的に活用するためには、どんな技術的手段(=創造的状態の要素に働きかけ、完全にではないとしてもそれをコントロールする技術)を使う事が出来るだろうか? 直覚的適応(=潜在意識的適応)から考えよう。
として、潜在意識的適応と半意識的適応について解説していきます。

以前『適応という要素は目立ちやすいがために、多くの人が過ちに陥りやすい』という意味の事を書いたように、演技の入門者が犯す間違いで一番多いのが紋切型なら、少し慣れてきた人が嵌る罠がこの【適応】(の誤った用法)です。
しかし今回と次回の教示を理解していればここで過ちを犯す事も無くなると思いますので、ここは特にしっかりと、確実に、自分のものにしてもらえればと思います。

今回の教えは『役を生きる過程』という一言で表された、「正しく、力強く、あるいは鮮やかに、能動的に、その他諸々の理想的な状態にある【与えられた環境】【魔法のもし(若しくは創造的想像力)】【目標(と、必要ならば扱いやすい【単位】への分割)】【信頼と真実の感覚】【(理想的には無意識的に使われるべきである)情緒的記憶】等々によって満たされた【身体的行動】(の連続線)が、当然そこに存在する相手役との正しい相互関係(=交感)を作りだし、これもまた当然正しい【適応】の形を作る」というものです。

(もちろん『表現形式』というものを考えた時には、ここで生まれた【適応】がベストの形式であるとは限りませんが、それはここでは別問題のテーマです。
この問題については『創造した役の、表現のための仕事』に属するのでここでは触れませんが、ワフターンゴフの
感情の真実が無ければ演劇的表現力もあり得ない。
しかし『感情の真実』自体が、それに不可欠な表現形式を生みだしてくれるわけではない。
という言葉が参考になるでしょう)


『間接の通路』というのはまさしく『意識的技術を媒介とした潜在的創造』の原理に則ったもので、【身体的行動の方式】の最もベーシックな教示です。
08/11/29配信 133号
『平静、興奮、上機嫌、皮肉、冷笑、喧嘩腰、非難、きまぐれ、軽蔑、絶望、脅迫、歓喜、優しさ、疑い、驚き、予期、悲運…』
これらの精神状態や、気分や、情緒は、これに何か動機づけを見つけられるならば【適応】の根拠として使えるのである。
ただしそれは、戯曲と、与えられた環境の中にきちんと取り込まれていなくてはならない。
また、俳優はここでも「適応のための適応」にならぬように注意しなければならない。
平静にしろ興奮にしろ、それ自身のためにそうするのであってはならないのである。
(構成)


前回の教示に続き、
半意識的適応を取り扱う場合には、条件が違っている。ここでは、我々はいくらか、我々の精神技術(=【創造的状態の要素】に影響を与える事の出来る様々な手段)を使えるのである。
私がいくらかというのは、ここでだって我々の可能性は限られているからだ。
として、レッスンの例をあげて半意識的適応の解説に入ってゆきます。
そしてそのレッスンの課題を違うバリアントで繰り返して欲しいという要求を出し、それが困難だと主張する生徒に対する教示(=言葉のリストによる一つの方法と、その注意点)が今回配信の言葉になります。

潜在意識的適応が『正しい道程の結果として現れる適応』を解説したものだったのに対し、半意識的適応は『求められる結果を決定事項とし、道程全体の正当化を行う』事の解説と考えれば分かり易いかと思います。
そして、この半意識的適応というのは、我々の仕事では実に多くの機会に必要となるものなのです。

テキストには、A「(上機嫌で)さようなら」と書かれている場合がありますし、ト書きで、──薄暗い部屋。A、興奮して入ってくる── 等と書かれている場合があります。
また演出家や監督から「このシーンは喧嘩腰でやりあって」とか「その台詞はもっと絶望感を持っていて」等というダメが出る場合があります。
これらがあらかじめ決定事項として決められているゴール(=適応)で、そこに到達するためには、俳優は半意識的な適応(=意識的適応を自動的適応に昇華させ、若しくは、意識によって潜在意識のベクトルを指示することによって、要求される適応をなし得る)が必要になるわけです。

ところが多くの俳優は、適応の根拠・動機付け、正当化といった事をすっかり抜かして、テキストの指示や演出のダメだけを直接解決しようとします。
つまり『戯曲と、与えられた環境の中にきちんと取り込まれていない』、『適応のための適応』になってしまうのです。
また、前々回でも触れたように、根源が正しい適応でもそれを他人から指摘されると自動的適応にはなれず、ただただ機械的にその外面的な形骸を繰り返すだけになってしまう場合もあります。

従って、『平静にしろ興奮にしろ、それ自身のためにそうするのであってはならない』と言う言葉を肝に銘じ、『戯曲と与えられた環境の中にきちんと取り込まれた動機づけを見つけられるならば』という但し書きを理解し、正しい創造過程を辿るようにしてください。
そうなれば、この『適応の根拠のリスト』は、『単位の分割の技術(と行動のリスト)』『正しく、能動的な目標選択の技術』と並んで、真に実用的な【我々の精神技術】の一つとして俳優を助けてくれるものなのです。
08/12/22配信 134号
自然主義者はどれもこれも似たようなものだ。一つの芝居を、別の芝居と区別できない。
演技とは、新しい諸関係の中での生活である。実生活にあっては対象が対応関係の起因であるが、演技においては俳優自身が自分の中に、必要な対応関係を呼び起こすのだ。
システムのあらゆる教えというものは、完全な創造的自由へ到達するための道なのである。
(このコンディション(=内部及び外部の、完全に創造的な状態)から外れないようにするには、非常な大胆さが必要である。必要なもの全てを作る芸術的本性というものの支配下に身を置かねばならない。決して、わかりきった事に身を縛り付けてはならない。)
俳優の中に、大胆さを伸ばす事が大事なのだ。
嘘を恐れるな。嘘を恐れては、真実を得ず。(構成)


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俳優修業のレッスン風景は、前回の教示の後に幾つかの補足があり、このあと学ぶ【内的要素】を操る【精神技術】について少し触れて、ひとまずレッスンが【内的要素】の研究の終わりに来た事を知らせます。

ここしばらくは【適応】について触れ、適応の正しい利用に関してはかなり厳しい制限がある事を述べてきましたが、しかしだからといって適応の利用を必要以上に警戒して自然主義のための自然主義になってしまったり、面白みのないありきたりの芝居で終わってしまうのも良くありません。
KSもシステムが自然主義と混同される事を懸念していたのは『システムを巡る論争と俳優修業出版の背景について』で触れましたが、今回はワフターンゴフの教えを構成して引用し(本来はもっと広い意味を持つ話なのですが)、適応の利用に対する補足にしたいと思います。

『適応のための適応』や『消化・正当化しきれていない適応』を警戒しすぎると、選択する適応の幅が狭まり、自然主義的な演技になってしまう傾向があります。
これは今回の言葉のように『一つの芝居を別の芝居と区別できない、ある役を別の役と区別できない(つまり、どの芝居を観ても、どの役を見ても、同じような印象しか得られない)』と言う事になってしまいがちなのです。
(これは自然主義的演技に限った事ではないのですが、後日触れる機会があると思いますので今は割愛します)

しかし俳優と役との関係というものは『上演の意味(=究極の超目標)・その時々の上演様式・それぞれの戯曲・その中の様々な役』に最も適した形象化が理想なわけで、その為には『完全な創造的自由』『大胆さ』が必要になってきます。
それが無いと『その為だけに仕立てた特別な服』ではなく、『吊るしの一張羅』で全てをまかなうと言う事になってしまうわけです。
従って、前回までに述べたような『厳しい制限』が『細心さ』だとすれば、『細心に、かつ大胆に』と言う事を忘れずに、【適応】を大いに有効利用していただきたいと思います。

尚、補足として 05/07/29配信 067号〜069号 の解説も参考にしてください。
ワフターンゴフの様々な教えは、システムを理解すればするほどに重みを増してゆきます。
KSが「システムを教える事にかけて、彼は私以上だ」と言ったのもなるほど頷けるわけです。
09/02/06配信 135号
君の役を感じたまえ。そうすればたちまち君の内部の琴線はみんな和合するだろうし、君の表現の肉体的器官はみんな働き始めるだろう。
だから第一の、そして一番重要な名人は見つかったのだ。それは【感情】である。
しかし不幸にして、これはおとなしくもないし、言うことを聞こうともしないのだ。
たまたま君の感情が(戯曲や役が要求する通りに)ひとりでに働くのでもない限り、君は仕事を始めることが出来ないのだから、君は誰かほかの名人に頼ることが必要なのである。


俳優修業のレッスン風景は、
さて、我々は全ての内的要素と精神技術の多くの方法を検討したのだから、我々の『創造的状態における内部の楽器』は出来上がったと言っていいだろう。
我々が必要なのは、それらを演奏する名人である。
として、新局面の解説に入ります。
このあたりから俳優修業の難解さは急激に増してくるのですが、根本にあるものは今までにも度々出てきたシステムの原則そのままです。

今回配信の言葉は『内的諸要素に影響を与える(もしくは影響される)三つの内的原動力(諸要素よりももう少し大きな単位の、創造的状態の構成・構造関係とでも言えばいいでしょうか)』について述べたもので、K.Sは第一の名人として【感情】をあげています。

これは至極もっともな見解で、役と合致する感情(情緒・情動)が自然に生まれる場合には(表現手段については別とすれば)何の苦労もなくその役を立派に演じられる訳ですが、感情は我々のコントロールに従わないものなので、『感情そのものに直接近づこうとしてはならない。その役と合致する感情が生まれやすい土壌を作ることにこそ力を注ぐべきだ』というのがシステムの原則です。

従って、第一の名人としての感情は、上手くいった演技を検証した時に、『感情は確かにそのように働いていた』程度にとどめるべきで、逆に言えば、『正しい創造的状態の中では、感情は大きな内的原動力となり得る』という解釈でよいでしょう。
(テンポ・リズムが感情に与える影響についてはここでは触れませんが、07/05/22配信 105号〜 の『外的演出が感情に与える影響』と同様のものです)

俳優というものは、とかく感情に直接近づきたがるものなので、いくら感情が第一の名人だとはいえ、この点は十分に注意しなければなりません。
もう一度、この教えを引用しておきましょう。
諸君が演技のこの第三の原理(情緒の誠実なこと、与えられた環境で真実だと思われる感情)を使う場合には、諸君自身の感情のことを気にかけてはならない。 なぜならそれは大部分が潜在意識的に起こるもので、意識的な直接の命令には従わないものだからだ。 諸君の注意を全て【与えられた環境】に向けたまえ。 それはいつでも、手の届くところにある。
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